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第10-1話
蔓延する霞の中、青は車に身を任せながらじっと息をひそめる。辺りは次第に不気味さを増し、連なった木々が深く繁る場所は厳かな空気に包まれて、車は止まることなく更にその奥へと潜っていく。
物見を開けて外を覗けば、雲が垂れ込めるほどの霞が押し寄せて少しの晴れ間も見当たらず、足下には物陰さえ届かない。
一体どこへ向かっているのか。尋ねる人もなく、車を引く人もいなければ不安は募る。
催花を中断させられた蕾みはじんわりと温もりを抱き、開花したいとばかりに緩く花びらを開いているのがわかった。その匂いの端が棚引いて虫を引き寄せていることを青は知らない。
討伐を止める方法が、まだ他にもあるかもしれないと青は焦る。
帰ってこいと約束させたのだ。その約束を守らせるためには清瀬の無事を祈るだけでは足りない。
突如と、車が止まる。なぜこんな所で止まるのかと、簾を開ける青の目は木々の間を燻る煙の中で揺らめく人影を見る。
凝らしてじっと見つめているうちに薄らと浮かび上がる人影は、少しずつ遠ざかっているらしい。その後ろ姿と歩き方は、見知った男の素振りである。
――凪。
そう思うと同時に飛び出していた。
「凪、なぜこんなところに!」
転がるように車を降りて這いつくばるように大地を蹴り上げる。
透き通るような影はますますその形をくっきりと描き出す。
紫の言っていたことは間違っていなかった。彼は無事なのだ。そう思うと笑みが自然と溢れだし、どれほど心細かったか詰ってやろうと思うのだ。
「凪、心配した。まさか俺のせいで追い出されたのではないだろうな」
お前のいない屋敷は酷く寒い。続けようとした言葉は、はたと振り返った彼の、いつもと違う様子に、唾を飲むと同時に喉の奥へと押し戻された。
まるで知らない人間のよう。二十年と傍にあった彼のことは自分の事のようによく知っている。それなのに、これでは初めて会ったばかりの颯のほうが、気心の知れた友人のようではないか。
「誰だ」
後退りして問いかける声に、凪が歩み寄る。
「青、傷つくだろ。近くへこい」
浅黒く日に焼けた肌に、目つきの悪い彼の相貌。しかし今は柔らかく綻び、青を見つめて甘く囁く。今まで一度だってそんな顔は見たことがない。しかも愛しい人の名前を呼ぶような声で青と呼ぶ。
まさか怪士の仕業ではないかと衣を握りしめた。
伸びる腕を避けつつ、しかし凪の顔から視線が離せない。背に幹を押しつけて、木肌を手に伝いながらそっと足を引く。
「逃げることはないだろう」
恐ろしいほど優しげな眼差し。駆け出す機会をうかがいながら、ふと、木を避けた先で何かにぶつかった。見上げた青の目に、錆びた髪色が見える。
「ジャム――!」
ハッとした瞬間、彼が抜き放つ刀身が怪しく光りを帯びたのを見た。
咄嗟に後足を踏む青の肩は引き掴まれ、刀が振り上げられる。
かち合うジャムの眼差しは冷ややかに青を見下ろして、怯える青の目がジャムの心に食い込み、貫こうとも、ジャムの腕は止まらない。なぎ払うように下ろされた刀に青は手を翳して目を瞑る。
その刹那、ジャムの背後から男が飛びかかった。
「青!」
繁菱の単衣を晒した袴姿の清瀬である。
太刀を捌き、青を抱き込む清瀬はジャムの追撃をかわし、身軽に飛び退く。その足は車へと駆けていく。
「ヤン・ギューの所へいく。凪はそこにいる」
なぜ、凪が、と青は口を開く。
その唇を、清瀬は食らいつくように重ねて、甘く融けた蜜を扱うように、青の舌をじっくりと舐め上げた。
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