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第36話 橘莉音という男
「何もかもが急で……どうすると言われても……。」
「君は、母と叔父の業を背負って生きている。アキさんは十分頑張ってきた。君のような男子を立派に育て上げた。叔父だってずっと心苦しかったのだ。純愛を求めた結果、一番愛した人に苦労をさせた。アキさんは今こそ報われ、叔父は償う時が来た。俺はそう思うが?」
「そう……ですけど……。叔父さんにも、家庭がもうあるのですよね?」
「ああ。できた奥さんだ。こちらはこちらで相思相愛だよ。」
藤波は酒をあおった。
「なら、今更、俺たちのことは……叔父さんにとって、不都合ですよね。」
「叔父はね……俺を小説家にした人なんだ。俺が書く以外何もできないと見抜いて、高校時代作った同人誌を知り合いの編集長に見せた。コネか才能かはわからないが、こうして作家業を続けられている。俺の感性を信じた叔父は、アキさんとのことを俺という他人に初めて話したんだ。『自分と出会わなければ、アキさんは別の幸せを手に入れられたのに』と。」
橘は黙って話を聞いた。
「これは、神の導きだよ。莉音、援助自体はね、君が思うほど大したことじゃない。君が許可してくれれば、叔父の魂は救われる。」
藤波はいつになく押してきた。
藤波の言う通りだと思う。
母の苦労を軽くしてあげたい。
自分も、那央と幸せになりたい。
これ以上ない申し出だ。
「……要芽さん。要芽さんは、手を使って仕事をする人が好きだと言っていましたね。」
「ああ。」
「俺も共感します。母はいつもくたくたなのに、手料理を作ってくれました。一緒に食べれなくても、料理を作っている時の母は、きっと俺のことを大切に思ってくれていたと思います。それに、俺が宇宙に興味を持ったのは、母と一緒に過ごせない寂しさを紛らわすために、毎日海辺から星空を見ていたからです。」
藤波は橘をじっと見ている。
「確かに母は苦労しましたが、母が選んだ道です。俺も、あの頃の寂しさがあったから、今があって、那央とも出会えました。決して、獅堂さんが罪悪感を抱くような不幸な人生ではありません。母は母なりに、俺は俺なりに、幸せになれます。だから……自分は自分を信じて生きていきたいし、母には……獅堂さんの気持ちを知らせたくないと思っている自分がいます。」
橘は、一気にそう話すと、ため息をついて、酒を口にした。
「そうか……。わかったよ。アキさんが獅堂の成功を知らないとは思えない。アキさんが泣きつこうと思えばいつでもできた。それをしなかったのだから、きっと君と同じ気持ちなんだろうよ。」
藤波は微笑みながら、橘に酒を注いだ。
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