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 サンタモニカビーチの観覧車は、近くで見てもすぐに存在を忘れる程度の慎ましい遊具だった。  とはいえ、馬鹿にはできない観光スポットだ。  この観覧車には窓がなく、西海岸の素晴らしい景色を思う存分楽しめる。海にせり出した遊園地からの景色は、圧巻の一言に違いない。頂上付近は高さこそ控えめとはいえ、このあたりでは外せない絶景のフォトスポットだった。 「……観覧車っつーから、ミッキーの奴かと思ったのに」  深呼吸を繰り返すぼくの正面にすらりと座った美人、もといアンジュは、地に足がついていないことなんて忘れたような顔でぐるりと視線をめぐらす。 「ミッキー……ああ! カリフォルニア・アドベンチャーの? えーと、ピクサー・パル・ア・ラウンドだっけ、いやいやいやいやあんなの乗ったらほんとうに冗談抜きで死んじゃうよ。なんか上下運動するやつでしょ? 無理。無理だね、うん、絶対に無理だ」 「マジで高いとこ苦手なのかよ。うっそだろ……無人島の崖は登れるのに?」 「仕事だからだよー……だって、登るしかないんだもの。怖いから無理ですって言ったらね、ぼくだけ置いて行かれちゃうんだよ。せっかくの調査なのに! そんなの悲しいからとにかく下を見ないように頑張って登っ――ちょ、だめ、アンジュ、落ちる落ちる……!」 「落ちないっつの」  躊躇なく身を乗り出して下を覗き込むアンジュは、ぼくとは違って高所に対してもとても強気だ。うーんかっこいい……というか彼は、ぼくができることもできないことも、おそらくすまし顔で難なくさらりとこなしてしまうのだろう。  アサガヤ・アンジュは有能だ。  それもそのはずで、彼はちょっとグーグルにお伺いをたてただけでズラッと功績を羅列される程度には有名で、相当優秀な遺伝子工学の研究者だった。ちなみにグーグルが表示してきた彼の写真は、今とは違ってちゃんとアジアアイドルみたいな髪型だったけど。余談だが、ぼくは今の不思議な髪型のほうがアンジュっぽい! という気がして好きだ。  遺伝子工学は分類するならば、えーと、科学かな。ノーベル賞なら『科学賞』になるやつ。ぼくの専攻する鳥類学は生物学だから、分野は相当違うことになる。  ぼくは鳥を観察して生態を調べるけれど、アンジュは生き物の遺伝子を研究していじくりまわして新しい遺伝子を作り出す。たぶん、一般的に研究者と言って想像されるのは、アンジュのようなラボにこもり数学と実験と格闘する人たちの方だろう。  頭が良いのは当たり前だ。彼の学歴は錚々たるもので、逆立ちしたってぼくは適わない。  頭の出来が人生のすべてではないけれど、やっぱり得られるものは多いほうが良い。と、ぼくは考えているのだけれど、当のアンジュは自分の学歴などどうでもいい様子だった。  アサガヤ・アンジュは驕らない。素質と功績を誇示することもなく、いっそ自分自身にほとんど興味ないようにふるまう。実際に彼は自己に対する感情がとても薄い、気がする。  あんなに全身全霊でぼくのことを好きだと訴えるのに、本当にその他のことに関して――自分のことも含め――どうでもいいと思っている様子なのだ。  不思議だ。アンジュはやっぱりかなり変で、とても興味深い。  サンタモニカの街と海をぼんやりと見渡すアンジュを観察しているうちに、比較的速くぐるぐると回転していた観覧車が、徐々にスピードを落としてきた。ここからは写真撮影と絶景を楽しむ優雅で、そしてぼくにとっては恐怖の時間だ。 「……高いところ苦手なのに、なんで鳥の研究者になんかなったんだよ」  息を吸って吐いて心を落ち着かせるぼくの向かいで、足を組んだアンジュは至極まっとうな疑問を口にする。 「なんで……うーん、改まって訊かれると、ええと、なんでかなー……」 「ヤルマリさ、生き物が好きってわけでもないでしょ? 猫とか犬とかむしろ苦手じゃん」 「そうなんだよねぇ。……不思議だったからかなぁ」 「はぁ?」  アンジュは割とストレートに感情を表現する。言いたいことを飲み込んで苦笑いでどうにか流すミキとは完全に別の人種で、日本人にもいろいろなタイプがいるんだなぁということを知った。アメリカ人はみんなピザとコーラとスペアリブが好きなわけじゃないし、イタリア人は全員軟派なわけじゃないし、日本人はお世辞と謙遜ばかりじゃない。そういうことだ。 「うーんと、ほら、ぼくは高い所が苦手でしょう? 勿論これは生まれもった弱点で、子供の頃から当たり前のように地べたが大好きだったんだ。だからよくね、空を見上げては首をひねってた。鳥ってすごいなぁ、落ちないのかなぁ、怖くないのかなぁって」  でもぼくはある日、何かの授業かドキュメンタリーテレビか忘れたけどとにかくその日、人生の根幹にかかわる重大なことを知る。  そう、鳥には感情なんてものはないのだ。  ていうか感情って人間くらいしか明確に持っていない。という事実を知り、本当に世界がぐるりと反転してしまったんじゃないかってくらいの衝撃を受けた。  あの空を自由に飛ぶ鳥は、落ちるかも、とか、高くて怖いな、とか、そんなことは微塵も感じてはいないのだ。 「それを知ったらね、なんだか余計に興味が湧いちゃってね。だって鳥は楽しくて飛んでるわけじゃない。趣味で移動しているわけじゃない。人間は理性で動くけれど、彼らは本能で動くんだ」  鳥の世界には学習する施設も本もない、言葉による教育もない。あるのは親から受け継いだ遺伝子だけだ。  彼らは本能で飛ぶ。そして本能ってやつは、大抵は生き抜き繁殖するために最善を尽くした結果で満ちている。  鳥が飛ぶ理由は、必ずある。そしてオオソリハシシギが十一日かけて一万二千キロの旅をする理由だって、明確に存在するはずなのだ。  ぼくは彼らの本能の由来を知りたい。  だからニュージーランドからアラスカまで鳥を追いかけて生活している――ということを時折止まる不安定な高所でとぎれとぎれに説明したぼくに対し、アンジュは少しだけ眉を落として呆れたような顔をした。 「理由としての矛盾はないけどさ、人としてそれ大丈夫なの? って感じじゃない? やっぱ変だよアンタ」 「え、そう? そうかなぁ。まあ、ぼくがたくさんいたら世界は大変だよねぇと思うけど、でもぼくって結構凡庸じゃない?」 「どこがだよ。ヤルマリがそこら中に溢れてたら困るっつの。第一目のやり場に困る。眼福すぎて目が回る」 「眼福かねぇ……ぼくの見た目がそんなに好きだって言う人、実はあんまり出会ったことなかったんだけど。アンジュもやっぱり変だねぇ。ところでアンジュはなんで遺伝子工学者になったの?」 「――……あー」  おっと。思っていたよりもまずい質問だったかもしれない。  サッと顔面を歪ませたアンジュの様子を見れば、ぼくの言葉は非常に無神経だったとわかる。慌てて質問を撤回しようとしたものの、アンジュは視線を逸らしてから『別に、』と大変興味なさそうに言葉を吐いた。 「きれいな理由も特別な理由もねーよ。勉強が好きだった。唯一まともな趣味が計算だった。そんでおれは、自分の遺伝子から親の遺伝子をきれいさっぱり抜き取りたくて、そんな無茶をどうにか叶えることができたらいいなぁっていうクソみたいな理由で遺伝子工学の科学者を目指した子供だった。そんだけ」 「……ご両親は、今は、えーと」 「死んだよ。どっちも。金を残してくれた事だけは感謝してっけど、おれが研究者になる為に豪快に使い込んだから、親族連中は割といまでもおれを憎んでるだろうよ。まぁでも、今は割合ハッピーだ。好きな研究を好きなだけできる。その上理想の男を好きなだけストーカーできる。最高。マジで死ななくて良かったって毎日過去のおれの選択を褒めたたえてる」 「ええ……その話怖いなぁ、でもキミが今ぼくの前に居てくれる幸福には、ぼくだって感謝したいよ。アンジュはさ、優しいよねぇ。ぼくの我儘に付き合ってくれて、文句も言わずに一緒に観覧車に乗ってくれるんだもの。ところでこの観覧車いつ降ろしてもらえるのかなぁ……アンジュ、隣に来ない?」 「行ってもいいけどキスしたくなる。おれ、アンタの隣でアンタに手とか握られたら秒で発情するけど?」  そのドヤ顔、かわいいのか残念なのか、わからないよ。  普通の密室ならまだしも、サンタモニカピアの観覧車は前途の通り窓がなくて、とても開放的かつ外からも丸見えだ。ゲイだろうがストレートだろうが、真昼間からキスをかますような場所じゃないことは明白だった。それに、一度でも彼とキスをしてしまうとぼくの身体も熱くなってしまう。体の相性が良いことはすでに何度も確認済みだ。  泣く泣く縋りつくことを諦め、ゆっくりと呼吸を繰り返す。  三半規管がおかしくなりそう。足元の血がすっかり引いていて、心肺の機能までおかしくなりそうな錯覚が、ゆるやかにぼくを襲っていた。飛行機に乗ってるみたいな嫌な感じ。ていうかぼくは飛行機も本当はとても苦手だ。  言葉に集中していた方が楽で、何か喋ってほしいと懇願するとなんだかとても嫌そうに遺伝子の配列の話をしてくれた。他に趣味はない、と言った彼の言葉は本当らしく、アンジュは観覧車がぼくたちを解放してくれるまでずっと、美しい塩基配列の話を続けた。  アンジュの声は低くて気持ちいい。彼の言葉の羅列がなければ、ぼくは外が見えないように観覧車の中ほどにしゃがみこんでしまったかもしれない。 「……ちょっとずつ、慣れているような気はするんだけどねぇ……」  恋焦がれた地面にようやく戻ってきたぼくは、ふらふらと心もとない足取りでベンチに陣取り、呆れた様子のアンジュの視線を甘んじて受け止めながら、レモンソーダでからからに乾いた口の中を湿らせた。  人間は慣れる生き物だ。そういう風にできているし、ぼくはそう信じている。  だからぼくだって何度か繰り返していればきっといつか鳥のように空への恐怖心も消えるはず! ……と、希望的観測を掲げてはいるものの、うーん、一向に地面と決別できる気がしない。 「ごめんねぇほんと、ぼくの我儘につき合わせちゃって」 「べつに、どうせ暇だし、おれはアンタに会えるなら観覧車の上でも海の中でもどこでも大歓迎だし」 「熱烈だなぁ……でも、つまらないんじゃない? さっきからちょっと、そのー、眉間にしわがすごいし……アンジュ、遊園地嫌い?」 「遊園地が好きかどうかって言われたらわかんねーよ初めて来たし。でもおれがしかめっ面してんのは弱ってるアンタがセクシーすぎて顔面に力いれてねーとよだれ出そうなだけだよ」 「わぁ」  思ったより数倍残念な理由の渋面だった。わはは。本当にひどくて本当にカワイイ彼のしかめっ面は最高で、ぼくは思わず肩の力を抜いて大いに笑ってしまった。  アンジュはそんなにきれいで格好いいのに、こと恋愛というか、ぼくのことに関してはびっくりするくらいに残念だ!  笑ったことで随分とリラックスできて、全身にようやく生きている感覚が戻ってきた。  うん、やっぱりアンジュに付き合ってもらって正解だった。我儘ついでにたまに高所練習に付き合ってくれるかと首を傾げると、少し目をそらしながら『……ご褒美にキスしてくれんならいくらでもつきあう』なんていうもんだからもーーーー……今すぐキスしたくなってぼくの方が大変だよ。 「アンジュはさー、もー……その、ギャップ? っていうのかなぁ……そんなスラっと格好いい見た目でね、そういうカワイイこと言うんだものー。ぼくが弱ってて本当に良かったよーうっかり抱きしめちゃいそうだった」 「やめろ。こちとらアンタに触られただけで勃ちそうになんだよ」 「言い方~……でも、ふふ、ちょっと嬉しいな。ぼくはね、キミがぼくを求めてくれるの、結構嬉しいんだ」 「……やっぱアンタ変だよ。こんな気持ち悪いおれのこと許しちゃうなんてとんだ変人――…………ん?」  ふ、とアンジュの声が不自然に揺れた。ぐったりと地面を見ていたぼくが異変に気が付き顔を上げると、ベンチに座ったぼくと同じくらいの目線の高さにある、小さな瞳と視線がかち合う。アンジュの足に思いっきり激突したのは、白人の少女だった。  くるくるのブロンドを結い上げた、ジャンパースカートの子供だ。  彼女は一心不乱に世界を見渡していたらしく、前方のアンジュに気が付かずぶつかってしまった様子だった。察するに、前方不注意の要因は、彼女が親を探してきょろきょろと視線をさ迷わせていたせいだろう。うん。 「…………あー……迷子?」  自分の膝のあたりにいる子供を指差し、アンジュは眉を顰める。 「だろうねぇ。一人で遊園地を楽しむ年頃じゃないもの」 「こういうときってどうすんのがベストなの? おれ、アメリカの遊園地における迷子事情ってやつ、さっぱりわっかんねーんだけど、手えひっぱってスタッフ探しに行ったら誘拐と間違われてFBIに囲まれたりしない?」 「あはは、誘拐の管轄は確かにFBIだけど、善意の大人くらいは見分けてくれるよ。それにここはそんなに大きな施設じゃないから、案外だらだらおしゃべりしているうちに慌てた大人の方が見つけてくれるかも」 「近寄るな変態ってなじられたりしない?」 「しないよーたぶん。たぶんね? たぶんだけど」 「ほんとかよ……おれが訴えられたら弁護しろよマジで。あー……Hi, Little friends」  一瞬でしゃがみ込んだアンジュは、今度は自分より背丈が高くなったブロンドガールを見上げて『おれは猫でもウサギでもないけど、キミの名前はアリス? それともドロシー?』といささか洒落の効きすぎた問いかけをしていたのだけれど。  ぼくは彼の言葉とか、少女の反応とか、そんなものはほとんどうすぼんやりとしか記憶に残っていなくて、それはなんでかっていうと、あー……アンジュの浮かべた柔らかい笑顔に、完全に見惚れていたからだった。  嘘でしょ。キミ、そんな風に笑うの?  そういえばぼくは、アンジュの笑顔ってやつを見たことがない。  聞いてない。キミの笑顔がそんなに優しくて、ぐっときて、いますぐキスしたくなるくらいキュートだなんて聞いていない。ずるい。  アンジュの気持ちがわかった。我慢する時は、確かに眉間に力が入るものだ。  幸いなことに自己紹介の途中で、血相変えた女性が喚きながら駆け寄ってきて、ぼくたちは誘拐犯と間違えられることもなく普通に感謝されてこの小さなアクシデントは大事に至らずに解決した。  きっと明日になれば、そんなこともあったよなぁと思い出す程度で、一年後にはうっすらと記憶にも残らないような、そんな些細な出来事だ。  でもぼくは、アンジュの柔らかい笑い方が鮮烈に刺さりすぎて、なんていうかもう息も絶え絶えだった。たぶん、すごく凝視しちゃってたんだと思う。  少女に手を振っていたアンジュがぼくに気が付くと、何? と眉を寄せる。 「いや、あの……キミのね、そのー……笑顔がキュートすぎて……」 「え、おれ笑ってた、か?」 「笑ってたよー。すごくかわいかった。キュート。エクセレント。ほんとうに可愛い。もう一回見たい」 「……嫌だよ……おれ、昔笑った顔が気持ち悪いって言われたのが結構トラウマで――」 「そんなひどいことを言ったのは誰!? すごくかわいいのに!」  思わず立ち上がって手を取って詰め寄ってしまう。ぼくの剣幕に押されたのか、アンジュは目をでっかく開けてから、すごく恥ずかしそうに視線を落として、耳を赤くしてぼそぼそと呟いた。 「………………ありがとう。ちょっと、えーと……嬉しい、です」  うわぁ……かわいい……。  あんまりにもかわいくて変な声が出そうになって飲み込んだら喉が鳴って、ぼくも恥ずかしくなってへなへなと崩れ落ちそうになってしまった。  アンジュはかわいい。それは会った時からずっとそう思っていたけど。  ……この子はぼくが思っていたよりも、ずっとキュートなのかも。そしてそのキュートさは、すごくぼくのストライクゾーンに刺さっちゃうのかも。  自分でも知らなかった性癖をブスブスと鋭利なナイフで刺されているような、とにかくこれまずいなぁハマっちゃったらよくないんじゃないかなぁでもかわいいなぁみたいな、とても良くない興奮に、地面に足をつけているのにふわふわするような感覚を覚えてしまった。  どうしよう。どうしようかな。  ……ぼくは、キミの些細な笑顔が、どうやら結構ツボらしい。

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