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第52話 新たな生活

「みーくん、無理しちゃだめだよ」  麦わら帽子を被り、肩からかけたタオルで額の汗を拭きながら、収穫したばかりのナスやきゅうりをオレンジ色の収穫かごに入れる瑞稀に、畑の畦道(あぜみち)から祖母が声を掛ける。 「大丈夫だよ、おばあちゃん」  額の汗を拭きつつ、瑞稀は祖母に歩み寄る。 「千景(ちかげ)は、お利口にしてる?」 「ああ、いい子にしているよ。今だってほら…」  祖母の背負われている生後3ヶ月の千景を、瑞稀に見せた。 「ほらいい子で眠ってるでしょ?」  祖母の背中で、千景は気持ちよさそうに眠っている。  今は眠って見えないが、瞳は瑞稀と同じサファイヤのように蒼いが、その他の容姿は幼い頃の晴人そっくりで、髪は漆黒(しっこく)のように深い黒。 「ミルクをよく飲んで、よく笑って、よく眠って、時々泣いて…。本当に元気に大きくなっていってるよ」  ぐっすり眠る千景の顔を見ると、さっきまでの疲れが、瑞稀の中からなくなっていくようだ。 「それにしても最近の抱っこ紐は便利だね。すぐに抱っこもおんぶもできるよ。それに腰の負担も少ないから、ずっとおぶってられるよ」  祖母はそう言ってくれているが、千景は日に日に大きくなる。  日中千景の世話をお願いしている瑞稀としては、祖母の体も心配だ。 「おばあちゃん、いつも千景の世話を任せてしまって、ごめんね。保育園に通えるようになったら、畑の手伝いも千景の世話も、全部僕がするから…」  1人で何もできない瑞稀(自分)が不甲斐ない。 「なに言ってるの。可愛い孫とひ孫と一緒にいられるんだよ。それにみーくんには私の代わりに畑仕事をしてもらってるんだ。私の方こそ、いつもありがとう。みーくんがママになっても、みーくんは私の可愛い孫にかわりないんだからね」  祖母はシワのある手で、瑞稀の頭を撫でた。  晴人の部屋を出て、瑞稀は父方の祖母を頼った。  突然、妊娠した瑞稀()が訪ねてきた時、祖母は一瞬驚いた様子だったが、すぐに「おかえり」と笑顔で瑞稀を迎え入れた。  祖母は田舎の大きな家で一人で暮らし、作る量は多くないが畑仕事をしていて、瑞稀は妊娠中体が動く間は畑仕事を手伝い、産後、動けるようになってから、またすぐに畑仕事を再開し派遣の仕事を始めた。  瑞稀が仕事の間、千景の世話は祖母がしていた。  三人穏やかな日々。  はじめはヒソヒソと瑞稀の噂話ばかりしていた近所の人たちも、瑞稀の働く姿や素直で優しい人柄に触れるにつれ、みんな瑞稀と千景に優しく接してくれるようになった。  そしてそんな日がずっと続くと思っていた。    時は過ぎ、千景が保育園に通い始めた8月。  瑞稀が千景を保育園に預け、家に戻ってきた時、祖母が部屋で倒れていて、すぐに救急車で運ばれたが、祖母はそのまま帰らぬ人となってしまった。  死因は『心筋梗塞』  あっという間のことだった。    死を悲しむ間も無く、お通夜、葬式が終わり、大きな家に瑞稀と千景、2人取り残された。  つい数日前までは、家の中には絶えず笑い声と笑顔が溢れ、旬の野菜をふんだんに使った祖母の温かな手料理が食卓に並んでいた。  なのに今は、暗く重い空気が家中にまとわりつき、食卓には何もない。  何もする気が起きない。  だが瑞稀は母親だ。  千景を心身共に健全に育てていく義務がある。  千景と接する時は笑顔を絶やさないようにし、食事は栄養があり温かなものを用意した。  だが自分のものといえば…。  ほとんど食べ物が喉を通らず、痩せていく一方。  心配した近所の人たちが、食事を運び、話し相手になり、やっと瑞稀の気持ちが上向き始めた時、祖母の残した遺産分与について、親族たちが争い始めた。  祖母は瑞稀に家と畑が残るようにと遺言を残してくれていたが、瑞稀の母と駆け落ち同然で出ていった男の息子に、多額の遺産を渡す。  それが他の親族にとっては納得がいかないようだ。  瑞稀はその争いに耐えられず遺産を放棄し、祖母の家を出た。  祖母の家を出てから、瑞稀は寝る間を惜しんで仕事をし、千景の世話をした。  自分に何かあった時、千景が苦労することなく暮らせるよう、お金を貯めたかったのだ。  そしてその働きっぷりが派遣会社の役員の目に止まり、直々に「この町から都会へ出ることになるが、給料も待遇もいい仕事がある」と新しい職場、大手企業本社ビルの清掃員の仕事の話が来たのだった。  晴人とバーで再会したのは、瑞稀が18歳。  晴人の元を去ったのは、瑞稀が19歳。  千景を出産し、清掃員としての新しい職場にも生活にも慣れ、今、瑞稀は25歳、千景は5歳で元気に保育園に通う年中さん。  瑞稀の愛情をいっぱいに浴び、千景はすくすく大きくなっていた。  

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