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第9-2話

「凪。そなたは凪ですね」  身体を起こし、周囲を素早く見回す紫は青の言葉を思い出す。崖下の木の家に住むというヤンとギューのこと。親切な怪士だといっていた。見ると篠竹の茂るその先は崖。その下に怪士の住処があるはず。  だが、萩氏の侍従らを引き連れて行けば、怪士らの隠れ家を暴くようなもの。  紫は凪の身体を抱え、侍従の手を引き寄せる。 「このものを、私の背にのせてください。彼をこのまま見殺しにしては、兄上に顔向けができません」 「しかし、姫君のお体では無謀すぎます!」  叱りつけるような女房の声を耳にしながらも、紫は重ねた衣を脱ぎ捨てる。単衣姿になると凪の腕を肩に回し、引きずるように歩き出した。 「皆、決して私の後を追って来てはなりませぬ! 紫は必ず戻って参ります。ですから、どなたか兄上にこのことをお伝えして! 凪は生きていると!」  谷底は深い霞に覆われていた。辿っていけるような道らしきものも見当たらない。遠回りをしていては凪の命も危うい。  紫は意を決し、まくり上げた裾を凪の身体に縛りつけ、腰を下ろして滑らせるように下りていく。木の根に捕まろうとした柔らかな手は小さなささくれを引っ掻いた。思いがけない痛みに耐えられず、咄嗟に手を離してしまう。すると身体は凪の重さに引っ張られるように勢いよく落ちていった。  身体を打っては息が止まるほどの衝撃に何度と意識を手放しかけた。しかし凪を思う青のことを考えれば、気を失っている場合ではない。その身体が放り出されて地面に転がると、しばらく起き上がる事も出来ずひとしきり呻く。  泥だらけの手を伸ばし、凪を引きずるように抱きしめて、ヤン・ギューの家を目指して歩きだす。  冷たい水面を踏みしめる爪先はもぎ取れてしまうのではと思えるほどの痛みである。  重い凪の身体を引きずりながらも、必死にかける声に返事はなく、その命はすでに絶えてしまっているように思われた。やがて生い茂る葦や蒲の葉の先に、小高く盛り上がった丘を見つける。そこに枯れた草や蔦を巻き付けた荒れた家を見つけると、もう少しとの思いに、駆け出していく勢いでその戸にすがりつく。  握った手をしたたかに打ち付けて、声の限り張り叫ぶ。 「どなたかおりませんか? お願いがあって参ったのです。どなたか、どなたか!」  小さな手はそれだけで手の皮が擦り剥けて赤く腫れていく。声はそよ風のようで、家人の耳に届くはずもない。何か知らせるものをと、拳ほどの石ころを掴み上げ、窓を叩こうとしたときである。騒々しく駆け下りてくる足音の後に、扉が乱暴に開け放たれた。 「誰だ」  獣の咆哮のように恐ろしい怒号と威圧的な風貌に震え上がった。  顔を包む荻の髪は獅子のたてがみのようで、その隙間から覗く鋭い眼差しはまさに飢えた獣。紫は怯え、退きながら凪を抱き込んだ。  恐怖におののいて声も出せない紫に、男がその腕の中を覗き込む。  途端、舌をならし、重く横たえる男の姿に髪を掻きあげた。 「怪我をしているのなら早く言え。入れるほかない」  男は凪の身体を容易に担ぎ上げてしまうと、紫の姿を眺め見て顎を決る。 「お前も随分酷い有様だな。中に入れよ」  背を向けながら、その心の内では酷い態度を取ってしまったことを反省しているのだ。ただでさえ他人より怒りっぽい性格。加えて乱暴者で雑。自覚している分、この性分はうまく扱わなくてはならない。  甘いお菓子は好きだろうか。焼いた菓子があったはず。彼女は機嫌を直してくれるだろうか。そう思いながら彼は壁の蔦を引き掴む。  斜向かいに結んだ蔦のベッドに凪を横たわらせる丁寧な扱いに、紫は安堵に力が抜けきった。 「兄上が、ここの方々の世話になったと聞きました。いくら感謝を述べても尽くしきれません」  言いながら、途絶えそうになる意識に奮い立つ。 「兄上だって?」  ヤンは紫の残した言葉にふと振り返る。ひらりと袖を棚引かせた彼女の後ろ姿は、すでに深い霧の中であった。

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