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第12話

 驚くほどのスピードで準備を終えてきたらしい春日と店を出る。  明らかに仕事の途中で出てきたけど大丈夫なのか。と思いつつ、俺もこの一ヶ月ちょいで二回それやったなそういえば。 「夕飯、一緒に食べよ」  隣の手が当然のように俺の指に絡んで来て、大好きなはずの笑顔に集中できない。緊張で心臓が早まるし、手に汗をかきそうで落ち着かない。  さすがに、ただの友人にこんな触れ方はしない。  俺は、この間フラれたばかりじゃなかったか。  こっちは玉砕しようと思って来たのに、まさかこの後に及んでセフレになる気になったのだろうか。 (それとも、もしかして……)  頭に過ぎる甘い期待。  それを振り払うように熱くなってきた顔を上げた。 「俺んち近いぞ。この時間ならなんか作るよ」  薄暗いから、赤面している事なんて気付かれないと願って。    ベッドとローテーブル、ソファークッションと背の低い本棚しかないモノクロのシンプルな部屋。スマートフォンで事足りるからテレビもパソコンも置いていない俺の部屋だ。  いつもセックスはホテルでするものだからセミダブルのベッドなのだが、男二人には小さい気がする。  こんなことならダブルにしておけばよかったと、すぐに淫らなことを考える頭を何とかしてほしい。 「職場から近いんだな」  ソファークッションに座るように促すと、その通りにしながら春日は部屋を軽く見回す。  俺はジャケットを脱いでハンガーに掛けながら、出来るだけ淡々と話す。 「職場っていうか……お気に入りのカフェが近くてな」  顔を見る勇気が出ないまま、料理のために腕まくりをした。今、言ってしまったら食事などせずに出て行ってしまうかもしれないのに止まらなかった。 「そこで働く、俺好みのイケメンバリスタに確実に癒されるために近くに越してきたんだよ」 「……え……」  自分で言っていてドン引きだ。  クッションに背を向けてキッチンに足を運ぶと、後ろから小さく驚く声が聞こえた。わざわざ言わなくても、それが春日のことだということは分かるだろう。  今まで接してきて、そこまで鈍感なタイプじゃないことは分かっている。 「大事な人ってどういうことだ? 俺たち、他に手を出したらお仕置きされるような関係だったか?」  コンロの前に立ってからようやく春日の方を見ることが出来た。  冗談を絡めて笑って話そうとしていたのに、表情筋がうまく働かない。  おそらく俺は今、泣きそうな顔をしていると思う。  意図は不明だがせっかく「大事」だと言ってもらったのに、わざわざ引っ越しまでしたなんて言ってしまったのだ。こちらの気持ちが重すぎて嫌がられたかもしれないという不安が強かった。  春日が静かに、深く、息を吸い込むのが分かった。あちらも、緊張しているようだ。 「お仕置きは、その場のノリで言っただけだけど」  と話し始めた。 「いつからだったかな。この一年くらい、ほぼ毎日。その人がコーヒーを飲みにきてくれるのが楽しみで。今日はどうかな明日もくるかなって」  俺はせっかくキッチンに立ったのに、何も出来ずに固まった。  春日は、何を言っている? 「そしたら、バーの名刺を落としてて、行ったらもしかしたら会えるかもって。まさかバーテンダーさんだとは思わなかったけど」  ああ、そういえばスマートフォンのケースに入れていた古い名刺がまだあったはずだ。一枚落としていたのか。気をつけなければ。  しかし、それを見てわざわざ店まで来てくれたというのか。従業員ならともかく、客であれば二度と訪れない店かもしれないというのに。  俺にカフェ以外で会える僅かな可能性に賭けて、来てくれたのか。  頬を赤くして、こちらを真っ直ぐ見つめている男は、俺にとって都合のいい夢のようなことを言っている。  それではまるで、俺たちはお互いに、この一年間意識し合っていたみたいじゃないか。  そんなことが、あっていいのか。  そんな、幸せなことが。  唇が震える。  混乱していると、春日は再び立ちか上がって頭を下げてきた。 「酔った勢いであんなことになってごめん。そういうとこはちゃんとしたくて。忘れたふりして仕切り直そうなんて、卑怯なことしたらタイミング無くなって」 「そんな、あれは俺が」  そもそも、襲おうとして部屋に上がったのは俺だ。謝らなければならないのはどう考えても俺の方だった。  結果としては、ノリノリの春日に返り討ちにあったが。酔って忘れてしまっていた方が都合がいいと思ったのは俺も同じで。  いや、ちょっと待て。 「覚えてたのか……!」  目を見開いてキッチンから身を乗り出す俺。  顔を上げた春日は、頭を掻きながら悪びれなく笑った。 「かわいかったよ」  くそ、笑顔がかわいい。  そこは申し訳ないとかないのか。  そういえば、前に年齢を聞かれた時に言っていた「坊や」と呼んだのは情事中だ。会話が自然すぎて気が付かなかった。  俺にとっては、呼んだ時の状況はある意味一番思い出したくない痴態かもしれない。それなのに、鮮明に頭に浮かんできて顔が熱くなる。  みっともなく泣いて縋った姿も、気持ちが良すぎて意識を飛ばしたことも。あれもこれも全部全部、こいつは覚えているということだ。  よく考えたら、俺は途中から意識を失っていたのだ。起きた時にきちんと服を着て体も綺麗になっているなんて、春日がやってくれた他には考えられない。  気が付かない方がどうかしていた。 「もう一回、抱かせてくれる? あ、じゃなくて」  羞恥で動けなくなっている俺の方に、春日はゆっくり近づいてきた。  キッチンと部屋を区切るカウンターに手を置いて、近くから真っ直ぐ見つめてくる。 「俺は君が好きだ。だから、君の気持ちが知りたい。……セフレなんて、嫌だ」  真剣な声で告げられた言葉。  特に、最後の言葉が胸に刺さる。  あの時の「セフレになる気はない」とは今の言葉の通りだったのだ。  きっと告白の機会を伺ってくれていたのに、傷付けていたのは俺の方だった。  こんなに好きになっていたにも関わらず、恋人になれるなんて考えもせずにあんなことを。  何か言いかけていたのだから、最後まで聞いていれば。  少しだけ早く恋人になれていたのに。 (数日でも、もったいなかったな)  このタイミングで目頭が熱くなってきてしまう。嬉しかったからなのか、驚きなのか、申し訳なさなのか。  どれがそんなに涙腺を刺激したのか分からなかった。  でも、ただただ胸がギュッと苦しい。  返事をしなければならない。この至近距離では涙の膜を隠すことは不可能だ。溢れないようにとだけ祈った。 「好きだ。多分、お前より先に……っ……」  ひりつく喉でなんとか口にした言葉は、今にも消え入りそうだった。もっと、サラッと言って格好つけるつもりだったというのに。  伝えてから、口元を手で覆って目を逸らす。 「恥ずいな。何年振りだこんなん」  ツッコまれる前に涙も親指で拭いてしまおうと思った。それなのにカウンターの向こうから伸びてきた手に捕まり、改めて泣き顔を暴かれる。  我慢できなかった瞬きで、一筋の涙が頬に伝うのを感じた。 「ずっと恋人いなかったのか?」  決して問い詰めるような口調ではなく、どこか嬉しそうな声だった。しかし俺は、どうにも後ろめたく感じてしまった。  こんな感覚は初めてだ。  もう足元を見る以外に顔が歪むのを隠す方法が見つからず、俯いた。今度は涙のシミがキッチンのシートに出来ていく。 「ここんとこはワンナイトやセフレばっかだったって言ったろ? 悪かった。こんなだから俺、お前にも……」 「同意でそうしてたなら悪いことじゃないよ。俺は恋人になりたかっただけ。あ、でもセフレとはもう会わないでくれ」  包み込むように安心感のある声だったが、最後だけ語気が強まる。さすがの俺も、恋人がいる時にセフレと遊んだりはしないからすぐに頷いた。 「ん、分かった。それよりもうこっち見るな」 「小金澤さんは、逆の立場ならこの状況で見るのやめるか?」  悪戯っぽい音が聞こえてくる。唇が捕まった手に触れる。  落ち着かせるつもりで俯いたのに、気持ちが溢れて、涙が止まってくれない。  そうだな。  俺でも、見るの、やめないだろうな。  

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