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第89話 英公と要芽

二人は、学園内のカフェテラスに移動した。 学園は小高い丘に立てられていて、カフェテラスからは街を見下ろすことができた。 春の日差しが心地よかった。 「まさか、こんなところで要芽の近しい人と会えるとは、思いもよりませんでした」 英公はコーヒーに口をつけた。 「私もです!お父さんだったなんて……」 英公と要芽は似ていた。 幾分、英公の方が穏やかそうに見えた。 細身の黒いスーツが似合っている。 那央は、これまでの経緯を話し、お世話になっていることのお礼を言った。 ただ、橘と獅堂の話は伏せた。 獅堂の兄とはいえ、知らないかもしれないからだ。 橘の努力を見た要芽が、獅堂に引き合わせて応援している、ということにした。 「そうでしたか。彼がそんなことをする人間だとは、思ってもみませんでした。彼が大学に進学し、一人暮らしをするようになって、連絡が途絶えました。別に、近くに住んでいるし、会おうと思えばいつでも会えるのですが。彼は私を見下していましたから、お互い意固地になって、関わらなくなっていたのです。」 英公は穏やかな表情で話した。 「あまり仲が良くなかったのですか……? 」 「ええ。私の教育は間違っていると、彼が中学のときに、真正面から論破されました。私はその頃、生徒指導に自信があって、慕ってくれる保護者や子どもたちがたくさんいたのです。だから、私も腹が立って、彼を社会不適合者だとなじりました」 英公が苦笑した。 二人が本気でぶつかり合ったら、本当に怖そうだった。 「私たちの間を取り持ってくれたのが、弟の藤波獅堂でした。彼は根気よく要芽に関わってくれました。あんな気が触れたような極端な思想の要芽に、よく付き合えたもんだな、と思います」 今度は那央が苦笑した。 日頃、要芽はくどくど言わないが、夕食後のお酒を飲んでいる時にスイッチが入ると危なかった。 鋭い論で切り刻まれてしまう。 「あとは、翔優ですね。彼が学校に行かなくなったきっかけが要芽だと聞かされたときは、翔優の両親に謝罪しに行きました。あんな戯言で、人の人生が変わるところでしたから。でも、両親は、要芽を信じていました。要芽も、翔優を投げださずに、面倒を見ていました。私は密かに彼が何を翔優にしていたかを見ていました。彼は、私のやっていた教育とは真逆のやり方で翔優を育てました。当然、年齢的な垣根の低さや、翔優の潜在能力もあったと思いますが、そういうやり方もあるんだと、ようやく要芽が何を言いたかったのかわかりました。」 「要芽さんは……先生の素質があったのですか? 」 「それは、難しい話ですね。”先生”の定義によるでしょう。国策として国民を育てるのを先生と呼ぶか、その子の人生の本質に触れる人を先生と呼ぶか。実際は両方必要ですがね」 英公は、外の景色に目をやった。 学園は、街から遠く離れたところにあり、全寮制だ。 環境からして普通の学校とは違う。 先生一人が抱える担当生徒は六人。 本来は一対一が理想らしく、六人でもまだ多いらしい。 「この学園は、あえて能力が元々高い子だけを集め、内面の教育を教員が行い、結果的に人類の存続に資する人材を育成することが目的です。もしそれを先生と呼ぶなら、要芽も合うかもしれませんね。従来の学校の先生なら全く向いていないでしょう」 「じゃあ……逆に言えば、長年学校教育をやっていた、英公先生は、要芽さんと同じ教育に行き着いた……ということですか?」 英公は、フッと笑った。 「……そういうことになりますかね。30代の頃、私は体力もあって尖った性格だったこともあり、有頂天になっていました。当時、私にはまるで神のように慕った先生がいました。教育界の重鎮でもあります。著書を読み、講演を聞き、直接話をする機会も得ました。一緒に働くことはありませんでしたが、自分はその先生の派閥の構成員だという意識すらありました。ところが、その先生のお嬢さんが亡くなったのです。自死でした。”お父様の期待に添えられなくて申し訳ありません”と、遺書を残して……」 那央は絶句した。 自分の子どもに死なれるだけでもショックなのに、それが自分のせいで、自分が大切にしてきた教育のせいだなんて。 「その時、初めて私は、自分がその先生の盲目的な信者だったに過ぎないと気付いたのです。自分の自信のなさを、先生の権威で埋めていただけなんです。中学生の要芽から言われていました。”どうしてありのままの自分で勝負しないのか。卑怯だぞ”と。ハハ、嫌な中学生でしょう?」 英公は笑い、那央も中学生の要芽が言いそうだと思い、笑った。 「私もすぐにはその気づきを受け入れることができませんでした。でも、その後の指導は……いつもと同じようにやってるように見えても、なんか違ったのです。そして、もし自分がここで変わることができたら、子どもたちにもそれを教えることができるんじゃないかと思うようになりました。それからしばらくして、この学園の話が来ました。もう、あなたたちのような若さはありませんが、私なりにまだやれることがあるんじゃないかと思っています」 「要芽さんに会いたいとは、思わないんですか? 」 「そこはお互い頑固なところでね。まあ、私はまだ長生きする予定なので、後回しでいいんです。それに、要芽のことは、本を通して知っています。要芽が本を出すと、弟が買ってきてくれました。彼の物語の主人公は、大体社会から受け入れられない存在でしょう?現代の貴族とか、鬼とか、災厄とか。それはアイツ自身のことなのです。それでいてそこに救いをもたらすのが、”愛”だとアイツは言いたいのです」 「なるほど……」 「一番、愛情表現が下手くそな人間なのにね」 英公のざっくばらんな物言いに、那央は思わず笑った。 「でも、本を通して息子は成長しているというのがわかります。だから、まず今更心配してもしょうがないと思っていますよ」 英公はコーヒーをすすった。 「何より、あなたのような優しそうな人ともやっていけるくらいになってるなら、まず大丈夫でしょう。今後とも要芽をよろしくお願いします」 英公は頭を下げた。 那央も慌てて頭を下げた。

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