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第9-5話

「先に戻っていて」 「あんたは?」  用意された車に押し込まれながら、踵を返そうとする彼に声を上げる。一緒に戻るのだとばかり思っていたのだ。それなのに、ギューは目も合わせずに引き帰そうとする。なぜだか離れがたい。そんな感情に支配され、青は慌てて振り返る。 「なんの用がある」  その必死と呼び止める青の声に、ギューが足をとめた。 「ベベを連れて来る」 「俺を一人にして、お前はどこへ行くんだと聞いているんだ」  車から身を乗り出して下りようとする青の姿は、すでにベベの呪いの綻びが見えていた。それはギューも同様であった。面の下に隠した顔は計り知れないほどの悲痛に歪んでいる。見られるわけにはいかない。 「ギュー!」  真っ直ぐに見つめる青の瞳から逃げるように背を向けた。すると、勢いよく飛び出した青の腕が、呪いの解けた清瀬を引き留めた。 「戻るな」  青の声が耳に触れた途端、清瀬は耐えきれず、その身体を抱きすくめる。 「……会いたかった」  傾いた面の端から覗く朱色の瞳が、すぐさま閉ざされる。重ねようとした唇が震えて、そう小さくつぶやいたのを、青はなぜだか罅割れるような痛みを感じた。 「……許せ。お前のことが諦められない」  胸に抱かれながら瞼を伏せて、青は苦く息を吐く。  夢に見るほど会いたくてたまらない相手だった。触れてほしいと願い、今度こそ必ず伝えなくてはと思ったのだ。その言葉の数々は結んで絡まり、声にしようとするほどに、細い糸を引き抜くようにするすると消えてしまう。  燃えるように熱く、急き立てた高鳴りは白雪の下に埋まってしまった。それが悲しくて寂しくて仕方がない。青は清瀬の背に手を回し、静かにつぶやく。 「俺の心を奪って、清瀬。あんたになら全部あげたいと思ったんだ。終わりにしたくない。全部許すから。あんたと恋がしたい。あんたじゃなきゃ、だめなんだ」  掠れた声に、清瀬は強く奥歯を噛みしめる。身体に巻き付く青の手をとり、彼を悩ませる苦痛のすべて拭い去ってやりたいと思う。 「もらってやる。あますことなく、全部」 「必ず、俺の所に帰ってきてくれ」  雲に包まれるような牛車に青を乗せ、簾を下ろすとひとりでに走り出す。  車が朧と消えていくのを見届けて、清瀬は屋敷に戻っていく。  討伐を止めたい。  あのとき、屋敷を訪ねてきた怪士のベベと、ヤン・ギューの兄弟。折りにも怪士から手を差し出されれば断る理由はなかった。爽を嗾けて麗の首を取らせるのは容易い。しかし、それでは遅い。二人が衝突する前に片をつけなければ。  青の思いに応えたい。 「ベベ、いくぞ」  忽然と群霞が立ちのぼる。屋敷の中はみるみるうちに怪しい気配に満ち、庭を浸してそれは門の外へと染みだしていく。やがて出陣した武士たちは足取りを奪われ、煙に騙されて方位を失う。彼らが怪士の地へとたどり着くのは霧が晴れ渡ったあと。それまで目的地をどことなく歩き続けることになる。  ベベは立ち上がると同時に蛇が皮を脱ぐようにするりと姿を戻す。  妻戸の外では己の影さえ行方を見失った侍従たちが騒然と声を上げ、不安を足に乗せて誰もが手探りに彷徨っている有様であった。 「こっちだ」  怪士の目だけが唯一道を開ける。ベベは波を掻き分けるように霧の中を押し開いていく。

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