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第41話 晴人の母親
呼び止められた近くにあった喫茶店に、瑞稀と晴人の母親 は入り、向かい合って座った。
店員に運ばれてきたアイスコーヒーのグラスの周りについた水滴が流れ、コースターを濡らしている。
「呼び止めてしまって、ごめんなさい」
初めに口を開いたのは、母親の方だった。
「実は瑞稀さんとお話をしたいことがあって……」
昔、瑞稀の母親が屋敷で住み込みの使用人をしていた時、晴人の母親は瑞稀のことを『瑞稀くん 』と呼んでいた。
だが今は『瑞稀さん 』
二人会わなかった日々の流れを感じる。
「……」
言われなくても話の内容がわかった瑞稀は何も言えず、黙ったままだ。
「今、晴人と一緒に暮らしているって……お付き合いしてるって、本当?」
物腰は穏やかだが、改めて晴人の母親に聞かれるとどきっとする。
でもここで嘘はつけない。
「はい……」
ためらいながらも、瑞稀は答えた。
「そう……。お付き合いしてどれぐらい経つの?」
「一年と少しです……」
瑞稀がそう言うと、
「そう……」
と母親は答え、
「瑞稀さんとお付き合いし始めて、晴人 は両親 と連絡を取らなくなったわ」
棘のある言葉を瑞稀に投げかけ、瑞稀の罪悪感を煽る。
「そのことはご存じ?」
口調がキツくなる。
「はい……」
「いつから?」
「3週間前です……」
「私たちと晴人の今の関係を知っていながら、あなたは何もしてこなかったの?」
「……」
そう言われてしまえば、瑞稀は何も言えない。
瑞稀が黙っていると、晴人の母親はバックの中から、茶色い封筒を取り出し、
「受け取って」
瑞稀に差し出した。
「これは……?」
差し出された封筒を瑞稀が不思議そうに見つめると、
「中に小切手が入ってるの。そこに好きな金額を書いてもらったら、銀行ですぐに現金にしてもらえるわ」
「……え……?」
母親の予想しない言葉に、瑞稀にはその理由が理解できず、顔を上げた。
「晴人と別れてほしいの」
「!!!」
「今は晴人と一緒に住んでいるから、別れた後、住む場所や家財道具を揃えないとダメでしょ?それに新しい仕事を探すまでのお金や、当面の資金が必要になると思うの。だからそのお金でまかなってほしいの」
「それって、もしかして……」
そんな……まさか……!!
「手切金よ」
清々しいまでの笑みで母親が答えた。
「小切手は4枚入ってるわ。好きな金額を、好きな時に受け取ってちょうだい」
「……」
晴人の母親の言葉に、瑞稀は震える。
「だから、金輪際、晴人に近づかないでほしいの。これは瑞稀さんにとっても、いい話なのよ」
母親は話を続ける。
「晴人にはちゃんとした 婚約者がいて、半年後、入籍するの。お相手は総合病院のお嬢さん。そして晴人はゆくゆくは、主人が経営している病院の院長になって、代々受け継いできた山崎家を守っていくの。そのために晴人は今まで頑張ってきたの。それなのにあなたのせいで、今、晴人の人生は狂ってしまっているわ。晴人の幸せを願うなら、あなたは晴人と一緒にいるべきではないのよ。瑞稀さん、私は一生一緒になれない人といることは辛いと思うの。だったら今のうちにあなたにあった人を、探して幸せになるべきなんじゃないかしら?」
つらつらと母親の口から、瑞稀を追い込む言葉が発せられる。
胸が抉られて、赤い血が流れているようだ。
「晴人を幸せにするのも、不幸にするのもあなた次第なの。わかるでしょ?」
「……」
瑞稀は何も言い返せなかった。
今まで、晴人が頑張ってきた姿も、自分が晴人に見合っていないこともわかっていた。
だけど、それでも瑞稀は晴人のそばにいたかった。
瑞稀の顔をじっとみて、『好きだよ』『愛してる』と言ってくれる晴人が大好きだった。
自分が愛されてるからだけじゃない。
瑞稀自身も晴人を愛している。
心の底から、ずっと。
幼い頃、瑞稀を助けてくれた時からずっと。
晴人は瑞稀の希望で憧れで、愛する人。
だから僕は……。
「受け取れません」
差し出された茶色い封筒を、瑞稀は突き返した。
「晴人さんがご結婚されるのでしたら、きちんと晴人さんと話し合って、どうしていくか決めます。旦那様や奥様との関係も、僕がなんとかします。だから……」
瑞稀がそう言いかけた時、
「あなたが何かできる立場だと思っているの?」
氷河のような冷たい言葉が瑞稀を襲う。
「あなたは自分の存在が、晴人にとって、そんなに重要だと思ってるの?」
「……」
瑞稀は何も言い返せない。
晴人は瑞稀のことを特別だと言ってくれた。
でも、その特別が晴人の人生を変えられるものなのか?
変えていいものなのか?
気持ちがぐらつく。
「猶予 を1週間あげるわ。その間に晴人の前からいなくなってちょうだい」
鈍器で頭を殴られた衝撃を瑞稀は受けた。
「あ、瑞稀さんの新しいご家族、幸せそうでなによりね。あなたがいなくなって、本当の家族になれたんじゃないかしら? あなたがいなくなった方が、みんな幸せになれるのね」
そう言うと、晴人の母親は伝票をサッと取り、店を後にする。
顔さえ上げられず止めることのできない涙を流し続け、残された瑞稀は、その場から動くことさえできなかった。
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