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第72話・忘れられるか(杉野目線)
「藤ヶ谷さん? 何かありましたか?」
言葉を紡ぎながらも、隣にいる山吹の言葉が頭をこだましている杉野であったが。
次の瞬間、全てが飛んでいった。
「……ん、ぁっ」
喘ぐような甘い声が電話の向こうから聞こえる。
杉野は胸が大きく鳴るとともに息を飲んだ。
「すぎ、のぉ……ハンカチじゃ、足りない」
吐息と共に発される声は聞き間違えようもなく藤ヶ谷のものだ。そして自分の名前を呼んでいるため、間違い電話でもないらしい。
今、藤ヶ谷はヒート中だ。
衣擦れの音やか弱い涙声を聞いてしまうと、どのような状態で電話してきているのかをどうしても想像してしまう。
それだけで、体の温度が上がる心地がした。
「もっと、お前の香りが欲しぃ……っ」
「それは、どういう」
「……って、わー!」
乾いた喉でようやく声を出した杉野だったが、今度は藤ヶ谷の絶叫が聞こえて来て何事かと身構える。
続いて仕事中にミスをして焦っているときのような、耳馴染みのある藤ヶ谷の声に切り替わった。
「ごめん杉野、なんでもないっ! 仕事休んでごめんな! 忘れてくれ!」
ツーツー、と無機質な音が流れてくる。
早口で捲し立てるだけ捲し立てて切られたスマートフォンへと視線を落とす。
「どうやって忘れろと」
聞いてしまった。
ヒートが嫌になったと言っていた藤ヶ谷が、どうしようもない熱に耐える一部分を。
黙り込んでしまった杉野に、山吹は煙草を灰皿で潰しながら常と何も変わらぬ様子で声をかけてきた。
「藤ヶ谷さん、なんだって?」
「アルファのフェロモンが足りない、んだと思う」
「どういうことだ?」
杉野は藤ヶ谷に流れでハンカチを貸すことになったと説明をする。「ハンカチでは足りない」ということは、もっと衣服なりタオルなりのフェロモンが移ったものが欲しいということだろう。
(どれくらい必要なんだ)
出来れば藤ヶ谷の家に自分の服を持って行きたいと言う杉野に、山吹は首を捻る。
「……いやいやいや? ん? それって、お前、やっぱ脈あるんじゃ」
「どころで山吹、さっきの話だけど」
混乱を極めている最中の山吹の言葉を、杉野は重々しいトーンの声で遮った。
しかし当の山吹は、何のことだと言わんばかりに目を瞬かせた。
「ん? ああ……って、お前。何真剣な顔してんだよ」
「真面目な話だろ」
杉野はきちんと返事をしなければならないと、運転席に座る優男を見つめる。
それなのに、そんな杉野の様子を見た山吹は再び大きな口を開けて笑い出した。
ハンドルを切り損ねないか心配になるほどの笑いっぷりを見た杉野はハッとする。
「お前まさか」
「俺が女の子やオメガが好きなの知ってるだろ?ほんっと真面目」
「揶揄うな!」
心底可笑そうに目元に涙を滲ませる山吹の頭を、顔を真っ赤にした杉野が勢いよく叩いた。
この軽薄な男の口から出る「好き」ほど、意味がないものはないことをすっかり失念してしまっていた自分を恥じる。
「いってー……まー、そこがお前のいいとこだけど」
山吹は頭をさすりながら深呼吸して息を整えた。
そしてその手を、杉野の頭の上にもポンと乗せる。
「俺のこと、一瞬でも意識したろ?」
「意識、というか」
アルファ男性とアルファ男性が付き合うということもある。
分かってはいるが、確かに普段の杉野は「恋愛対象だと思われているかもしれない」と思ってアルファ男性とは接していない。
山吹は、藤ヶ谷も「自分は杉野の恋愛対象じゃない」と思い込んでいる可能性がある、と言うのだ。
ずっと藤ヶ谷のことが好きな杉野からしたら意味不明である。が、そもそも杉野も藤ヶ谷の恋愛対象外と言っても良い状態なのだから仕方がない。
藤ヶ谷のストライクゾーンは狭すぎる。
「だからまずは意識してもらおうぜ。今度はあの鈍感さんにでもちゃんと伝わるように言ってみろよ」
「それが一番問題だよ……」
ストレートに伝えるしかないのだろうが、それでも友愛ととられる可能性があると頭を抱えた。
その様子を見て、
「まぁ必要なさそうだけど」
と、隣に聞こえないくらいの小声で笑う山吹は行き先を変更する。
まずは杉野を家まで送り、次に用意した荷物と共に藤ヶ谷の家まで向かってくれたのだった。
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