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第16話

 レオニードは眼前に広がる光景を見て舌打ちをした。  見るも無惨に崩れ落ちたB棟の外壁。  それを軍本部の外側から見つめていた。  自分にもっと力があったならこんなことにはならなかったのに、と憤りがこみあげてくる。  思念の力。それは十分なほどに自分を強化している。しかし、まだ悪魔には届かない。  この世の誰より悪魔を憎んでいる自信がある。強くなりたいと望んでいる。  なのに、悪魔どころかA級魔族すら一人で殺せない。 「何でだよ……」  何が足りない。  そう思った瞬間、ふっと軍本部の電灯が一斉に消えた。少し待ってみても現状を伝える放送すらない。 「どうしたってんだ……?」  レオニードが怪訝に思っていると、ノイズのような音が聞こえた。  ――来い。  ノイズはやがて声の形をとってそう言った。 「何だ、こりゃ……」  ――強さを求めるなら、俺のところに来い。願いに見合う強さを与えてやる。  戸惑うレオニードに声は囁きかける。  何だろう。声を聞いていると頭がぼうっとする。 「そう、だよな、シュラミット」  見えるはずのない幻を見る。もう失ってしまった番。 「そうだ、皆弱いのがいけねえんだ……。だから、俺が強くならねえと……」  体が操られるように、声の導くほうへレオニードは歩を進めた。 「お、来たか。何話してたんだ?」  ディヒトバイと仮眠室に行くと、アカート、イングヴァル、兼景がテーブルに着いて食事をしていた。  三人ともパスタを食べている。 「えっと、色々あって……。何から話せばいいか……」 「まあいい、まずは腹ごしらえだ。冷蔵庫にレトルトがあるからレンジで温めて食え。こっちも話がある」 「……妙に何でも揃ってません? ベッドも人数分ありますし」  奥には二段ベッドが二つと追加の簡易ベッドが置かれている。 「そりゃ、この実験場のことや横領がばれたら仲間を巻き込んでここに立てこもる算段でいたからよ。秘密の地下トンネルで外にも出られるようになってんだぞ。それに俺は八時間はここにいるからな。基本的な生活ができるようになってんのさ」  何から何まで準備がいいというか、往生際が悪いというか。今はそれに助けられているので文句は言わないが。  入り口近くの冷蔵庫を開けると中には様々なレトルト食品が揃っていた。  パスタ、リゾット、カレー。  そうだ、カレーがいい。日本人は落ち込んだことがあったとき、何か気合を入れたいとき、献立が決まらないときにカレーを食べるものなのだ。  米とセットでレンジで温めるだけのカレーを手に取って、冷蔵庫を閉じたところだった。 『緊急緊急! アスモダイの反応を軍本部内に感知! B棟外壁です! 励起してる、なんでー⁉』  フォカロルの焦った声がアカートの端末から漏れる。 「軍本部内だと⁉ どういうことだ、五百キロ先にいるんじゃなかったのかよ⁉」  珍しくアカートが慌てている。 『多分ですけど、軍本部の壁が崩れて結界の守りが薄くなったので、そこから侵入されたかと……!』 「原因はいい、問題はどう対処するかだ」 『映像出します!』  言うとアカートの端末からホログラフが投影される。B棟の壁にアスモダイの紋章が浮かび上がっていた。 『きっと誰かと契約を結んだんです! 契約者の前に悪魔は現れる、それを利用したんです! とりあえず照明を復活、避難の誘導をします!』 「奴が行動を起こす前に倒す」  ディヒトバイが言う。その言葉に全員が頷いた。  言って全員が部屋から出る。  エレベーターに乗り、一階へ。そこからB棟まで駆け抜ける。  その間に耳に無線機を装着し、各々通信できるようにする。  誰もいないB棟一階。そこは紋章の光で照らされている。 『久しぶりだな、人類最強の英雄さんよ』  どこからともなくアスモダイの声が聞こえる。  そして、B棟の崩れた壁の向こうの空にアスモダイの紋章が浮かび上がった。  その紋章から紫色の霧が溢れ出てくる。そして、その中に巨大な影が浮かび上がる。  霧をかき分けて現れたのは、巨大な蠍の下半身を持った人間だった。  大きな山羊の角に紫色の波打った長髪を持ち、見たものを射殺すような鋭い目つきをしている。  巨大な蠍がやがて地に降り立つ。頭上の紋章からは霧が放たれ続けている。 『その霧は毒です! 今毒消しの魔法をかけたから無効化できますけど、都市の全員には無理ー! なのでそっちに行きます!』  フォカロルの声が聞こえる。その声と同時に自分の体が光の膜で覆われるのを感じた。  そして、目の前にフォカロルの紋章が浮かび上がる。その中から鷲の翼を持った人間の姿をとったフォカロルが現れた。 「フォカロル! 大丈夫そうか?」  アカートがフォカロルに問う。 「へっへーん! 僕にだって奥の手があるんですから!」  そう言ってフォカロルは翼で羽ばたいてアスモデウスの前まで飛んでいった。 『フォカロルの雑魚じゃねえか。仲間殺しの上に人間に付くたぁどういうことだ』  アスモダイが苛立ちながらフォカロルに尋ねる。 「僕は愛に目覚めたんです! 殺すのなんて飽きちゃいました! これからは守りの時代です!」 『愛なんぞ下らねえ! そんなもんは犬にでも食わせとけ!』  そう言ってフォカロルは手を高く掲げる。その手を中心に風が呼び起こされ、やがては暴風を伴う嵐となる。  その嵐は都市を覆って毒霧から守る盾となった。 「この嵐で毒霧くらいはどうにかなります!」 『これがてめえの全力か? いつまでも保てるわけじゃあるまい』 「それはどうですかね」  フォカロルの言葉にアスモダイは片眉を上げた。 「奥の手発動! 偽名展開! 我は光より奔逸せし者、ルキフゲ・ロフォカレ!」  フォカロルはそう高らかに宣言する。  するとフォカロルの姿が光に包まれる。その光は形を変え、フォカロルの姿を変容させた。  三つ又の帽子を被り、財宝の入った袋と黄金の輪を手に持ち、下半身は山羊の姿になった。 「偉大なる皇帝ルシファーの臣下、大奥義書に記されし地獄の宰相なり!」  フォカロルが声高に叫ぶと嵐も威力を増して毒霧を払った。 「なんだそりゃ、そんな切り札があるなら言えっての!」  アカートがフォカロルに言う。 「敵を騙すにはまず味方からってね! 数分ですけど王と同等の力を得ます! でも数分です! 力を使い切ったら僕は消滅します。だから、霧が晴れてる今がチャンスです!」 「消滅するだと……?」  今までの計画はフォカロルの力ありきだった。それが毒霧を晴らしただけで彼が退場してしまうとは。計算外だ。 『俺と力比べたあいい度胸だ。付き合ってやるよ』  言うとアスモダイも毒霧の嵐を発生させてフォカロルの旋風にぶつける。ぶつかりあった二つの嵐は勢いを相殺させた。 「ディヒト、やれそうか?」  俺を含めた全員がディヒトバイを見る。そうだ、悪魔を殺せるのはディヒトバイしかいない。  ディヒトバイはそっと俺の手を握った。その手は震えている。  そうだ、自分を凌辱して辱めた相手に再び挑もうとしているのだ。勝てる保証はない。自分が勝つか否かに世界の命運が懸かっている。  震えるその手を握り返し、自分より一回り小さいその体を抱きしめる。 「大丈夫。俺は何があってもディヒトさんのそばにいます」 「……なら、いい。できる」  ディヒトバイは頷いた。抱きしめた手を解く。 「俺は今度こそあいつを殺す。殺してみせる」  そしてディヒトバイは腰に提げていた刀を抜いた。  それが合図になったように、イングヴァル、兼景も刀を抜く。俺も刀を抜いた。 「行くぞ!」  ディヒトバイが駆け出す。 『おっと、てめえらには似合いの相手がいるぜ』  アスモダイが言う。  すると空にアスモダイの紋章がいくつも浮かび上がる。数十個も現れ、空を紫色の光で埋めつくす勢いだ。眷属を召喚するつもりだろう。  そして、やはり紋章の中から巨大な蠍が現れて地上に降り立った。 「魔族は僕と兼景君が相手をする。アスモダイは君たちに任せた」 「おう、任せな」  言ってイングヴァルと兼景は壁の割れ目から風が渦巻く外へと駆け出して行った。  自分たちもアスモダイと戦わなくては。  そう一歩踏み出した瞬間だった。 『言っただろ、似合いの相手がいるってな』  アスモダイは再度言った。魔族以外のものがいるといった話しぶりだ。その言葉に周囲を警戒する。  すると、瓦礫の影から二つの人影が現れた。その人影は紫色の光に包まれている。 「レオニードさん……! それに……」  レオニードとディヒトバイの父、ウィレムの姿だった。 「親父……、何してんだ、目を覚ませ!」  ディヒトバイがウィレムに叫ぶ。 「何を言う。私は正気だ」  ウィレムが静かに言う。 「悪魔の側に付くのが正気なのかよ!」 「ああ。私はいつでも正気だった。来い、お前の相手は私だ」  そう言ってウィレムは壁の外に飛び去る。 「待て!」  ディヒトバイはウィレムを追いかけていった。  目の前にはレオニードがいる。  ディヒトバイも心配だが、レオニードを放ってもおけない。 「レオニードさん、悪魔に操られているんでしょう! 元に戻って下さい!」 「うるせえ! 俺は操られてなんかねえ! 俺は力を手に入れたんだ!」  レオニードが叫ぶと、その体がぶくぶくと膨れ上がって爆ぜた。  そして、その中から巨大な人面の山羊が現れる。レオニードの顔を仮面のように貼り付けた山羊は、理解不能な不気味さがある。 「食ワセロ。食ワセロ!」  レオニードの姿をした怪物はそう叫んで軍本部の建物に突撃し、堅牢なそれを崩壊させる。  避難していた人々が瓦礫と共に落ちてくる。それをレオニードは首を伸ばし、ぼりぼりと貪った。  人を食っている。生きたまま。 「う、うわああああああああ……!」 「やだ、やめてくれ……!」  俺は生きながらに食べられている男と目が合った。 「助けてくれ! 助け……!」  男はこちらに手を伸ばし、成す術もなく食われた。 「っ……!」  助けられなかった。その後悔に体が冷える。自分の無力感で動けなくなる。 「弱イ奴ガ悪インダ。ダカラ俺ハ弱イ奴カラ殺シテイク。ソウスレバ、強イ奴ダケガ残ル。俺ノ望ンダ世界ニナル! 俺ガ世界ヲ変エタ英雄ニナル!」  人面の山羊は叫ぶ。  そしてまた建物に突進する。建物が崩れて餌が落ち、また生きたまま人を口にした。 「レオニードさん、あなたがしているのは人殺しだ!」  体が震える。こんなものと戦えというのか。道理が通じない。  まったくの知らない人間だったらここまで迷わなかったかもしれない。  しかし、相手はレオニードなのだ。  共に戦い、自分を助けてくれた。  己の無力を嘆き、誰より強く在ろうと精進していた。  その彼を殺さなければ、前に進めないというのか。  人面の山羊はまた蛮行に手を染める。  まるでボタンを押すと餌が出てくる機械で遊んでいるかのように、無邪気に人間を貪っている。  駄目だ。駄目だ。  自分がここで殺さないと、駄目だ。  躊躇いながらも足を踏み出す。ここからは一歩たりとも退かないという決意をもって。  刀を構えて目を閉じる。  大丈夫だ。自分にはディヒトバイとの繫がりがある。それはまるで運命の赤い糸のよう。  体の底から力が溢れてくる。そうだ、これは思念の力。  大切な人を守りたいと願う力。  目を見開き、人面の山羊に向かって飛ぶ。  山羊は足で俺を蹴飛ばそうと構える。その足を一太刀で斬り落とした。足を一本失った山羊は体勢を崩す。  俺は着地して回り込み、山羊の死角に入る。 「レオニードさん! それは間違ってる! そんなこともわからなくなっちゃったんですか!」 「ウルセエ! テメエニ何ガワカル!」  山羊が吼え、目から光を放つ。その光は俺の姿を追い、レーザーのように建物を焼き切った。それを避けながら間合いを取る。 「強い人間だけが生き残る世界なんて、あり得ない! 人間は誰だって弱いところを持っているんだ! だからみんなで生きていくんだ!」  俺には見える。あの背中が。 「お前は見なかったのか! どんなにボロボロになっても悪魔に立ち向かっていくディヒトさんの姿を! どんなに苦しくても英雄であろうとしたあの人の背中を!」 「黙レ! アレハ英雄デハナイ!」 「お前が目指したのは、憧れたのはディヒトさんだったはずだ! ディヒトさんはどんなに辛くても皆を守ろうとした! 今も皆を守るために戦っている! お前はどうなんだ! 俺にはお前が怪物にしか見えない!」  己の心を曝け出す。自分の気持ちを言葉にすればするほど、体に力が溢れてくる。 「何ヲ言ッテイル! 俺ハ何ヨリ強イ! 俺ヨリ強イモノハ存在シネエ!」 「まだ勘違いしてるのか! 強さは過程だ! 何のために強くなるかだ!」  俺は人面の山羊の懐に飛び込み、垂直に飛び上がる。  すぐそこにレオニードの顔があった。  上段に刀を構える。刀が思念の力が青色の輝きを帯びる。  人面の山羊が口を大きく開ける。すると魔力が収束し光球となった。光線を吐く気だ。やらせはしない。 「俺は強くなる! ディヒトさんを守るために!」  俺は全力で刀を振り下ろし、人面の山羊を真っ二つに叩き切った。

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