42 / 53

第9-4話

「ギュー、こんなに嬉しいことはない」  不安げに囁くギューの声に、青は思わず彼を強く抱きしめて首元に顔を埋める。暖かな香りが鼻の先を擽った。  安堵と悔しさが入り混じり、込み上げてくる思いに力が入る。 「だめだった。俺ではなにも守れない」 「いや、そうでもない」  鼻の頭を真っ赤にさせて、唇は滴るように赤い。潤んだ目は切なく、すがるように抱きつく腕をまわされて、ギューは目を細める。桃の花に照らされた水面のような青の額を指先に触れ、丸く撫でつけた。思わず口づけしたくなる。その思いにたえて、彼は囁く。 「青、離れて。欲には弱い。とくに色に関しては。理性が効かなくなる」  ギューの声はゆっくりと青の緊張を解すようであった。ギューの肩口を涙で湿らせて名残惜しくそっと身体を離す。 「どうやって婿と偽った?」 「萩氏に婿入りをする男がベベだった」 「ベベ?」  そのときようやく従者の男が衣を取り払う。  疲れ果てたベベの顔が現れると、彼はじっとりと青を睨み付けた。 「温厚に済ませようとも思ったが、ほかに案がなかった。屋敷からさらうが、構わんか。お前の思い通りにはいきそうにない」  蔀の外は侍従が取り囲み、築地には靫を背負った武士たちが並んでいる。  ベベから差し出された衣を手にして、着替えろと催促する彼に困惑する。 「ばれないか?」  躊躇する青にベベは呆れた顔をして鋭く睨み付ける。 「黙っていろ」  粉をつまむような指先が煙を縒りだし頭から潜らせる。すると無精髭の顔は鏡を映し出したように美しい青の相貌となり、その指がつま先まで触れると、皮膚の肌理や筋の張り方から細部までも如実に真実身を帯びているようだった。毛の生え方から流れ方までそっくりなのではと思わせる。青は感嘆の声を上げた。  その指は青の身体に煙を巻き付け、驚く青も忽ちベベの姿に変えられる。腕の力こぶを見せつけて、剣も振るえる腕の太さをなでつけ、青はギューに見せつけた。  だが、危惧すべきは紫である。 「紫には気をつけろ。恐ろしいほどの勘を備えている妹だ。一目見て俺ではないと見破るはず。だが邪険にはするな」 「厄介なことばかり注文するな」 「ベベはどうやって脱出するんだ?」 「適当に抜け出すさ」  「早く」と、急かすギューに腕を引かれ、青は咄嗟に懐の内から種を取り出した。 「街の種は必ず渡す。それまでこれを」 「当たり前だ。そのためにお前を助けた」  自分の顔が見慣れない感情に醜く歪んでいるのをおかしく思い青は笑う。緊張感のないやつと、ベベは軽く顎を決ってあしらった。  ギューの後を追い、青は妻戸を押し開ける。青の姿は満ち溢れる光りに照らし出されて、さてはその正体が暴かれてしまうのではないかと躊躇する。しかし武士たちはちらりとギューの姿を目にかけただけで、その後ろに従う従者が青だとは誰も思っていないようである。輪をかけて慌ただしい屋敷内に誰も二人に構っている暇もないらしい。  簀の子の上を滑るように突き進んでいくギューが僅かに顔を向け、密かに口を開く。  青は小走りに駆け寄り、その口元へ耳を寄せた。 「鹿氏と手を組むことになった。俺たちを守りたいと誰かがわめいていたらしいな」  微笑むギューの声色に青は目を瞬く。 「鹿氏と? まさか、当代はそれを許したのか? 俺の事も毛嫌いするような人だと思ったが」 「青の為だ。清瀬が引くとでも思うか」  木枝に積もった雪が重く垂れ込み、鳥が尾を震わせ羽ばたいていく。その音に引かれて見つめた先には、濛々と煙に霞むような庭がある。まだ、硬く芽を張る冬芽はその奥にひっそりと隠されているようであった。  行ってしまった武士たちの痕を汚れた雪に見つけ、青の身体は前のめりに傾く。心は怪士たちの地を案じて気持ちは逸った。

ともだちにシェアしよう!