106 / 111
第106話 桜の木の下で
千景に父親のことを話した晩。
千景寝静まった後、瑞稀と晴人は今後のことを話し合いをした。
千景の言う通り、親子三人で一緒に住むことが一番いいと、できるだけ早く晴人が住むマンションで一緒に住もうということになり、引越しするまでの間、仕事帰り晴人がアパートに立ち寄り夕飯を食べて帰る日々が続いた。
瑞稀の新しい仕事場は決まっていたが、千景の怪我と入院で一度も出勤できていなかったことと、今後千景に何かあった時、晴人と瑞稀の職場が同じだと都合がつきやすいということから、派遣会社に職場移動の取り消しを相談したところ、今まで通り、内藤グループで幸恵と和子と共に正規の清掃員として働けることとなった。
仕事復帰した時、幸恵と和子に仕事のこと、晴人とのこと、晴人と両親とのこと、千景とのことを話すと、二人は涙を浮かべながら喜んだ。
社内で広がっていた噂は、瑞稀が千景に付き添っている間に昴が誤報だと周知させ、今後このような噂が出た時には、必ず上に報告して真実を調査させることとなった。
すれ違って噛み合っていなかった歯車が、一気に噛み合うように、解決できないと思っていた問題が、みるみるうちに解決されていく。
暗がりの中、手探りで毎日を送っていたことが嘘のように視界がハッキリし、誰に隠し事をすることも無く、晴れ晴れとした気持ちで過ごせる幸せを瑞稀は感じていた。
そして千景の退院から一週間後。
瑞稀と千景が晴人の家に引っ越す日が訪れた。
晴人が住む高層マンションの下に、引越しセンターのトラックが停まり、瑞稀と千景の荷物が晴人が一人で住んでいた部屋に次々と運び込まれる。
晴人一人の服だけしかかかっていなかったクローゼットに瑞稀の服がかけられ、以前は書斎だった部屋は千景の荷物や新しいベッドが運び込まれ、千景のための子供部屋になった。
食器棚にも三人分の食器が片付けられ、洗面所には歯ブラシが三本。
殺風景だった部屋の中に、人の温もりが加わったようだ。
「お昼は外に食べに行こおう」
朝からずっと片付けをしていた瑞稀と千景に晴人が提案し、三人仲良く家の近くのファミレスに行った。
千景はお子様プレート、瑞稀と晴人はパスタとピザを食べ、帰りにスーパーに寄り夕飯の材料を買う。
ありきたりな昼下がり。
そのありきたりな昼下がりが瑞稀にとって、とても新鮮で幸せだった。
「ねぇママ、ここの公園で遊びたい!」
スーパーからの帰り道、たまたま通りかかった小さな公園の前で、千景は足を止めた。
晴人が持つエコバッグには野菜と一緒に肉や魚、牛乳などが冷蔵保存の物が入っている。
あまり長居は出来ないが、新しく見つけた公園を目の前にそのまま素通りは可哀想だ。
「晴人さん、少しの間だけいいですか?」
念の為晴人に確認をとると
「もちろん」
と返事が返ってきた。
「お買い物の帰りだから、ママが帰ろうねって言ったら帰れる?」
「うん! 帰る!」
「じゃあ気をつけて行ってらっしゃい」
瑞稀のが千景の頭を撫でると、
「やったー!」
一目散に千景は複合型の遊具めがけて駆け出した。
昼下がりということもあり、小さな子供を連れた親子連れが何組かいた。
公園内には滑り台や縄の橋、登り棒が一つにまとまった複合型遊具と、ブランコに鉄棒。
周りをぐるりと囲むように植え込みと、小さな花壇、そして複合型の遊具の傍には、一本の若い桜がたくさんの花を咲かせていた。
本当はまた怪我をしないか心配で、遊具では遊ばせたくない。
でも全てダメだと言ってはいられない。
それに遊具に書かれている対象年齢は三歳以上で、そこまで大きくない。
遊具の下はクッション性の素材が敷き詰められていて、そばで見守っていれば落ちても大怪我になることはなさそうだ。
「パパ見て~。一人で登れたよ~」
遊具のいちばん高いところにある滑り台の上から千景が手を振り、晴人と瑞稀は手を振り返す。
千景は滑り台を滑り切り、遊具に登り始める。
「千景はいつもあんなに元気に遊びまわるのか?」
千景と過ごす時間が増え、初めは「千景くん」と呼んでいた晴人だが、徐々に「千景」と呼ぶようになり、千景は晴人のことを完全に「パパ」と呼んでいた。
「気持ちが前のめりになりすぎて、危なっかしいぐらい元気に遊びまわるので、見てる僕がヒヤヒヤします」
「今の千景を見ていると、瑞稀のヒヤヒヤする気持ちがよく分かる」
そう言いながら、晴人は心配そうに千景の様子をずっと目で追う。
千景も晴人が自分のことを見てくれているとわかっているようで、何かができる度「パパ見て」と何度も呼ぶ。
「晴人さん、荷物持ちます」
大きな荷物を持ちながら千景を追いかけていた瑞稀は、荷物が邪魔になる経験をよくしていたので、スーパーの荷物を持ちながら千景を見守る晴人に声をかけた。
「大丈夫だよ」
「でも荷物を持ちながらは大変じゃないでか?」
「荷物が邪魔になるけど、大丈夫」
「?」
「今まで瑞稀はこうやって一人で頑張ってくれてたんだろ? これからは俺も瑞稀と一緒に、なんでも乗り越えていきたいんだ」
「晴人さん……」
ーなんでも一緒に乗り越えていきたいんだー
今まで、何かに迷ったり困ったことがあったとしても、相談できる人がいなかった。
何が正解かわからないまま、今まで走ってきた。
でもこれからは一人じゃない。
何か迷ったり、困ったときには晴人がそばにいる。
心強かった。
「晴人さん、ありがとうございます」
「瑞稀、今までありがとう。これからは一緒に頑張っていこう」
晴人がそう言ったとき、滑り台を滑ってきた千景が「パパ抱っこ」と、晴人に駆け寄る。
「おいで」と晴人が両手を広げると、千景は晴人の胸に飛び込み、晴人はそのまま千景を抱き上げ、桜の木の下に歩いて行く。
急に強い風が吹き、晴人と千景の周りを桜の花びらが舞い、二人が笑う。
なんて美しいんだ。
瑞稀は思った。
これから先、こんな素敵な二人の姿を見られると思うと、幸せでしかたない。
これから先、二人の笑顔を守っていきたいと思った。
晴人と千景の一番そばで、二人のことを見守っていきたいと思った。
「ママもおいで~。すっごくきれいだよ」
「瑞稀、もう満開だ」
二人に手招きされて、瑞稀は桜の木の下に歩いて行く。
「晴人さん。お願いがあるんです」
「ん? なに?」
「僕と番になってください」
「え……?」
晴人の目は大きく見開かれ、嬉しさと喜びと驚きが入り混じったような顔で、瑞稀を見つめる。
「僕と千景と家族になってください」
瑞稀は微笑んだ。
もしこの願いが叶えられれば、もう何もいらないと思った。
「……」
瞬きを忘れ、瑞稀を見つめる晴人の瞳に涙が溜まる。
一歩、また一歩と瑞稀に近づく。
千景を抱いたまま、ゆっくりと瑞稀の背中に腕を回し、今この瞬間を噛み締めるよに、そのまま抱き寄せる。
「俺を受け入れてくれて……ありがとう」
力強く瑞稀を抱きしめた。
「俺と選んでくれて、ありがとう。俺からも言わせて欲しい。瑞稀、愛してるよ。これから先の人生、一緒に歩んで欲しい。だからお願いだ、俺と番になってくれないか?俺と家族になってくれないか?」
瑞稀を抱きしめる晴人の手が微かに震える。
瑞稀は晴人の背中に両腕を回し、ぎゅっと抱きしめ、
「はい」
力強く答えた。
また風が吹き、今度は瑞稀と千景と晴人を包み込むように花びらば舞う。
どこまでも透き通るような青空に、ところどころ綿菓子のような雲が流れていく。
穏やかな春の木漏れ日の中、瑞稀と晴人、千景の未来が動き始めた。
ともだちにシェアしよう!