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第111話 想い そしてこれから
診療は終始和やかに進み、「次回は四週間後に来てください」と言われ、診察室を出た。
会計をし、病院にいた晴人の父親に挨拶と妊娠の報告をすると、晴人の父親も瑞稀の妊娠を晴人と同じぐらい喜んでくれた。
帰り際に「困ったことがなくても頼って欲しい。千景くんの送り迎えだって任せてくれ」と言いながら胸を叩いた時には、瑞稀はもう吹き出さずにはいられなかった。
病院の隣りにある専用の駐車場に停めてある車の助手席に、瑞稀は乗り込む。
千景をチャイルドシートに乗せて、晴人は車を発進させた。
ハンドルを握る晴人の左手薬指には、瑞稀とお揃いの指輪が光る。
五年前、晴人が瑞稀にプロポーズした時贈った、あの指輪。
瑞稀は指輪を見つめながら、車を運転する晴人の横顔を見ていると、七ヶ月前のあの凍えるように寒い雪の日のことかが、ふと頭に浮かんだ。
粉雪を見ると、思い出すでしょう。
貴方の前から姿を消し5年の月日が流れた後、貴方と二度目の再会をした日のことを。
あの日も貴方と初めて会った時と同じように、粉雪が風に舞っていましたね。
凍えるような寒い冬が過ぎ、暖かな風が吹き始め春が訪れると、思い出すでしょう。
貴方と愛を確かめ合い、貴方のそばで生きていこうと決めたことを。
花びらが舞い散る若い桜の木の下で、ともに生きていこうと誓い合いましたね。
浴衣姿で夏祭りに向かう人達を見ると、思い出すでしょう。
お祭りの帰り道、千景が「僕、お兄ちゃんになるんだね」と言ったことを。
病院で僕のお腹に新しい命が宿ったと聞いた時、誰よりも一番喜んでくれたのは貴方でした。
そして残暑残る中、空を見上げ鱗雲を見つけると、思い出すのでしょうか?
みんなで新しい命が無事に生まれてきてくれることを、楽しみにしていることを。
夏を惜しむように鳴く蝉の声を、今度は一人でなく四人で聞くんでしょうね。
そしてまた冬が来て粉雪を見ると、思い出す。
貴方と千景と新しい家族との四人の思い出を。
貴方と出逢い、貴方だけを愛し、貴方と千景を愛し、小さな命を愛し、僕は大切な家族を愛していくのでしょう。
こらからどんな季節が訪れて、どんな風景をみせてくれるのでしょうか。
確かなことはただ一つ。
もう二度と色のない世界が訪れることはない。
鮮やかに輝く生活に、毎日新しいページが増えていく。
晴人さん。
初めて会った時のことを覚えていますか?
粉雪が降る中、冷たくなった僕の手を両手で包み込み、温めてくれたことを。
あれから20年。
長いようで早かった20年。
今度は僕が貴方を温めていきます。
ありきたりですが、
健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、貴方を愛し、敬い、慰め、助け、この命ある限り、感謝の気持ちを忘れずに、真心を尽くすことを誓います。
瑞稀はずっと隣りにいてくれると言ってくれた晴人のことが、愛しくてたまらない。
「晴人さん、愛してます」
心の声が溢れた。
突然、瑞稀に愛を囁かれ、晴人は目を丸くしたが、すぐにふっと笑い、
「俺も愛してる」
囁き返す。
晴人に出会った瞬間好きになり、一緒の時間を過ごしていくうちに、好きから恋に変わり、晴人のことをより知っていくうちに、恋から愛に変わった。
こんなに愛する人に出逢えて、お互いを想い合い愛し合う。
こんなにも幸せなことがあっていいのだろうか?
夢ではないかと、瑞稀は自分の頬をつねった。
つねった頬は痛かった。
きちんと痛かった。
「夢じゃ、ない」
瑞稀は痛みを噛み締めた。
「夢じゃないって、何かあった?」
「こんな幸せがあっていいのかって思って」
「どうして?」
「晴人さんがいて千景がいて、お腹には赤ちゃんがいる。お義父さんやお義母さん、父さん、母さん、すみれ、みんなに祝福されている。僕が思い浮かべていた夢以上の現実が目の前にあって、これは全部、夢なんじゃないかって思ってしまったんです」
瑞稀がそう言うと、晴人はあははと笑った後、
「夢だったとしたら、本当に困る」
と、わざと物凄く渋い顔をする。
「頬をつねらなくても、これは夢なんかじゃない。もしまた夢なんじゃないかって不安になったら、その時は『これは夢じゃない。現実なんだ』って瑞稀の隣りで言い続けるよ。だから安心して今の幸せを大切にしていこう」
晴人は瑞稀の手の上に自分の手を重ねた。
瑞稀は大きく頷く。
「ママお空見て。アイスクリームみたいな雲があるよ」
後部座席から千景の元気な声がする。
瑞稀が空を見上げると、真っ白な入道雲が沸き立っていた。
「本当だ、アイスクリームみたいだね」
「食べられるかな?」
千景が訊く。
「雲は食べられないけど、あんなに大きなアイスクリームがあったら食べたいね」
「うん!食べたい」
「じゃあ、今からアイスクリーム食べに行く?」
晴人が提案すると、千景は両手を高く上げ、
「やったー!」
とガッツポーズをする。
「それじゃあ」
晴人は車をUターンさせ、高速に乗る。
「アイスクリームのお店、そんなに遠いんですか?」
瑞稀が訊くと、晴人はおもむろにBGMをかける。
曲はボサノバ&ジャズ系の癒しの曲。
「もしかして……」
「そう、そのもしかして」
得意げに晴人が微笑む。
「え?なになに?僕にも教えて」
一人わかっていない千景は瑞稀も晴人を交互に見た。
「それは着いてからのお楽しみ」
晴人はチラリと千景を見る。
「確かあのお店には、おいしそうなお子様ランチありましたよね」
「そうそう、あったあった!」
「お子様ランチ!?」
「しかもご飯がくまさん」
「くまさん!?」
千景の目が期待でキラキラ輝く。
「晴人さん。今日はあのお店でお昼にしませんか?」
「いいね、そうしよう」
「千景、今日のお昼ご飯は、くまさんお子様ランチに決定~!」
「くまさんお子様ランチに決定~!」
千景は両手を高くあげ、バンザイをしながら大喜びした。
どこまでもついてくる入道雲を横目に、三人を乗せた車が海岸線目指して走っていく。
高速を降りたら別世界。
海を見ながら車は走る。
二人の思い出の場所に向かって……。
ーー終わりーー
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