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第74話・巣作りしてもいい?

(見てるって言ってたけど)  ヒート中のフェロモンが溢れている中で誰かに会ったら困るなどという思考は、今の藤ヶ谷にはない。  裸足のまま汗と自身の体液で濡れた白い足を一歩ドアの外に出す。  キョロキョロと見回すと、離れた階段の影から覗いている杉野と視線が合った。  その見開かれた目を見て嬉しくなり、藤ヶ谷はもう一歩踏み出す。 「杉野っ」  着ているワイシャツは第二ボタンまで外れて鎖骨が見えており、布団に篭っていたせいで汗ばんだ肌に張り付いている。  下着もつけていない下半身は、かろうじて藤ヶ谷の中心を隠すにとどまりほとんど曝け出していた。  恐ろしいスピードで杉野がこちらに走って来ってくる。  驚いた藤ヶ谷が動きを止めた隙を見て、杉野は地面のボストンバッグを拾い上げ胸に押し付けてきた。  そのまま圧倒的な力で玄関まで戻された藤ヶ谷の目の前で、ドアが音を立てて閉まってしまう。 「なんで?」  ドアを開けようとしても全く開かない。おそらく杉野が外側から押さえつけている。  まるで自分の存在を拒否されたように感じてしまって、ボストンバッグを抱きしめながら涙が滲んできた。 (なんでじゃないだろ。番いでもなんでもないんだから)  冷静な自分が、杉野が来てくれて舞い上がっていた心をさらに絶望に追い込んでくる。  すると、ベッドの上に置いてきたスマートフォンが鳴るのが聞こえた。  項垂れながら足を動かし、藤ヶ谷はベッドに倒れ込む。  口を開けば「入ってきてくれ」と言いそうで、何も言わずに通話ボタンだけ押した。 「藤ヶ谷さん、鍵掛けてください」 「やだ」 「それじゃ帰れません」  困惑している杉野に、帰らないで欲しいという言葉が喉まで出掛かっている。  しかし真面目な杉野のことだ。 「もっと自分を大事にしてください」  などと言って絶対に入ってくることはないだろう。  断られた時のショックは計り知れない。  せめて、と持ってきてくれたバッグを抱きしめた。 「杉野、このバッグ……」 「中身は好きに使ってください。もちろんそのまま放置でも」 「ちゃんと鍵閉めるから、これで……す、巣作りしてもいいか?」  杉野が息を飲む音がする。  番でもないのだから、「巣作り」になるのかもわからない。  だが、ボストンバッグのチャックを開けるとそこからは杉野の香りが溢れていて。  秘所がぐちゅりと濡れてくる。  我慢できなくなった。  杉野の返事を待つ前に中身を手に取る。  (あ……今日着てたワイシャツだ……)  一番香りの濃い、青いワイシャツを胸に抱いた。  整理されずただひたすらに詰め込まれた他の服も、藤ヶ谷は一枚ずつ丁寧にベッドに出していく。  スラックスにセーターに夏服、インナーシャツなど、沢山の種類の服がある。  藤ヶ谷が「それと似た模様のカラー持ってる!」と言ったことのあるネクタイも入っていた。 「……それならもっと持ってこれば良かった」 「え?」  意識が服の方にあったせいで、杉野の熱のこもった声を聞き逃す。  杉野は機械の向こうで咳払いをしている。 「いえ。ちゃんと鍵を閉めれたら良いですよ」 「ん。あとな、えっと……」 「どうしました?」  言っていいものかと迷って言葉が小さくなっていく。  だが優しい声に後押しされ、もうここまで来たら今更だと目をギュッと瞑った。 「で、出来上がったらっ……見てほしぃ」  しかし言ってしまってから返事が怖くなり青いワイシャツを握り締める。  ただの同僚にどこまで求めるんだと呆れられたかもしれない。いや、もうすでに呆れ切っている可能性もある。 「写真を送ってください」  藤ヶ谷の心配を他所に、杉野はまるで恋人を慈しむような声だった。  柔らかく微笑んでいるのが見えるようで、藤ヶ谷の紅い唇が綻ぶ。 「いいのか?」 「嬉しいです」 「気持ち悪く、ねぇの」 「だったら来てません」  声が聞けなくなるのは名残惜しかったが、杉野をずっと拘束するわけにはいかない。  藤ヶ谷はなんとか電話を切り、鍵もかけた。  ベッドに戻ると、せっせと服を積み上げていく。  この形はこちらにおいた方がバランスが良い、この色はここにあると映える、など色々と考える。  ボストンバッグがペシャンコになった代わりに、ベッドにこんもりと服が積まれた。  思ったよりもボリュームがあって大満足する。指でピースサインを作り、手と「巣」が映った写真を杉野に送った。  そしてすぐに服の中に潜り込む。  これほどまでに、番が居るオメガを羨ましいと思ったことはない。  四方を杉野の香りに包まれて、この上ない幸福感だった。  番がいればヒートのたびにこれが出来て、番が帰ってきたら愛してもらえるのだから。 (あの時もっとちゃんと誘惑できてたら、今頃は杉野と番いになれてたり……しないか)  昼間、もし怖気付かずに「嫌じゃない抱いてくれ」と無理矢理迫っていたなら。  杉野とは気まずくなって、こんなに暖かく接してもらえなかったかもしれない。  これで良かったのだと、自分に言い聞かせる。  身体の熱がもう我慢出来ず、再び身体を自分で慰めようとした時。  メッセージ用の短い着信音が鳴る。 『上手に出来てますね。とても素敵です』  短い文章に、藤ヶ谷の目に涙が浮かんだ。 「なんでこいつ、こんなに優しいんだ」  自分が特別なわけじゃない。  杉野には他に好きな人がいる。  好きでなくても誰にでも出来るんだと思うと、胸が痛い。  でもそんなことを忘れてしまうほどに「好きな人」のフェロモンは効果大で。  前回のヒート中の嫌な出来事を思い出すこともなく。  藤ヶ谷は今までで一番濃厚なヒート期間を過ごすことになったのだった。

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