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第14話

「聞いているのか、アカート特務医官。このフォルダのパスキーは何だ!」  暗く狭い部屋で大柄な軍人が、手錠をかけられ椅子に座っているアカートに尋ねる。 「だから言ったでしょう、夜のオカズですよ。誰かに見られるのも恥ずかしいんで鍵付きにしたんですけど、俺も忘れちゃって開けられないんですよ」  アカートはへらへらとしながら言った。  言えるわけがない。このフォルダにはディヒトバイが精液を摂取しないと生きられなくなったのを示すデータ、悪魔に凌辱されたときの映像が入っている。見せるわけにはいかない。 「管理者権限があれば開けられるだろう!」 「開けられませんよ、見られたら嫌でしょう」 「貴様、自分の立場がわかっているのか! 軍にこれ以上隠し事をするのは背任行為、立派な犯罪だ!」  軍人が怒鳴りつける。それにもアカートは涼しい顔だ。 「誰の差し金ですか、官房長官? 防衛大臣? 誰だっていいや。とにかく俺は何にもしてない。何回言ったらわかりますか?」  軍人はアカートの顔を殴りつけた。アカートは身を守ることもできずに椅子ごと床に倒れこむ。軍人はすかさず腹に蹴りを入れた。 「ぐ、がぁ……っ」 「特研の機密ファイル、その最重要フォルダが何もないわけがないだろう! このフォルダには何が入っている! 少佐に関することでまだ隠していることがあるのだろう! 言うまで貴様はここを出られんぞ!」  ディヒトバイは手錠をかけられて、軍本部の一室に閉じ込められた。  ドアに窓があり、そこには見張りが立っているのが見える。  千樫はどうしているだろうか。同じように拘束されているのだろうか。  いや、他人の心配をしている場合ではない。自分とて危機に陥っている。  軍ではない、国の方針として英雄が要らなくなったのだ。きっと。  俺がαならば何も問題はなかった。しかし、Ωに転化したから。  世界の滅亡とΩが世界を救うことを比べると、Ωが世界を救うほうが嫌なのか。それほどまでに否定されなければいけないのか、Ωという存在は。  今この状態で悪魔が攻めてきたらどうするつもりだ。  まさかプロテウスのように都市ごと爆破するつもりではあるまい。  プロテウスが悪魔と刺し違えられたのは、人口が多く、人を襲っている間悪魔が動かなかったときにありったけの爆弾を打ち込んだからである。  結果、プロテウスは都市、そこに住んでいる人ごと塵と化した。生き残ったのは悪魔を見て早々に都市を離れた人間だけだった。  チタニアが同じ轍を踏むとは思えない。  しかし、自分という存在なしにどうやって悪魔と戦い、倒すのか。  俺は英雄になる。世界を救う。そこに王手がかかっているのだ。  だからこそ、こんなところに閉じ込められているわけにはいかない。  手錠を見る。千樫のブーストがあればこんな細い鎖くらい軽く千切れたものを。今の自分は一般的なβ程度の力しかない。  それに手錠が外れたからといって解決ではない。外には銃を持った見張りがいる。 「は、ぁ……っ、あ……」  呼吸が荒くなる。思考がほどけていく。  フェロモンが溢れるのを止められない。体の奥が熱く、ただ快楽を求めるようになる。  ここに閉じ込められて数時間。精液カプセルの効果が切れてきたのだ。カプセルの効果は約八時間。  千樫といたのは十四時半頃、昼に飲んだカプセルの効果が切れてきたということは午後八時頃と予測できる。  その証拠に先程夕食であろう食事も出された。  トレーに乗ったパン。しかし、それらを食べることはできない。今の自分の食事とは誰かの精液を摂取することだ。 「…………」  今どうするのが最適か。ぼうっとした頭で考える。  そして、目の前のパンに手を付けた。久しぶりに食べるパンは粘土のようで気持ちが悪かった。  何度も噛み、口の中でぐちゃぐちゃにしてから飲み下す。  吐き気がするのをこらえながらパンを食べきった。 「う……っ」  パン一個がこの体の中にある。しかしこの体は固形物の消化はできない。すぐに吐き出される。  わざと物音を立てるように床に倒れこみ、喉元まで迫っているパンを吐き出した。 「げ、ぇ……っ、う……」 『どうした?』  室内の異変に気付いた歩哨がドアの窓から中を窺っている。そして、尋常ではない様子と見て中に入ってきた。こうなれば勝ちだ。 「おい、どうし……、う、ぅ……っ」  見張りは銃を玩具のように床に投げ捨てた。   そして狂ったように俺に手を伸ばす。  そうだ、こいつらはαだ。αがΩのフェロモンに理性で耐えられるわけがない。 「は、早くやらせろ……っ!」  見張りはもどかしいように俺の服を脱がし、何の躊躇いもなしに急所を曝け出して、その性器を俺の尻穴にぶち込んだ。 「ぐっ、う……っ、は、ぁ……っ!」  気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。  だから千樫がよかったのだ。千樫になら体を許せる。 「ど、した、早く、終わらせ、ろ……っ!」  情けなくへこへこと腰を動かしている見張りのアホ面を見ながら、そのときを待ち構えた。  やがて、熱いものが中に吐き出されるのを感じる。  これだ。これを待っていた。  俺は全力で手錠を引きちぎる。  そうだ、精液によるブーストは身体能力を六倍に跳ね上げる。  βの平均的なベンチプレスの記録は約五十キログラム。その六倍ともなれば瞬間的には三百キログラムの負荷を作り出せる計算だ。  そして手錠は警察庁の認可により二百五十キロの負荷に耐えることとある。  つまり、精液ブーストさえ得てしまえばこんな手錠など障害ではない。  俺は見張りの背後に回り頸動脈を締めて昏倒させると、手早く着衣を整えて銃を手に取った。  そして部屋の外に出る。  ここは軍本部の営倉、いわゆる懲罰房で脱出防止のために地上十階の高所に置かれている。 「少佐、戻って下さい!」  異変を察知して飛んできた見張りが、銃を構えながらこちらに叫ぶ。 「それはできねえ相談だ!」  俺は威嚇射撃をしながら見張りの走ってきた入り口方向に向かう。  あの様子ではたとえ脱走者だろうと俺を撃てまい。  すぐに営倉区画の入り口に着く。  そこには何人もの兵が銃を手に立っていた。  だが全員が迷っている。ここで人類最強の男を撃っていいものかと。 「邪魔だ! どけ!」  言葉で引くほど腰抜けではない。銃から警棒に持ち替えて制止しようとする男もいた。  俺は抵抗できない兵たちに全力でタックルをして人垣を抜けた。  そしてその奥が本命だ。  廊下を駆け抜け、階段に辿り着く。そこには床から天井までの窓ガラスがあった。  背後から俺を呼び止める声が聞こえる。だが、まだ追いつかれていない。  俺は窓に体当たりをして宙に飛び出す。  地上十階。普通ならば耐えられない高所からの飛び降りでさえ、今の体は難なく成功させた。  あとはどこに行くかだ。千樫を助けるか。だがどこにいるかがわからない。  その時だった。  軍本部全棟の照明が一斉に消えた。 『もしもしディヒト? 聞こえてる?』  突然フォカロルの声が頭に響く。 「なんだ、フォカロルか? どうやって通信してる?」  周囲を見回してもフォカロルの姿はない。それに、フォカロルは地下研究室からは動けないはずである。 『この通信は僕からの一方通行でーす。こんなこともあろうかと、アカートは義肢に通信機能をつけておいたんで~す。あ・く・しゅ・み』  確かに悪趣味だ。しかし、悪趣味に助けられている。 『今は僕が停電、通信妨害を起こしてます。各棟の非常用シャッターを閉鎖、エレベータも強制停止。研究棟、地下の実験場まで来てくださ~い。一番近いエレベータを動くようにしますので。アカートも千樫くんも待ってま~す。でわでわ』  フォカロルはそれきり黙ってしまった。  とりあえず地下の実験場まで行くしかない。  突然の停電に惑う人々の中、俺は研究棟に向かった。  突然銃を向けられて、俺は研究棟の狭い部屋に閉じ込められた。 「あの、何なんですか、これ……。ここから出してください」  部屋の中にいる銃を持った軍人に話しかける。無駄だろうけど。 「うるさい、喋るな」 「せめて、何でこんなことになってるのかくらい説明してくれませんか」 「お前に話すことはない」  男はぶっきらぼうにそう言うだけだった。  しかし、突然何が起こったんだ。ディヒトバイも同じくこんな状況に陥っているのか。  その時だった。  ふっと室内の照明が消える。  真っ暗になった部屋の中で男が叫ぶ。どこかに連絡を取ろうとしているのだろう。 「どうした、照明が落ちたぞ!」  返答はないようだ。  これはまたとない好機だ。だが相手は銃を持っている。下手に刺激をしたら撃たれる可能性がある。  どうしようかと思案していると、がちゃりと部屋のドアが開き、ライトを持った男が入ってきた。眩しくて詳しい様子がわからない。 「全棟停電、非常用電源も入りません! 通信も妨害されています!」  その声には聞き覚えがあった。 「何だと⁉ がっ……!」  その男は銃も恐れず軍人に近付くとスタンガンで気絶させた。 「大丈夫かよ、千樫」  ようやく目が慣れてきて、その人物が兼景だとわかる。悪戯っぽく兼景は笑った。 「か、兼景さん……?」 「バレるとまずい。早く移動するぞ」  わかったと頷くと兼景は部屋を出て駆け出した。その後を追う。  突然の停電に戸惑う人々が廊下に出てきている。 「エレベーターで実験場に行く」  兼景はそう言い、すぐにエレベーターホールに着く。しかしそこにも人が集まっている。 「これじゃエレベーターは乗れないんじゃないですか?」  兼景の背にそう尋ねる。  兼景は俺の問いに答える代わりに、ペンライトの明かりを消してこう叫んだ。 「火事だ! 西の実験室から火が出た! 東の非常階段を使って逃げろ!」  兼景の声に周囲がざわついた。  停電したらエレベーターは使えない。階段を使って逃げるしかない。  人々が暗闇の中で壁伝いに移動する気配がする。  俺と兼景は人の気配がなくなるまで息を潜めて待っていた。  静かになり、人の声が聞こえなくなるとペンライトを再び点ける。  辺りを照らして人がいないか確認すると、エレベーターの呼び出しボタンを押した。この階に停止していたようですぐにドアが開く。  兼景はカードキーをパネルに翳すと、ドアが閉じて箱が下に移動する。 「ありがとうございます、兼景さん。でも、いいんですか。命令違反とかにならないんですか?」 「構わねえよ。俺は教官に着いていくって決めたからな。ところで実験場ってどんなとこなんだ? 俺は初めて行くんだが」 「え、あぁ……、実験、してるところです」  まさか人体実験をしているとは言えず、言葉を濁す。 「そりゃそうだろ、実験場なんだから」  兼景が呆れたように言うと、エレベーターは無事実験場のフロアに着いた。  アカートが言っていた通り、ここは地図の上では資材置き場というから手が回っていないのだろう。  ドアが開いてエレベーターから出ると、そこには意外な人物が立っていた。 「やあ、待っていたよ。チカシ君」  こんな状況でも穏やかそうにイングヴァルが言った。腰には刀を差している。 「兼景君もありがとう。さすがに僕が直々に出ると怪しまれるからね。さあ、奥に行こう」  言ってイングヴァルはシャッターに向かう。 「うわ、なんだ、こりゃ……」  シャッターが開き、人工子宮に出迎えられた兼景は気味が悪そうな声を漏らした。 「後で説明するよ。まずは現状の確認だ。みんな揃っている。ほら」  イングヴァルが部屋の奥を示したのでそちらのほうを見ると、アカートとディヒトバイが床に座り込んでいた。 「ディヒトさん、アカートさん……! 大丈夫でしたか!」  慌てて駆け寄る。  ディヒトバイの顔色が悪いように思う。アカートの顔には痣ができていた。誰かに殴られでもしたのだろうか。 「……無事だ、何とかな」 「俺はもう無理。無理だ。あんなに殴るこたねえだろ……」  そう言ってアカートは力尽きたように後ろに倒れこむ。 「ほら、そう言わないでくれ。現状を一番把握しているのは君なんだから」 「しょうがねえな……」  床に寝そべったアカートは、まるでテレビでも見るかのように肘をついて顔を起こした。 「簡単に言うと、国のお偉方は俺らがまだ隠し事をしてるんじゃねえかと疑って今回みてえな強硬手段を取った」 「隠し事……ってのは?」  兼景が聞く。確かに兼景は蚊帳の外だ。 「俺がΩに作り変えられた挙句、精液を摂取することでしか生きられない体になったってことだ」  ディヒトバイが静かに言う。兼景なら言ってもいいとの判断だろう。 「そりゃまた突然な……。まあ、そんな事情なら言えませんわな。Ωになったどころの話じゃない」  驚きと呆れの混じったような声で兼景は言った。 「で、俺以外のここにいる皆さんは知ってたわけだ」  兼景はディヒトバイ、アカート、イングヴァル、そして俺を順に見る。 「お前のことは信頼してる。だから今言った。信じてくれ」  ディヒトバイが言う。 「別にいいですよ。秘密を知ってる人間は少ないほうがいいし、俺が知らなくても何の問題もない。逆に言うと、知った以上俺はとんでもないことに巻き込まれたってわけだ。軍と国に喧嘩売ってるんだからな」 「それについてはすまない。だが、僕が動かせる中で一番信頼できるのが君だった」  イングヴァルが兼景を巻き込んだことを詫びる。 「いいえ、ここにいられるのが何よりの光栄ですよ。教官、大隊長に信頼されてるってことですからね。一朝一夕で得られるもんじゃない」  兼景は口の端を釣り上げて笑った。 「話を戻すぞ。軍と国の上層部は俺らを拘束して、ディヒトの秘密を暴こうとした。だが、俺の健気な抵抗により失敗に終わった。俺はフォカロルの契約者。そしてフォカロルはこの都市、軍本部の基幹システムになっているからな。現在、停電、通信妨害によって奴らは俺らを見失っている。まったく、ハニートラップなら歓迎だったんだが」  歓迎とはどういうことだ。 「フォカロルさんは平気なんですか?」 「フォカロルは特研から動けない。だが、話を聞く限りは軍は説得による契約破棄を試みているようだ。まともに聞いちゃいねえようだが。そこで、面白い状況になった」  アカートはにやりと笑う。 「面白い状況?」 「上層部はディヒトがΩなのを、Ωの英雄を認めたくない意向だ。しかし、ここで悪魔が攻めてきたらどうする? ディヒト抜きで王ランクの悪魔アスモダイを倒すのはまず不可能と言っていい。そして、まだ疑惑止まりの民衆はディヒトの登場を望むだろうな。上層部がディヒトを認めなかったとしても、ディヒトが残る悪魔一機を倒して世界を救っちまえば誰も文句は言えないってこった」 「お、俺たちだけで悪魔と戦うんですか?」 「戦力的には足りていると言っていいだろう。悪魔殺しのディヒトに、そのパートナーのチカシ、A級魔族の相手ができるイングヴァル大佐に兼景。それにフォカロル。全員が全力を以て事に当たればできると俺は思う。いや、そうでなくちゃならん。残る一機、アスモダイを倒せなきゃこの世界はお終いだからな」  アカートは頷いた。 「やるしかないってことですか」  兼景が落ち着いた様子で言う。 「そうだ。やるしかないんだ。そのためには一つ策を講じなきゃならん」 「策?」 「俺たち人間はいつも悪魔に対して後手だった。予想の外から襲われて総崩れになる。だから俺たちは先手を取る」 「先手を取るって……、そんなことできるんですか?」 「フォカロルの言うことにゃ、悪魔は獣型、人型に加えて力を温存しておく休眠形態があるらしい。小さな卵のような形を取る。この形態は覚醒するまで全力を出せない。だが、自然と溶け込んでいるため探知が難しいとのことだ」 「どれにしても厄介だな、悪魔というのは」  イングヴァルが苦々しげに言う。 「だが、フォカロルに全力を出してもらえば探知は不可能ではないということだ。停電でフォカロルのリソースが空いたんで探知してもらった。そしたらここチタニアから五百キロ地点でアスモダイの反応が消えたという。この世界に召喚された悪魔は不完全な召喚だったために、人を襲うとき以外は休眠している。つまり、そこを襲えば先手が取れるというわけだ」 「まあまあ現実的な話になってきましたね。で、そこまでの移動手段は?」  兼景が問う。 「軍の装甲車を奪う。フォカロルに任せればそれくらい簡単だ」 「……車かぁ。あれ苦手なんだよな、すぐ酔っちまう」  不満げに兼景が言った。今までの様子を見るに、不満なのは移動手段だけらしい。腹が据わっている。 「出立は二日後。一日の準備期間と一日の休息だ。俺たちは堂々と人前に出られないんでな、準備もこそこそせにゃならん。異論のある奴は?」  俺以外、誰も何も言わなかった。  みんな覚悟を決めているのだ。たとえ五人であろうとやり遂げると。  そして、この五人で無理なら世界も終わりだろうと思っている。 「わかったら解散。今日は情報収集と明日の準備の算段。入り口の横に仮眠室があるからそこで寝泊まりする」  アカートはそこまで言って腕時計を見た。 「今は十九時半だな。じゃあ二十一時には消灯だ。夜更かしはよくねえ。俺はここで情報収集してるんで、何かあったら声をかけてくれ」  アカートはそう言うと近くにあったタブレット端末を操作して、展開されたホログラフとにらめっこを始めた。 「わ、わかりました」  流れに飲まれて口を出せなかったが、こうなったら行くところまで行くしかない。  たとえ死んだとしても、一回死んだこの身だ。何かの役に立てるなら上等だろうし、悪魔に襲われて死ぬのはここに留まっていても変わらない。  だったら自分の足で道を歩きたい。今はそう思う。 「……千樫、話がある。こっちだ」  ディヒトバイはそう言って実験室の奥に行く。  そうだ、ディヒトバイに話があるのはこちらも同じだ。  ポケットに入れたお守りに手をやる。  なぜあのとき少年に渡したお守りをディヒトバイが持っているのか。  それを聞かないといけない。

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