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第79話 お別れ遠足 ①

 瑞稀、晴人、千景の関係は進展することなく、再会してから3ヶ月が経ち、季節は春に向かう3月となっていた。  千景の保育園ではもうすぐ進級でのクラス替えの前に『お別れ遠足』という行事がある。  遠足の行き先は動物園で現地集合。  その日瑞稀は仕事を休み、朝から千景が好きなものばかりを詰め込んだ弁当を作った。  お別れ遠足を楽しみにしていた千景は、バスと電車で向かう最中、ずっと鼻歌を歌っていた。  動物園の入り口近くの集合所につくと、千景は誰かを探すようにキョロキョロする。 「何を探してるの?」 「え~っとね……。あ! 来たよ! 雫くんおはよ~」  千景の視線の先には、千景めがけて走ってくる雫の姿が。  そしてその後ろには……。 副社長?  昴の姿があった。 「千景くん、おはよ~」 「おはよ~。動物園楽しみ楽しみだね」 「うん! 楽しみ!」  千景と雫は両手を取り合って喜ぶ。 「成瀬さん、千景くんおはよう」  昴は雫から少し遅れて歩いてきた。 「副社長、おはようございます」  どうして|動物園《ここ》に昴がいるのか聞きたかったが、詮索するのもおかしいので聞くのをやめた。 「仕事場ではないし雫の付き添いとしてきているからここでは『副社長』と呼ぶのはやめないかい?」 「はい……ではなんとお呼びすればいいですか?」 「そうだな……『雫くんのおじさん』っていうのは長いから、苗字の『内藤』と呼んでもらえるかな?」  会社で昴は瑞稀から見れば雲の上のような人。  でも今日ここで『副社長』と呼べば、昴が瑞稀の派遣先の副社長であるということが、他の保護者に知れてしまう。 「内藤、さん……おはようございます……」  瑞稀は恐る恐る言う。 「そんなに怯えなくても」  瑞稀の怯える姿を見た昴がクククと笑う。  いつもの副社長としての威厳ではなく、甥っ子を可愛がる1人の叔父としての顔が垣間見れた。 「それじゃあ千景、そろそろ行こうか」  瑞稀が千景の手を繋ぐと、 「あのね、雫くんと一緒に行く約束してるんだ」 「ね~」  千景と雫はお互いの顔を見合わせ「ね~」と言いながら、笑顔で手を繋いでいた。 「え?」 「え?」  瑞稀も昴もそんなことは何も聞いていないし、昴とはまだ数回しか会っていない。  しかも仕事場では身分が違いすぎて、昴はいわば雲の上の人。  そう馴れ馴れしくできない。  気まずい雰囲気が流れる。 「ねぇママいいでしょ?」 「え~っと……」  チラッと昴を見ると、昴も困った顔をしている。 「ねぇ昴くんいいでしょ?」 「いいでしょ?」 「……え……」  可愛い甥っ子雫とブルーの瞳の千景に、うるうるした瞳で下から見上げられると、なんと答えていいか分からず困り果てている。 子ども達にそんな顔で訴えられたら、断れないよね。  眉を八の字にし困っている昴を見ていると、今度は瑞稀がクスクスと笑ってしまった。 「成瀬さん……どうします?」 「そうですね………」  ちらりと雫と千景を見ると、 「ね、ね、ね、ママお願い!」 「千景くんのママ。お願いお願いお願い」  可愛い天使達に拝まれてしまった。  自分の気持ちをなかなか言わない千景が、こんなにお願いするのは初めてだ。  それに雫にまでお願いされると、これはもう叶えてあげるしかない。 「そこまで言うなら……。内藤さん、もしよろしければ一緒に回っていただけますか?」 「え!? あ、ハイ! 喜んで!」  昴の顔も綻ぶ。   面白い人だな。  子ども達と一緒にはしゃぐ昴が、可愛くも見える。 今の姿が副社長の本当の姿なのかもしれない。  昴の存在が少し近くなった気がした。 「ママ見て~! ぞうさん!」 「昴くん! お母さんぞうさんと赤ちゃんぞうさん!」  千景と雫は象の檻の前に走る。 「前見て走れよ」 「「は~い」」  元気よく返事をする2人だが、あまり前を見ていない。 「ったく雫のやつ……」  困りながら昴はぼやくが、なんだか嬉しそうに見える。 「2人とも楽しそうですね」 「本当に」  2人の後ろを歩きながら見守る昴と瑞稀は遠目から見ればきっと父親と母親に見るだろう。  でも昴は雫の叔父。  お別れ遠足には昴以外は保護者と一緒に来ている。 どうして今日、雫の保護者の方じゃなくて、副社長が来られているのか聞いていいものだろうか……。  好奇心から聞くのは無神経な気がして、瑞稀からは聞けない。 「雫の母親は俺の姉さんだって話はしたよね」 「はい」 「実は今日、俺が雫の付き添い人としてきたのは、|雫の母親《姉さん》の出産が早まりそうで、いつ産まれてもおかしくないからなんだ」 「……」 「それで義兄さんも|雫の母親《姉さん》に付き添ってるから、雫は『お別れ遠足』を休みにしようかって話になったんだが、そんなのは可哀想だろ?」 「そうですね」 「そこで心優しい叔父さんが付き添い人になったってわけ」 「そうだったんですね」  そう答えたが、昴は大企業の副社長。  平日の昼間に外出できる時間は、ほとんどないはずだ。 「こう見えて、俺、仕事早いから休みを取ろうと思えばとれるんだよ」  昴がいたずらっぽく笑う。  それでもいつもの昴の仕事量を知っている瑞稀としては、1日休みを取るだけの仕事を終わらせるのが、どんなに大変なのか想像できる。  雫が遠足に来られたのは昴のおかげだと経緯を知って、昴は本当に雫のことを大切に思っているんだと感じた。 「成瀬さんが千景くんと来ることはわかっていたから、俺は気配を消して気づかれないようにしたんだけどね。まさか一緒に回ることになったなんて……」  申し訳なさそうに昴は言った。 仕事場でしか会わないし、ちゃんと話したこともないし身分が違いすぎるから確かに気まずい。 でも今は保護者同士。 仕事じゃない。 「そんなことないです。千景も雫くんと一緒に回れてあんなに楽しそう」  象の檻の前ではしゃぐ2人を見ていると、心が暖かくなる。 「千景、雫くんに仲良くしてもらって、本当に毎日嬉しそうに保育園に行ってるんですよ」  千景が瑞稀に保育園であったことを話す時は必ず、雫の名前が出てきていた。 「雫は母親の妊娠で『赤ちゃん返り』ってのになって大変だったって……」 『赤ちゃん返り』  子どもが自分でできていたことができなくなり、赤ちゃんだったときのような行動を取ることで、何かにつけて「イヤイヤ!」とごねだす。 それは仕方の無いことだと頭でわかってても、その子の気持ちが落ち着くまで待つのは根気がいる。 母親が妊娠、出産時にはなりやすいって聞いたことがあるけれど、雫くんもそうだったんだ。 「でも千景くんと一緒に遊ぶようになってから、赤ちゃん返りがなくなったって姉さんから聞いてる。2人は本当に仲がいいんだな」  優しい顔で昴は2人を見た。  仕事場での昴は仕事も自分にも厳しく、いつも何かに集中している表情で、時折取っ付きにくい感じもする。だが今日の昴は笑顔が絶えず、雫と千景を見る目が優しく2人を包み込んでいるようだ。 「内藤さん、実はいい人だったんですね」  ポロッと気持ちが言葉になってしまい、瑞稀は慌てて口を押さえる。  瑞稀の発言に、一瞬、目を丸くした昴だったが、すぐに口を大きく開けアハハハハと笑った。 「成瀬さん、俺をどんな人間だと思ってた?」  言ってしまったことは仕方ない。  瑞稀は覚悟を決めた。 「いつも険しい顔をされていて、常に完璧を求める厳しい人だと思っていました…。失礼なことを言い、申し訳ありません…」  瑞稀はそこまで一気に言い、昴を不快な気持ちにさせていないか、様子を伺う。 「アハハハ。成瀬さんは素直な人だね」  楽しそうに昴は笑った。 「確かに会社では険しい顔になっている自覚はあるね」   いつもの自分を振り返るようなそぶりを、昴は見せた。 「俺、副社長の中ではダントツに若くてさ、どこに行っても『どうせ会長の孫だからだろ?』って目で見られるんだ。だからそれをどうしても払拭したくて、完璧を求めすぎていたのかもしれない…。そうか、俺はいつも険しい顔をしてるか……」  また昴はアハハハと声を出して笑う。 「失礼なことを言ってしまって、すみません……」 「いや、そんなこと誰も教えてくれないから、本当に助かったよ。明日からは笑顔を心がける」  ニカっと昴が笑った。 「その笑顔、素敵ですよ」  またポロリと瑞稀の本音が口を突いてでた。  昴は目を大きく見開き、 「本当にあなたって人は…」  そう呟いて、切なそうに空を見上げた。

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