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第81話・お誘い(杉野目線)
イベント用の商品は何か月も前に完成しているが、実際にイベントが近づくとその準備に慌ただしい。
カラー部門もバレンタインデーに向けて忙しく、遅い時間まで残業するようになっていた。
他の同僚がもう切り上げた後、デスクに向かっている杉野と藤ヶ谷もそろそろ引き上げようかと話していたのだが。
藤ヶ谷の口から遠慮がちに出てきた言葉に、杉野は目を丸くする。
「バレンタインに?」
「そ、そう。一緒に遊びに行かねぇ?」
全くこちらを見ようとせず、藤ヶ谷は手をもじもじと落ち着かなげに動かしていた。
藤ヶ谷と杉野は居酒屋で変な空気になってしまって以降、事務的な会話しか出来ていない。
杉野は何度も謝ろうと歩み寄ったのだが、相当怒っていたのかそれとも気まずいのか。藤ヶ谷にはずっと躱されていた。
そんな中で、まさかのバレンタインデーの誘いである。
「もちろん、喜んで」
杉野は強く頷いた。
実際のバレンタインデーは平日のため、その後の週末に会おうと約束する。
決して忘れることはない杉野だったが、藤ヶ谷の目の前でスケジュールアプリに予定を登録した。
心が踊るのを抑えきれずに、口元が緩んだ。
話がまとまると、藤ヶ谷はホッとした表情になり目に見えて緊張していた身体から力が抜けたのが分かる。
避けられている割には、今日は一日中藤ヶ谷から視線を感じていた。
それが杉野を誘うタイミングを見計らっていたからだと思うと、愛おしさもひとしおだった。
だが。
「深い意味はなくて! あの! 山吹さんと、3人でだし!」
「あ、はい」
まるで「お前に興味があるわけではない」と念押しするような藤ヶ谷の言葉に、杉野の機嫌は急降下する。
(バレンタインに誘って深い意味ねぇのかよ)
山吹も居ることは、一番初めに教えて欲しかった。
相変わらず藤ヶ谷は、杉野を上げて落とす天才である。
それはいつものことなので、その程度でめげたりはしない。
だが、一緒に来るという山吹には理不尽な苛立ちを感じていた。
(空気読めよ)
杉野の気持ちを知っており、色々と世話になっている山吹のことだ。何か考えがあるのだろう。
でも、元旦に藤ヶ谷を口説いたことに関してはまだ引っかかっていた。
あっさり振られたと言っていたが、もしかしたら山吹も本気で藤ヶ谷を好きなのではないかと。
それにしては杉野に手を貸してくれる機会が多く、断定はできないのだが。
「あのな、杉野」
悶々としている杉野の気持ちに気が付くはずのない藤ヶ谷が、膝に置いた杉野の手に触れてきた。
冷たく白い指先を感じて、思わず心臓が跳ねる。
「こないだは、ごめんな」
(かわいい)
顎も眉も下がった状態で上目遣いで見上げてくるのは、無意識だろうと反則だ。
真面目に話そうとしてくれている藤ヶ谷に対して申し訳なさはありつつ、杉野は無言になってしまう。
「俺、カッとなっちまって」
深刻な表情で瞳を揺らす藤ヶ谷が消え入りそうな声になり、杉野から見ると小さな体を縮めている。
「俺の方こそ、諦めろなんて」
杉野は慌てて邪な思考を頭から追い出し、表情を引き締めて向き合った。
だが、藤ヶ谷は首を左右に振った。
「お前は悪くねぇよ」
「いえ。俺が無理なことを言ったんです」
藤ヶ谷の気持ちをきちんと考えずに「可能性が無いなら諦めろ」などと。
もし自分が逆の立場だったなら、絶対に諦めることなど出来はしないだろうに。
あの時の杉野は、
「好きな人を諦めて俺にしませんか」
と、伝えるつもりだった。山吹のアドバイスを実行しようとしたのだ。
自分の気持ちをどうしても知っておいてほしかった。
何かあったときに、無条件で優しくする理由のある人間が傍にいるとアピールも兼ねて。
ヒート中に助けを求めてくれるほどだ。
気持ちを知ってもらえば可能性があると自惚れた。
だが、上手く伝えられずこじれてしまった。
好きだということから言えばよかったと、ずっと後悔していたのだ。
杉野は手を裏返すと、手の甲に触れていた震える手を緩く握る。
「本当にすみませんでした。言い方を間違えたんです」
「杉野……怒ってないのか?」
手を緩く握り返してくる藤ヶ谷の顔は、今にも泣き出しそうで。
杉野は安心させようと口元に笑みを浮かべ、柔らかい声を出す。
「あれくらいで怒るわけないでしょう。でも、割と繊細なんで気を遣ってください」
「繊細なやつって自分を繊細って言わねぇんじゃないかな」
冗談を受けて可笑しげに言う藤ヶ谷の頬が綻んだのを見て、杉野は手を握る指に少し力を込めた。
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