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第36話
そんなことは決してあってはならない。だから自分が上手く立ち回らないといけなかった。
過去形なのは別居、という最悪な形を残しているから。
吹く風が冷たい。日が暮れようとしている。
さすがにもう患者は来ないだろう。柵を閉めて室内へ入ると、ルネが疲れきった様子で椅子に座っていた。その表情に昼間のような明るさは微塵もない。
「自分が始めたことだからな。同情はしないぞ」
「あ、お疲れ様。……何だろうね。全然思ってなかったけど、そう言われると同情してほしくなる」
彼は不思議そうに首を傾げ、それから天井を仰いだ。
「大丈夫だよ。使い過ぎと言うより、最近力を使う機会が全然なかったからさ。久しぶりに張り切ったせいだと思う」
言われなくても何となく気付いていた。しかしひとたびこうなると、彼の方が病人のようだ。
ルネの体力によるものなのか、それだけ負担がかかる力なのか……彼は人を癒すと疲弊して寝込んでしまう。いくらでも使える力ではないのに、本人は限界を決めずに治療をするからタチが悪い。
自分の命にかえても人を助けることが当たり前だと思っている。一見聖人のようだが、見方を変えれば異常だ。変人だ。“本当に”赤の他人の為に死ねる人間が、現実にどれだけいるというのか。
俺は無理だ。でもルネは自分が死んで誰かが助かるのなら、迷いもなく命を擲つ。
そう、それこそ他人だったなら、彼の正義感を素晴らしいと賞賛していたかもしれない。でも家族となり、一番大切な人となったら、その正義感が途端に許せなくなる。強過ぎる愛情は憎しみに変わる。身勝手なエゴに近いが、そう簡単に受け入れることはできない。
誰かを助ける行為は尊敬するし、なるべく尊重したい。でも自分の命を軽く見ることだけはしないでほしい。
「珈琲と紅茶どっちが良い?」
「ありがとう。紅茶がいいな」
喉が渇いて仕方ないのは、疲れのせいかそれとも……。
二つのカップに紅茶を淹れ、輪切りにしたレモンを浮かべる。ルネの元へ運び、一つ手渡した。
「心配かけてごめんね」
「心配なんかしてない。ムカついてるんだよ」
「あはは。ごめんごめん」
ルネは一口だけ飲むとカップをテーブルに置き、再び深く後ろに凭れた。反対に、ノーデンスは彼の前に佇む。
「多分……この力を持って生まれたら、君も私と同じことをしたと思う。仕方ないから、可哀想だから、って理由で治療してるわけじゃないんだ。上手く言えないけど……私しかできないんだから、私がやらないと」
語尾はどんどん弱まり、小さなため息と共に着地した。瞼を伏せると彼の長い睫毛が特に際立つ。
ルネの治癒能力は先天的なもの。望んで得た力ではない。それでいながら人助けを続けているのは、やはり彼が善人だからだ。
そしてそんな彼が選んだ相手が自分だという皮肉に、時々笑いそうになる。善か悪かと尋ねられたら、自分は限りなく悪に近い人間だ。無駄なことが大嫌いだし、利益しか興味がない。目的の為ならどんな手も使う。
だからルネは人を見る目がない。
「……」
椅子の背に手を置き、前のめりになる。上から覆い被さる形でルネの唇を塞いだ。
「ん……っ」
性質は伝染る。でもルネの善意は自分の中に浸透しない。
自分の悪意が彼に伝わることもないだろう。それでいい。真っ白のまま、一生騙され続けてほしい。
最後に彼の唇を舐め取り、ゆっくり離れた。もう夕飯の準備をしようと考えたが、突然腰を引き寄せられてバランスを崩す。彼の膝に乗り、息が当たりそうなほど顔が近くなった。
「何」
「君からキスしてくれたから、勿体なくなっちゃって」
「何が」
「うーん、ムード?」
再び口付けられる。今度は熱い舌が中へ入り込んできた。
この万年性欲男め。心の中で悪態をついたが、今は乗ることにした。どうしようもなくむしゃくしゃしていることが自分でも分かる。彼の襟を乱暴に掴み、自分からシャツのボタンを外した。
「ん、んっ……ふ……っ」
上手く息することもできない。幼い子どものように縋り付く。
明かりをつけていないせいで部屋の中が暗くなったが、無視して行為を続けた。今さら離れることなんてできない。例え手探りでもぴったりくっついていたい。
「イライラする」
ベルトを外し、邪魔なズボンを床に落とす。後ろがぬれていることを確認し、ルネの性器に触れた。
「俺に体調管理しろって騒ぐ前に自己管理しろよ。限界を考えずに今のまま突っ走ったら、そのうち本当に死ぬぞ」
額に流れた汗が、ルネの胸元に落ちる。暗がりの中でも光るそれは嫌に目立った。
見れば彼も額に汗を浮かべ、気だるそうに目を細めた。
「そうだね。……確かに君の言う通りだ。正直今はすごくしんどいから」
「じゃあ……」
「でも、一年休んでたからね。リハビリの為にも少しずつ使っていきたいんだ」
後頭部に手を添えられ、額にキスされる。汗ばんだ肌に躊躇いもなく、首筋、胸、脇と順に口付けていった。彼がふっと微笑む。
「君とオリビエを残して死んだりしない。それだけは保証する」
「……」
……簡単に言って。そんな保証どこにあるのか。
人間は簡単に死ぬんだ。それを嫌というほど知っている。
顔を背け、汗で張り付いた前髪を払う。
「自分の為に生きろよ。お前が死んだらあの子が悲しむだろ」
「君だってそうだ。オリビエはひとりっ子なんだし」
「どうかな……」
自嘲的に笑い、彼の肩を突き飛ばした。
「子どもの記憶力なんてアテにならないし、俺のことは忘れてるんじゃないか。……俺も正直忘れかけてるよ。ははは」
日が完全に落ちたみたいだ。部屋の中は黒く染まり、物の形が掴めない。
「忘れるわけがない。君も強く望んだ子なんだから」
彼なりの優しさのはずなのに、心がぐらついた。ずっと感じているこのイライラは、元を辿れば不安に過ぎない。自分に自信がないから生まれる、八つ当たりのような感情だ。
「あの頃な……でも今傍に居ないんだから仕方ないだろ」
声を聞かなきゃ、顔を合わせなきゃ忘れていくのは当然だ。一番の希望や支えも、消えてしまえばやがて慣れるもの。
俺にあの子を与えてくれたのがお前なら。俺からあの子を奪ったのもお前だ。
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