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第7-3話

「殺さなかった。それだけは確かです」  朽ちた花を握りつぶし、爽は背を向けた。 「この爽の前に青を連れ出せ。そのためならば見つけてきてもいい。俺が始末する。これで恐れる事は何もないはずだぞ。お前を葛氏の娘と縁を持たせたのはなんのためだと思っている。萩氏を落ちぶらせるためだ!」  口角に泡を飛ばして怒号を発する爽に清瀬の息も荒くなり、肩が震える。  これほどの憎しみを抱いたことはない。不快であった。この男のことが煩わしくて仕方がなかった。愛しい人を守りたいのだと言ったところで届きもしない。彼は萩氏を出し抜くことしか考えていない。そんな彼とは会話さえ成り立たないのだ。何よりも腹立たしく、それ以上に分かち合えないことが余計に清瀬を苦しめた。  汚れた雪の塊のような黒い感情が腹の底でどろどろに融け、熱い鉄の塊となって迫り上がる。ならば、と、清瀬は激しい怒りに堪えて奥歯を噛みしめた。 「父上は、怪士を毛嫌いしておられる様子ではない」 「なにがいいたい」  唇を剥いて吠える。その醜い顔から目を逸らすように瞼を伏せた。感情を押し殺さなければ、爽の首を引き掴み、怒りのままに骨を折ってしまいそうであった。 「萩氏を討ち取りたいと思っているのであれば、またとない考えがあります。何も二人並んで戦をする必要はない。首を取りにいけばいい」  額の血管が怒張して噴き出てしまいそうなほどの怒りに震えながら爽を睨み付ける。 「萩氏をだまし討ちする気か」 「怪士側に根回しをします。手を組むんです。彼らに逃げる先を作ってやれば、土地を譲るはず」 「それで俺は萩氏を討ち取り、武功は独り占めという訳か。どうやって怪士を味方につける気だ」 「鹿氏が味方になると持ちかければいいのです」 「うまくやれるのか?」 「お任せください。橋渡し役は私が」  清瀬はこめかみを押さえて踵を返す。  青を守れるのならもうなんだって構わない。萩氏が滅びれば青は清瀬のもの。そのうえ爽までもがくたばれば、誰も縛りつける者はいなくなる。  主殿の階へ乗りかかり、嵐を呼びつけようとしたとき、屋敷の門がしたたかに打ち叩かれた。 ―――――――――――――――――――― 「まるであの春は幻だったようだ」  萩氏の花園屋敷、その主殿の奥、裏庭を望めるその一角で、青は囲まれた几帳の中で仰向けに倒れて一人つぶやいた。二度と戻ってくるつもりなどなかった屋敷である。  暗く立ちこめた空からは思い出したように細雪が降り出して、倒れた枯れ尾花に積もりはじめていた。  冷たい風に流されて、小さな雪の欠片が(ひさし)に降り積もる音は松の声の隙間を縫うように細々と聞こえてくる。こうなっては清瀬さえも白昼に見た夢だったのではないかと思われるほど。  胸の前に結んだくびかみの緒には首の後ろから鈴を括り付けた縄を結びつけられ、端は足下の板に打ち付けられていた。  几帳の裏には牛革の靴に金造りの靴帯を巻き、平鞘を腰に帯びた随身が居並んで、庭にも堅苦しい武士が構えているのだから、縄を掻き斬ったところで逃げ出せないのは火を見るより明らかであった。脱走するには機会が必要と思い、自由の手足に引き換えてなんとも不自由な身の上だと青は息を吐く。  天井の染みも年輪も、何度と数え終えて退屈をむさぼる青の元に、目も鮮やかな衣の端が覗き込む。 「兄上……」  水面に打ち広がる波の綾のような清らかで儚い声色。さては、妹の紫が兄の暇を潰しにきてくれたのだと綻んだ。 「一体誰だ?」 「会おうと思いを重ね、ついに色も深く移ろいでしまいました……」  線の細い声は微かに震え、ようやく言葉を交えた喜びを噛みしめるように彼女は答えた。

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