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第9-3話
その頃、萩氏の屋敷ではそわそわと落ち着きなく視線を走らせる青の姿がある。
颯が帰ってこない。そのことだけが、憑き物がとりついたように青を悩ませていた。
朝餉を運びに来た武士に事を尋ねても頭を振るだけで教えてはくれないのだから、不安は募る。
もしや颯に何かあったのではないかと思うのだ。
「――青、今日にでも入液を済ませてしまえ。時間がない」
下がる武士と入れ違うように甲冑を纏った麗がやってくる。
この日を吉日として出陣の旗を揚げる。庭からは馬の嘶きとともに蹄を駆けていく足音が轟々と聞こえ、武士たちの勇ましい鬨の声が屋敷中から聞こえてくる。
麗の後から続く男は面をつけた紫の婿であるらしい。付き添いの従者が布を被いて静かに従い、慌ただしく駆け込んでくる侍女たちは蔀を次々と下げていく。朝の光は閉ざされて、薄暗い主殿に、麗の冷たい眼差しが光って見えるようだった。
縄を指に絡めて硬く唇を結ぶ青に、麗が腰をかがめる。
「あいつは帰って来ないぞ。今頃獣の餌にでもなっているはず」
青はさっと血の気が引いた。
「あいつとは誰のことを」
「お前が探している男のことだ」
まさかと顔を上げ、麗の鋭い眼光に居すくんだ。
「颯を、殺したのか」
「わかっていないようだから、わからせている。お前が殺したようなものだぞ。なぜおとなしく従えない。お前がどんなに願ったって清瀬は討伐に来る。お前がふらふらと役目を果たそうとしないからいけないんだ。これで諦めがつくというものだろう」
女中たちは運んできた硯滴を恭しく青の手に握らせた。肩を力強く押さえつけると、青は麗の前で膝立ちとなる。
「お前が頼りにするべき人間はいなくなった」
舐めるような麗の視線に凍えながら青は頭を振る。
「役目を果たせ」
沸々と怒りが込み上げていた。
女中の手が青の手首を引き掴み、震える指に水を絡ませる。衣の裂に手を差し入れて掌がゆっくりと腹を撫で、胸をさすり、身体は少しずつ濡れていく。花を咲かせたいとも到底思えない。それなのに、肌は水に触れると暖かく滑り落ち、身体はじんわりと熱を放っていく。花径が疼いてその奥のものが、兆しに触れて豊かな蕾となって育まれていくのがわかった。
青は身じろぎ、女中たちの手を振りほどこうと身体を捩る。
「手を、離してくれ。こんなことはしたくない……」
はたと、女中たちが手を離す。青の必死の懇願を哀れに思い、その願いを聞き入れたかのように思われた。だが、自由になった身体に、男の影が落ちたのだ。
顔を上げる青は身体を竦め、身を捩りながら後退る。迫る男を蹴り飛ばそうとして――、
「……青」
その間際、一瞬見えた男の容貌に青は戸惑った。
はっとしてその肩越しに麗を見上げ、覆い被さる彼の衣を引き掴みながら唾を飲む。
「わかった。受け入れる。だから二人きりにさせてくれ」
蔀が下りきった暗い主殿に、隙間から零れた陽ざしの筋が帳に優しくかかっている。悶える青の衣擦れと、身体を滴る水露の、玉を滑るような音だけが聞こえてくるような静かな中で、麗は忌々しく青を睨み付けて出て行った。
中には男の従者だけが残った。遠ざかっていく足音を耳にし、人の気配も失せると男は堪えていた息を吐くように口を開く。
「遅くなった」
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