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第2-1話

 暮鐘が響く入相の空に、先を急ぐ一輛の車があった。花蔓を施した豪奢な馬車は、四方に牡丹唐草の透かし彫りを嵌めた箱を乗せている。  中には供の従者が一人。毛抜型の柄を見れば、萩を絡ませた金地螺鈿の華やかな飾太刀を腰に帯びていた。花一族の萩氏と、一目でわかる代物。  その独特な車の装いに、通りかかる人々も異様な婚儀を結ぶ花一族のものとしり、物憂げに瞼を伏せる花嫁姿のお人を見れば、みな路を開けた。  夜の深みへとむかっていく馬車は、鹿氏の門前で足を止めた。 「青殿、お待ち申し上げておりました」  出迎えの雑色が二人、篝火の前で丁重に出迎えた。腰をかがめてちらちらと視線を送る様子には、従者の手を伝って下りてくる花嫁の容貌を、(かず)いた衣の下からでも目にしたいという欲求が垣間見えるようであった。  萩氏の名が残る限り、青はまだ、下賤とは画する存在である。貴人の顔を無礼にものぞき見ようとする根性にムッとした顔をつきをした。  雑色から庇うようにして密かに割って入り、青を促す。  溶け残った雪の、冷たく澄んだ香りが満ちていた。その香りに導かれるようにして進んでいくと、橋の向かい、水際にたつ御殿へと通される。  (しとみ)に囲まれた部屋を前にして、青はまじろぎつつ凪を振り返った。 「お前もくるのだろう?」  不安げに揺れる瞳が、(ほむら)を唸らせる松明の火影と思わせた。 「中で、二人の情事を見ろというのであれば、そうしますが」  不機嫌にそう言い放つ凪の声に、青は思わず口を閉ざす。 「それもそうだな、外にいろ」  余計な事を口走ったのは、不安に耐えかねたからか。その胸中を凪に知られるわけにはいかないと背を向け、僅かに視線を落とす。息を詰め、はらりと落ちる一房の髪に指を触れた。 「何かあればお呼びください。駆けつけます」  見かねた凪が囁く。  これでは余計な苦労をかけるだけ。  ふっと短く息を吐き捨てた。 「心配するな。首尾よくやるから」  香炉が煙を高く燻る一間には一組の(しとね)が用意されていた。その枕元には硯滴(けんてき)がおかれているのみである。  (ふすま)に触れればひやりと冷たい。青と婿の関係を遠回しに言い当てているよう。  青は思わずにやりと笑う。  茵の横にどっかりと腰を下ろし、やにわに足を崩す。胸に隠した腰刀を取り出して、萩の花の零れる鞘を眺め見た。この可憐で壮麗な刀に人の血を吸わせるのは忍びない。決して使わずにすませなければと思いながらも、身体を伸ばし、枕の下に差し込んだ。  地を這う虫の足音をしばらく耳に、夜を行く鳥の声が空に高く澄み渡るのをぼんやりと聞く。微睡みつつ、婿のやってくるのを待っていたが、青はついに眠気に勝てず瞼を伏せた。そのまま寝入ってしまえば、ここにきた役目からも開放されるのではないかと思うのだ。そうなれば若君を殺めずにすむ。  思いを巡らせていると、無情にも暗闇の向こうから聞こえてくる足音がある。妻戸の前で立ち止まり、男が何か指示をした後、そっと、戸が開けられた。  月明かりは雲の向こうに閉ざされて、暗がりを照らすのは男の持つ脂燭のみ。その炎が満月のように赤々と光りを放っていた。 「催花をするのだろう、青」  青はすぐさま居ずまいを正し、襟を直して額を低くひれ伏す。 「萩氏の青という者」  いいながら、彼がつい今しがた口にした名前に、なぜ知っているのかと妙に思う。  耳に触れた声色も思えばどことなく覚えがあるような気がするではないか。 「今度はご成婚相成りまして、誠におめでとうございます」  近づく男の手が青の腰を探り当てた。触れる手は固く強ばった青の不慣れな身体を解いていくよう。結んだ帯紐が取り払われると、幸菱(さいわいびし)をあしらった単衣は心許なく開かれた。暗闇の中、白く透き通った肌がさらされる。  手の早い男だと、青は襟を引き掴みながら顔を逸らす。  すると爽やかな声が喉を震わせ、青の衣の下に手を差し入れて胸の上に熱い掌を宛がった。 「約束した男を忘れたのか? 俺がもらってやるといったはずだが」  もらってやると約束したのは、一人だけ。  まさかと青は顔を上げ、脂燭を握る男の手を掴む。顔を照らしつければ、目の前にはあのときの春の君、木陰から現れたあの男の顔がある。鼻筋の通った顔に朱色の瞳。男ぶりのいい美男子である。忘れるはずもない。  彼は唇に薄く笑みを浮かべ、柔らかな目つきで青を見つめていた。  彼が鹿氏の清瀬だったのか。  青は途端、噴き出した。  あのときの男に再び会えるとは夢にも思わないではないか。しかも粋な約束まで果たそうものなら、ますます彼への思いは強くなる。どうせならと、思わず漏らした泣き言を律儀にも拾った男。  人並みに恋慕の情は抱いてきたけれど、叶わぬ思いを徒花(あだばな)と、恋を忍ばせ花は摘んできた。こんなところで大輪が咲こうものなら――。  ああ、と青は息を吐き出して、まぐれとはいえ約束を守った男に、連なるように込み上げてくる彼への恋心を自覚する。と、同時になんとも非情な思いに忽ち顔をゆがめた。

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