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第8-5話
「愚かな。ミズグモと取引をしたか」
葉が触れあうような小さな声を耳にしながらも、葦の葉を踏みしめて突き進む。
これほどまでに凪を突き動かすのは破れた恋である。自分のものにできない彼の心を求めたくて仕方がないのだ。なぜ自分にだけ向けられないのか。こんなにも深く恋に落ちているというのに、彼が思いに応えてくれることはない。思い通りにならない人の感情というものが酷く不愉快だった。獣や怪士の命ならば刀を振るえば容易く奪えるというのに。なぜ、と、苛立つばかり。
「どうせ叶いはしない」
そんなことは知っている。
勢いよく振り向くと姿は霧が散るように消えていく。再び現れるその怪士は凪の肩に手を回し、身軽に空を飛び回った。
「お前が醜い限り、一生その姿は醜いまま」
「醜くたって、奪ってしまえばいいのだろう」
その汀に聳える一本の松の枝に、光りを放つフウセンカズラを結びつけた。
「誰もこの実には触れるな」
木の肌のようにごつごつとした声に、怪士は高らかに笑う。
「だが、お前のものにもならない」
「必ず俺のものになる」
駆け出していく凪は雪くらい夕暮れに、篝火が照らす鹿氏の屋敷にとたどり着いた。
萩氏からの使いと耳にして訝しげな清瀬も、息せき切って駆けつけた男の姿を目にすれば何事かと身体は前のめりに傾く。
凪は喉を焼く熱い思いを飲み下しながら口を開く。
「萩氏の青殿からの使いで参った、颯と申すもの。どうか、討伐には参加されまするな」
「参加するなとはどういうことだ」
爽の気を急いた問いかけに、颯は口早に答える。
「萩氏の当代、麗様がそのお命を狙っております」
目を配る爽に清瀬が僅かに顎を引く。
「青の使いといったな。青は萩氏の屋敷に戻ったということか」
「左様」
爽は唸る。萩氏からやってきたこの颯という男のいうことを、信用するわけにはいかなかった。首の下まで頭を覆った不気味な出で立ちに、枯れ木のようにしわがれた声。さては鹿氏を誑かそうとでも思っているのだとさえ思われた。
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