13 / 20

第12話

「ディヒトの精神面を俺は心配してる」 「俺もです。Ωになったからって、好き放題言われて……。誰だって傷付きますよ」  ディヒトバイに投げかけられた言葉の数々を思い出す。それだけでまた怒りが湧いてきそうだ。 「ああ、お偉方の反応、父親の縁切り、レオニードの異動願い……。それだけ続いて、さすがに少しは落ち込んだみてえだな。平気なふりをしちゃいるが、虚勢だってバレバレだぜ」 「……どうしたらいいんでしょう」  アカートは腰に手をついて、もう片方の手で顎に手を伸ばす。 「あいつにはカウンセリングを受けるように言ったんだが、カウンセラーにも何も話さなくてな。俺が話を聞くって言っても駄目だった。まあ、あいつからすりゃ俺なんかには頼れねえんだよな、きっと」 「何かあったんですか、ディヒトさんと」 「ディヒトは生まれるときに母親を亡くしてあの父親に育てられた。だが、官僚の激務でろくに面倒も見れないってんでガキの頃からうちの家に預けられてたんだ。親戚で、年の近い子供がいる家ってんでな」 「そうだったんですか。なんか友達みたいだなって思ってました」  それに本人を目の前に言えないが、ディヒトバイとアカートは寝たことがあるのだ。かなり仲が良くないとできないことである。 「ディヒトは最初よそよそしくて内気だったが、ある日を境に急に元気になった。真面目に勉強して、スポーツでも優秀な成績を修め、学業以外でもボランティア活動に熱心に参加、それでいて浮ついた話もない、αの中でもトップクラスの逸材だった」  あのディヒトバイが学生時代はボランティア活動に熱心だったとは意外だ。てっきりスポーツなどに精を出している、いわゆる体育会系だと思っていた。 「が、一方俺は、ディヒトより年上にも関わらずダメ人間でな。今じゃこんなにヘラヘラしてるが、学生時代は根暗だった。とにかく人と喋るのが苦手だったんだ。成績は申し分ねえが、教師ともクラスメイトともろくに話せないってんでいじめを受けてた。まあ、そんな大したもんじゃねえ。無視されるとか、わざとぶつかられるとか、配布物が回ってこないとかそんなんだ。かわいいもんさ」  一度喋らせたら止まらない勢いのアカートが、学生時代は人と話せなかったというのも意外だ。 「でも、いじめはよくないですよ」  自分が言える立場ではないが。俺だっていじめみたいなものを受けていたが、それはきっと耐えるものではなく、誰かに訴えるものだったと思うから。 「ああ。ある日、俺は嫌になって学校サボってな。家に帰ったときにディヒトに聞かれたんだよ、用事があってお前のクラスに行ったら休みって言われたけど何かあったのかって。……それで俺は今悩んでるって話したんだ。そしたらディヒトの奴、次の日すぐに学長に相談して、クラスメイトの聞き取りがあった。ま、そこから何やかやあっていじめはなくなったわけだ」 「ディヒトさんが助けてくれたんですか」 「そういうことになるな。でもよ、多分ディヒトの中の俺ってのは、そのときのイメージのまま、守るべき弱い存在なんだ。だから本心から頼れないんだと思う。……俺はディヒトに、なんでボランティア活動なんてするんだって聞いたことがあるんだ。俺はボランティアなんて憐みでやるもんだと思ってたからよ。そうしたら、人を助けるのが俺の役割だからって、それだけ。俺をいじめから助けたときも、なんでやったんだって聞いたら、同じ。人を助けるのが俺の役割だからって」 「…………」  アカートの話には、今のディヒトバイの姿が見え隠れしている。  ――それが俺の、英雄のやるべきことだからだ。  ――悪魔を倒す、それが俺がやるべきことだからだ。  いつだかディヒトバイはそう言っていた。 「ディヒトさん、言ってました。なんで悪魔と戦うのかって聞いたら、それが俺の、英雄のやるべきことだからだって。でも、それって多分本心じゃないと思います。本当に思っていたら、もっと楽しそうに、誇らしく言うはずです。でもディヒトさんは、ただ義務感みたいに、聞かれたから答えただけって感じで……」 「誰だって人助けをしたいと思う心はあるだろうよ。でも、ディヒトのそれは違うみてえなんだよな。何があったのか知らねえが、あいつは人を助けることに異常な執着がある。……それがどうしてかわかれば、メンタルのケアができると思うんだがな」  人を助けることに異常な執着がある。言われて、自分が思っていたことがちゃんとした言葉になったと思った。 「……ディヒトさん、子供の頃から英雄になるのが夢だったって言ってました」 「なんだそりゃ。俺でも初耳だぞ」  アカートは深刻そうに言った。  確かに、幼少期から同じ家で暮らしているアカートに言っていないのは不自然かもしれない。ディヒトバイはアカートを嫌っているわけではないのだから。 「……子供時代に何かあったのか? いや、当時の俺もガキだったからな。気付かない何かがあったのかもしれねえ。なんでそんな大事なことに気付いてねえんだ、俺ってやつは」  アカートは焦るように頭を掻いた。 「しかし、だ。ディヒトが俺じゃなくお前にそれを言った、というのがまた謎なんだよな。付き合いが長いってなら俺より付き合いの長いやつはいねえよ。それがぽっと出てきたお前に言う。しかも、何の素性もわからねえままパートナーに選ぶ。本当にお前とディヒトは何の接点もねえのか?」  そう言われると不思議なのだが、自分でもわからない。 「だって、今まで住んでる世界が違ったんですよ。俺がこっちに来て初めて会ったんです。その、最初は俺がディヒトさんのフェロモンにあてられちゃったけど……」 「……もしかしたら、運命の番ってのが感覚的にわかるのかもな」 「運命の番? 俺とディヒトさんが?」 「一目惚れした相手と運命の番になる、というケースは多い。それに、体の相性も良かったのかもな。……そんなにお前のちんこがよかったのか? まあ、お前のちんこもデカそうだしなぁ」 「失礼ですよ、色々と!」 「おお、すまんすまん。だが、どうしてディヒトがお前に好印象を抱いているのか、というのが気になってな。お前は俺より信頼されてるみてえだし、色々気を使ってやってくれ。それで、何か気付いたらどんなことでもいいから教えてくれ。今のディヒトには少しでも多くの支えが必要なんだ」 「……はい、俺に任せてください」  アカートはアカートなりにディヒトバイのことを心配している。  しかし、それでも誰にも打ち明けられない何かとは何なのだろうか。  その中で俺にできることがあったら何でもしてやりたかった。 「さて、俺の悩みはチカシに託した。長話もしたし、そろそろ戻るか」 「そうですね」 「と、その前に」  アカートは部屋のさらに奥に進んでいく。その向こうには両開きの扉があった。 「ここまで来たんだ、お前も顔見ていけよ」  アカートは扉を開け、こちらに振り返って言った。  顔を見ていくとは、誰かがそこにいるのだろうか。  アカートはすたすたと部屋の奥に進んでいく。俺もその後に着いていった。 「これ、は……」  部屋の中心にあったのは、人の背ほどもある円柱の水槽。それはそうだ、中に人が入っているのだから。  立った姿で紫を帯びた水の中に人が入れられている。  ボディスーツ越しにわかる引き締まった体に、腰ほどまでの長い黒髪がゆらゆらと揺れている。 「この前話したろ、こいつがグロザー・ヴォローニンだ」 「この人がそうなんですか」  グロザー・ヴォローニン。その名前には聞き覚えがある。  フォカロルを単身で瀕死に追い詰め、昏睡状態になっていると聞いた。 「ディヒトに魔力の点滴したり、俺が魔力を帯びた水の中で寝てるように、こいつも高濃度の魔力の中で寝てるのさ。なるべく早く、いい状態で目が覚めるようにってな。怪我は治った、内臓も脳も異常はない。だが、半年も目が覚めないんじゃな……」 「そんな……」  アカートがそう言うからには、覚醒は絶望的なのだろう。 「ま、悪魔を倒すまでは諦めねえよ。こいつも切り札の一つだ。あと一機ってところまで来たんだ、もう一踏ん張りさ」  そう言われると疑問に思うことがある。 「フォカロルさんも悪魔なんですよね? フォカロルさんは数に数えないんですか?」 「それは本人を交えて話したほうがいいな」  アカートは言う。 「じゃあな、グロザー。早く起きろよ。お前が起きるのをみんな待ってる」  そう言ってアカートは部屋を出ていった。 「グロザーさん、目が覚めるといいですね」  自分もそう言って頭を下げて部屋から出た。  エレベーターに乗って特研に戻ると、ガラスの奥のフォカロルがいる大部屋に向かった。 「俺の留守中、変わりなかったか」  アカートはフォカロルに話しかける。 『ん~、無事ですぅ……』  フォカロルはどこかくたびれたように話した。  自分の入れられている球の壁にもたれかかっている。 『もう無理~、無理無理~! みーんな僕に頼りすぎぃ!』  突然フォカロルが駄々をこねる子供のように叫んだ。 「フォカロルさん、どうかしたんですか?」 『心配してくれるんですかチカシ君! 優しい! 僕をこき使うだけのこの契約者に見習ってほしい!』  フォカロルは言いながらアカートを指差す。 「契約者って? アカートさんが?」 「そうだ。悪魔というのは自然には発生しない。誰かが召喚し、契約して力を行使する存在だ。で、この世界に攻めてきた魔王は悪魔を召喚し、人間を滅ぼすように命令して、どういうわけかこの世界から去っていった。つまり、今存在している悪魔は誰とも契約していないフリーなわけなんだ」 「そこをアカートさんが契約したんですか?」 『そうです。ちょっと前のアカートは下っ端だったんで、前線の野戦病院で死にそうになりながら働いてたんですよ~。今は特務医官殿ってちやほやされて、調子に乗っちゃって! お母さんはそんな子に育てた覚えはありませんよ!』  フォカロルはぷんすか怒りながらアカートに言う。 「あのな、下っ端っつっても俺はその時中佐だったぜ。悪魔侵攻で軍人は医官含めて死にまくったからな。椅子が空いてるわけだ」  アカートはそこで言葉を区切った。 「話を戻そう。グロザーがこいつを瀕死に追いやったとき、俺は前線にいた。フォカロルのおかげでその場にいたほとんどの人間が死に、俺は数少ない生き残りだった。そして、こいつは一緒に現れた悪魔を殺して俺を契約者に選んだんだ。人間の味方をするから契約してくれって」 『そう。アカートしか契約できそうな人間がいなかったんで、仕方なく、です。アカートが好きだからとか、全然そんなんじゃありませんから。僕が好きなものはもっと別にありまーす』  もっと別のものというのが気になったが、今は話を聞くことにしよう。 「で、俺はフォカロルの契約者だからフォカロルに命令してその力を行使することができる。そして、それを買われて俺は特研の室長、特務医官になった」 『このチタニアの発電、食糧や資材の生産、ドーム外壁の補強、対魔族用結界の展開、通信網の傍受、その他応用する魔力の生成、アカートは僕をこき使いまくってるんです! まるで奴隷みたいに!』 「そりゃ使えるもんは使うだろ」 『ひっどーい! 僕のリソースだって無限じゃないんですよ⁉ このままだと一年も持ちませーん!』  少なくとも半年以上は持つのか。意外と持つと思った。 「ディヒトが本来の力を取り戻し、チカシによるブーストまで手に入れた。これで残るアスモダイ討伐は手に届く領域になった。お前が力尽きる前になんとしてもアスモダイを倒す」 「じゃあ、フォカロルさんを使い捨てるってことですか? だからフォカロルさんが残ってても問題ないと?」 『言い方! ま、命を持たない僕たち悪魔はそういうモノなんですけど。用事が終わったらさようなら。僕はなんて悲しい存在なんでしょう、うぅ……』  フォカロルは大袈裟に泣くふりをしている。 「……今まで協力してくれたのに悪いが、フォカロルの力全てを使ってアスモダイを倒し、この世界を取り戻す。これが今できる限り最上のプランだ」  アカートはそう言い切った。 「それで五分……って言ってましたよね」 「ああ。なんたって相手は王クラスだからな。フォカロルより上だし、ディヒトも王クラスには勝ったことがない。まさに未知の相手だ」 「勝てるんですかね……」 「勝つしかないんだよ。勝てなきゃこの世の終わりだ」 『そうですよ。僕も一応は人間サイドにいるんですから、人間が勝つよう最大限の努力をします』 フォカロルの言葉に、アカートはため息をついた。 「あとはディヒトだな。やる気になってくれるかどうか……。ま、ディヒトだけじゃない。チカシ、お前も休め。いつアスモダイが襲ってくるかもわからねえんだぞ。ディヒトのことも大事だが、お前も重要人物なんだ。お前なしに世界は救えねえよ」 「そ、そんなことは……」  真正面から言われると照れてしまう。大したことはしていないのに。 「……本当は大人しく休んでようかと思ったんですけど、さっきから色んなことが頭の中をぐるぐるしてて。αが優れてるとか、Ωは劣ってるとか、それは本当なんだろうか、とか。英雄はαじゃなきゃいけないのか、英雄の資格って何だろう……って。それで部屋を出たら、アカートさんに会って」  まとまらない考えを静かに零す。 「はーん、お前もなかなかこの世界に毒されてきたな」  言ってアカートは冗談めかしたようににやりと笑った。 「ど、毒されてきたって……」 「αが肉体的、頭脳的に優れているのは本当、それに比べるとΩが劣るのも本当。あるのはただそれだけだ。人間が、社会がその事実を難しくしている。αだって犯罪者はいるし、聖人君子みたいなΩもいる。それを雑にαだから、Ωだからって区切るのがいけねえんだ。大事なのは一人一人に向き合うことだ。英雄も同じだよ」 「英雄も同じって……?」 「なぜ個人を英雄と祀り上げるのか。それは所属する社会の社会的規範から見て正しい行いをした者が英雄と言われるからだ。英雄の資格と言うとまずはこれだろう。だが、それは個人の一側面であって、英雄と呼ばれる全ての人間が正しいわけじゃない。ディヒトバイ・W・ヴァン・デン・ボッシュは確かに悪魔殺しの英雄だが、生まれはαであり、現在はΩであるし、四肢と片目をなくした障害者でもあるし、俺からの上官命令は無視する問題児でもある。人間は切り取り方によって色んな側面を持つというわけだ」 「ディヒトさんが英雄っていうのも、一つの側面に過ぎないってことですか」 「そうだそうだ。英雄の資格だの何だの言う前に、ちゃんとディヒト一人と向き合っているか、それが大事だと俺は思うわけ」  うんうん、とアカートは自分の言葉に頷いている。 『人間ってめんどくさーい。その点、悪魔って階級主義で強さだけが指標だから楽ですよね~』  呑気にフォカロルが言う。  自分は英雄としての側面しかディヒトバイを知らない。逆に、ディヒトバイは俺のどんな側面を見ているのだろう。 「俺、ディヒトさんに会ってきます。ちょっと話したいこともあるし……」 「ああ、じゃあついでにこれを持って行ってくれ」  言ってアカートは壁際の棚から五百ミリペットボトル飲料のようなものを取ってきた。色は紫の透明色である。葡萄ジュースのようだ。 「魔力の精製水だ。あいつはまだ体力を回復しきってないんでな。お前も飲むか?」 「の、飲めるんですか」 「飲めるぞ。点滴できるんだからな。味は砂糖を袋ごとぶち込んだみてえなゲロ甘」 「……もらうだけもらっておきます」  ディヒトバイのと合わせてボトルを二本もらった。 「じゃあ、これで失礼します」  そう言って特研を出る。そのままディヒトバイの部屋に向かった。  ドアの近くにはインターホンらしきボタンがあり、とりあえず押してみる。  しかし、鍵もかかっていないのか近付くだけでドアがスライドして開いた。 「う……」  中は相変わらずの有様だった。  飲料のボトルに脱ぎ散らかした衣類、紙ごみ、何が入っているのかわからない大量の段ボールなどで足の踏み場がない。悪臭がしないだけマシだ。  照明は落とされ、天井の常夜灯だけが灯っている。  同じ間取りなら入ってすぐにリビングがあって、その向こうにベッドがあるはずである。  リビングの奥、ベッドが置かれているスペースまでごみが浸食している。 「ちょっと、明かりつけますね。いいですか?」  しばらく待ったが返事がなかったので明かりをつけて、ベッドまで進む道を探す。しかし、安全なルートはなさそうだ。  土足のままごみを踏んで部屋に入る。  衣類を踏んでいるのか、柔らかい感触がするのが嫌な気分にさせる。  早く通り過ぎたかったが、足元に何が転がっているのかわからないので歩幅を小さくしないといけないのも嫌だった。  なんとかしてベッドに辿り着くと、毛布がこんもりと盛り上がっている。その端から足がはみ出ていた。  思っているより調子が悪いらしい。 「ディヒトさん? 体調悪いんですか? アカートさん呼んできましょうか?」 「……いい。何ともねえ」 「これで何ともないわけないでしょう。顔見せてくださいよ」  毛布を剥ごうとしたが、ディヒトバイは毛布を掴んで抵抗する。 「どうしたんですか」  どうにも様子がおかしい。黙ってディヒトバイの様子を窺う。 「……俺はΩだ。英雄じゃない。Ωは英雄になれない」  長い沈黙の末に、それだけ返ってきた。自分だけに聞こえればいいというような、小さい声。  答えを聞いて俺の中に怒りが湧いた。 「ディヒトさん!」  怒りに任せてディヒトバイがくるまっていた毛布を力任せに剥ぎ取る。  髪はぼさぼさで髭も整っておらず、何より目に光のないディヒトバイがそこにはいた。  黒の上下の寝間着姿で、左目だけがこちらを意識して見ている。 「……俺は、英雄になれない」  いつになく覇気のない声。  ディヒトバイは視線を逸らして頭を抱えた。 「俺は……、いつまで戦えばいい。いつまで……。もう、疲れた」  そうディヒトバイは言う。  俺は怒っていた。  何に。  ディヒトバイをここまで追い詰めた全てにだ。  なぜ皆の英雄がこんなに追い詰められなければいけない。 「ディヒトさん! ディヒトさんは何も悪いことなんてしてないですよ! 悪魔から街を守ったんです! すごいことじゃないですか!」 「……俺がやらなくたって、他の誰かがやっただろ」 「ディヒトさんにしか悪魔は倒せませんよ! ディヒトさんは立派な英雄です! 胸を張っていいんですよ! Ωだから英雄になれないなんて、そんなの間違ってる!」 「もういい、構うな。お前だって俺のことを憐れんでんだろ。可哀想でみじめだってな」 「そんなことない! 俺はディヒトさんの力になりたいんです!」 「口だけなら何とでも言えるだろ」 「本当です! ディヒトさんは手足も、声もなくして、体も作り変えられて……、ディヒトさんはもうボロボロなのに、どうしてディヒトさんばっかり辛い目に遭うんですか……! こんな世界、間違ってる……! 俺がディヒトさんを守ります!」  言いながら、何故だか声が震えて涙が出てくる。  悲しくて、無力な自分が悔しくて、ディヒトバイを蔑む奴らに怒りが湧いて。そんな感情がごちゃごちゃになって目から溢れてくる。  力の限りディヒトバイを抱きしめた。 「……なんでお前が泣いてんだ」 「わかりませんよ! ディヒトさんが報われないのが、悔しくて……。なんで俺は、何もできないんだろうって……」  男なのに情けなく嗚咽を漏らす。  でも、自分は一人では何もできない、ただの十九歳の若造なのだ。  しばらくして背中に柔らかくて温かいものが触れる。ディヒトバイの手だ。ディヒトバイが優しく抱き返してくれている。 「……千樫。お前は十分すぎるほどに俺の力になってくれてる。だから、泣くな」 「す、すみません、気を使わせて……」 「嘘じゃない、本心だ。お前がいなかったら、俺は今頃どうなってたかわからねえ」 「本当に?」  ディヒトバイの優しい言葉に思わず問い返す。 「ああ。本当だ」  その答えによかったと頷く。 「は、お前は俺を元気付けに来たんだろう。お前が泣いて、俺が慰めて、逆じゃねえか」  ディヒトバイの声には張りが戻り、この状況がおかしいと笑っていた。  その様子に安心してディヒトバイの体から離れる。 「……お、思ってたのとは違うんですけど、ディヒトさんが元気になったみたいで、よかったです」  大の男が泣いてしまうなんて、みっともないところを見せてしまった。 「あぁ、お前が来てくれてよかった」  そして、微かにディヒトバイは笑みを見せた。  ほんの一瞬、ほんの少しだけ口の端を釣り上げただけの、不器用な笑顔。  でも、その一瞬の笑顔をきちんと目に焼き付けた。 「そうだ、これをアカートさんから預かって……」  言って、ベッドに放り投げたボトルを手に取る。 「……これかよ。点滴のほうがマシだ」  苦い薬を飲むように言われた子供みたいにディヒトバイは拗ねている。 「でも、ちゃんと飲まないと。まだ本調子じゃないんでしょう?」 「ちょっとだるいだけだ。飲まなくてもいいだろ」 「駄目ですよ、飲んで元気になってください。飲むまでずっとここにいますよ」  言ってベッドに座り込み、梃子でも動かないという姿勢を示す。  ディヒトバイは渋々といった様子でボトルに手を伸ばし、キャップを開けて口をつける。  液体を飲み込むたびに喉が動いて、それだけのなんてことない、誰だって行う仕草だというのにひどく色気を感じる。  自分は今まで女の人が好きだと思ってきたし、男相手に性欲を感じたのはディヒトバイが初めてだ。それだって、ディヒトバイから放たれるフェロモンによってである。  ディヒトバイにしても一言で言ってしまえばおじさんだ。決して女と見紛うほどの美貌を持つとかではない。  だというのに、なぜかどきりとしてしまう。  たった二回体を重ねただけで、脳は何かと錯覚するのか。  違う。ディヒトバイが世界を救うために俺を必要としているだけであって、そこに感情はない。  何だかわからない感情がこの胸に渦巻いている。  恋愛でもない、友情でもない、憐みでもない。  一番近いのは、多分憧れ。  この世界で最も強いとされるこの男が褒められると、まるで自分のことのように嬉しいし、踏みにじられれば憤るし、悩んでいるなら力になりたいと思う。  子供が漫画の英雄に憧れるように、自分もまたディヒトバイに憧れている。  憧れだというのに、心のどこかで憧れではないと否定する自分もいる。  では、この感情は何だ。 「何をじっと見てんだよ。やりにくいだろうが」 「えっ、あ、何でもないです!」  ディヒトバイに言われて慌てて視線を逸らす。散らかった部屋が目に入る。 「ほら、飲んだぞ」  少しの沈黙を置いて、ディヒトバイが言った。  見ると、空のボトルをこちらに見せつけるように上下に振っている。 「よかったです、ちゃんと飲んでくれて。アカートさんだってお医者さんなんですから、言うこと聞かないと駄目ですよ」 「だったら日頃の行いを振り返ることだな。まともな医者は研究費の横領なんてしねえ」  それを言われると何も言えない。 「あれ、ディヒトさんも知ってるんですか、アカートさんの作ってる人工子宮のこと」 「……あいつは変に真面目なところがあるからな。一人で抱えるにはでかすぎる計画なんだろうよ」 「確かに、俺だったら途中で心が折れちゃうと思います。バレないかってびくびくしちゃうし……」 「肝が据わってんだか据わってないんだかわからねえ奴だ。……そんな奴を動かしちまうくらいには、運命の番ってのはでかい存在なんだろうな」 「運命の、番……」  自分には実感がないものだ。  しかし、それ以上に気になることがあった。 「あの、ディヒトさん」 「何だ」 「場所変えませんか? こんなに散らかった部屋だと、なんだか落ち着かなくて……」  どこに視線を向けてもゴミだらけの部屋というのは、思った以上に精神衛生上悪いものだった。 「じゃあ特研にでも行くか?」 「いや、いつもお邪魔するのも悪いですし……」 「だったら、あそこがいいか」 「あそこ、ですか?」  こちらの返答を待つ前にディヒトバイはゴミを踏み分け歩き出し、部屋の入り口近くに置かれた洗濯済みの隊服に着替え始める。  急に服を脱ぎだすので何かと思ってどきどきしてしまった。  人口の皮膚に覆われた腕と足、繋ぎ目の金属。失った四肢とは引き換えに鍛え上げられた胴体。この体でよく戦えるものだ。 「またじろじろ見てんのか。ほら、行くぞ」  そう言ってディヒトバイは部屋から出る。  自分も慌ててディヒトバイの後を追った。

ともだちにシェアしよう!