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 子供好きなの? と訊かれると、いつも答えに窮して絶妙な顔を晒してしまう。  別に明確に好きな理由も自覚もないし、ただシンプルに世界の中で他のモノに比べたら憎んでいないだけだ。おれは基本的に大体のモノに興味がなくて、なんならうっすらと嫌いなんだけど、子供に関してだけは『でもまだ子供だしなぁ』の一言を呪文のように思い浮かべるだけで大体は免除できる。  子供はまだ自我がない。生まれた環境なんてガチャで、親も家も兄弟も人種も教育も全部運だ。自力でどうこうできるもんじゃない。  努力できないものに関して、文句を言うのはさすがに筋違いだと思うから、子供は免罪符張り付けてる生物だと判断している――というようなことをつらつらと正直に吐き出したところ、薄暗い世界の中でも明確にわかる程度にヤルマリは目を見開いた。 「アンジュはあれだねぇ、なんていうか……たぶん、他の人が思っているよりも心が広いんだよね。冷静で、とても頭が良くて、そして寛容だ」 「……過大評価しすぎじゃない? おれなんか人類の中でトップクラスの心の狭さでしょ」 「いやぁ、そんなことないよ。キミはちょっと、自己評価が、うーん、ねじ曲がっちゃってる感じがするなぁ。確かにキミは世界に対してちょっと厳しいかもしれないけれど、自我のない子供には猶予を与えているよね。それって『人間の本質は体験から構築される性格』だと思ってるってことだよね?」 「あー……まあ、そう……かな」 「ほら、それすごく優しいよ! だってきちんと性格を吟味して評価しようとしてるんだから」  ……そうか? その解釈あってんのか?  と頭をひねるおれの横で、相変わらず爽やかな鳥類学者はいつも通りの歌うような声で、RPGのラスボスみたいなセリフを易々と吐いた。 「ぼくなんか本当に人間なんてどんなに聖人でもお金持ちでも素晴らしい聖職者でも、押並べてうっすらどうでもいいもの!」  それ、そんな爽やかに宣言していいのか……? なんか若干不安になるものの、どうせ周りの観光客はおれたちの会話なんか聞いちゃいないだろう。  ちょっと寄り道して帰ろうか。  そう提案したヤルマリはビーチのレストランで夕食を終えた後、ちょっとだけ車を走らせて小高い丘の上までおれを引っ張り上げた。すっかり暗くなった眼下には、人間の文明の象徴がキラキラと輝いている。  十月の西海岸といえど、夜になればそれなりに肌寒い。展望台で夜景を撮影する観光客たちは、皆示し合わせたかのように薄着の腕をさすっていた。それに比べてヤルマリはといえば、今日もペラペラの花柄のシャツ一枚だっていうのに、寒くも暑くもなさそうにいつも通りの笑顔を絶やさない。  変な生き物だ。人間、と言うことさえ憚られるような気がする。ヤルマリ・カンガスは、やっぱり変な生き物だ、としか言いようがない。  変な生き物だから、おれなんかと付きあってくれてんのかもしれない。ヤルマリになんか知らんけど口説かれて無理やりOKをむしり取られたあの日から、今日で八日目だ。  どうやら今日は、振られることなく一日を終えられたっぽい。  また付き合ってね、と彼が情けない笑顔で笑ってくれたのを真に受けるならば、この先も一応恋人として扱ってくれる、という事なのだろう。  奇跡だ。奇跡すぎて現実感がない。一切ない。  正直なところ見晴らしのいい観覧車の中でも心なんかそこにあらずって感じだったし、リアルすぎる夢か幻覚の可能性も否定しきれていなかった。  このヤルマリはおれの作り出した幻覚で、おれは一人でぼそぼそと喋りながら幻覚引き連れて一人遊園地デートを楽しんじゃっていたのかも。でもサンタモニカピアの観覧車は一人じゃ乗れないらしいし、なんかおれの予想外の行動とかしてきやがるし、たぶんこいつは実際に動いて生きているヤルマリ本人なんだろうなぁとやっと事実を受け入れ始めた。  普通におれなんかとデートして笑ってくれるだけも奇跡なのに、ヤルマリはおれの手を取ってキュートを連呼する。勘弁してほしい。おれの妄想の中でもさすがにおれは『きみって本当にキュートだよね!』なんて言わせない。恥ずかしすぎるし女子中学生かよって感じだし少女漫画でも今時ないんじゃねーの、って思うから。  それなのにヤルマリ(たぶん本物)はマジで、びっくりするくらいストレートに、いやマジで心底そう思ってんだろうなっていう真摯さで、とにかく『かわいい!』を繰り返す。  やめろ。まじでやめろ。なんかそう言われてまんざらでもないどころか死ぬほど嬉しいおれもどうかと思うし、だんだんおれってかわいいのかもしれないと思いはじめてしまうからやめろ、と思う。  人間は慣れる生き物だ、とヤルマリは言う。本当にそうだとしたら、おれはこいつにカワイイって言われることにも慣れてしまうんだろうか。……いや、一生慣れないと思うけど。ていうかいつ振られるかわかんねーし。  今日一日、どこで別れ話切り出されるのかなぁと他人事のようにぼんやりとした覚悟を握りしめていた。  だっておれは自分に魅力があるとは思えない。重いしキモイしうざいしだるい男だ。知ってる。わかってる。だからヤルマリの現同僚であるサマンサがケネディに振られたって知った時、あーこれ取られるなぁと覚悟した。  そもそもサマンサとヤルマリは仲が良い。彼女は熱心な研究者で、ヤルマリの研究をサポートできる優秀な女性だ。  現に昨日、ヤルマリは外食に出た。相手は勿論サマンサだ。  ちなみにおれが渡した通信機械は任意で電源を切れるようになっていて、プライベートな場面や外部に情報が漏れるとヤバい仕事の場面などでは容赦なく切ってくれていいよ、と伝えてある。おれだって外に漏らしたらやべーもんを研究してたりするし、個人に話しかけたつもりが知らん奴に筒抜けだった、なんてことがあったらシンプルに不快だろうと想像はつく。  というわけで、職場でのヤルマリの発言をおれは知らない。食事中の会話も知らないし、どういう意図で誘われて、どういう会話をしたのか一切わからない。  実のところ朝からずっと、おれの頭の隅にはサマンサの顔が張り付いていた。  日が沈んでから、随分と時間が経った。周りの観光客もぽつぽつと帰り始めている。  帰ろうか、と笑われたら今日が終わる。夢みたいだった今日が終わる。夢みたいだったんだから、夢のまま思い出にするべきなのかもしれない。でも、明日からもまたサマンサの顔を思い出したくない。苛々しながら、おれよりも年上の女を憎みたくない。 「……あのさ」  だからおれはものすごく躊躇した後、無理やり口を開く。見ても見なくても醜い感情なら、直視して飲み込んだ方がマシだからだ。 「昨日の、そのー……夕飯のことなんだけど」 「夕飯? ああ、サムの話?」 「……告白とかされなかったの?」  阿保過ぎてストレートに言っちまった。阿保か。阿保だ。こと恋愛に関してのおれは馬鹿で阿保で駄目すぎる。  きょとん、とした顔を晒したヤルマリは、何故かふへへと笑ってから人目を盗んでおれの鼻の頭に軽くキスをして(かわいいことすんのやめろ!)、珍しくちょっと悪い顔をした。にやにやしてる顔も好きだからやめろ。悪い大人の顔やめろ。 「やきもちってさ、抱えてる方はしんどいけどね、ぶつけられる方はちょっと、なんていうか、ふふ……ぎゅっとしちゃうよねぇ気持ちが。帰ってきてからキミに連絡入れてから寝たら良かったねぇ……サムとのディナーの主題は主に愚痴だよ。彼女には『ぼくはいま恋人がいるから』ってちゃんと言ってあるからね」 「でも、彼女は今フリーなんだろ?」 「だからっていきなり彼女に鞍替えなんかしないよ。だってぼくはアンジュのことが好きだもの。可愛いな、面白いな、一緒に過ごしたいなぁと思って口説いたけどね、今日やっぱり楽しかったしキミのことが可愛くて仕方なかったから、手放すことなんか考えられない。だから明日からも――ちょっと、待って、え、泣いてる!? なんで!?」 「……嬉しいしあり得ないしやっぱり幻覚かもしんねーけど感極まって我慢できなかったから……」 「えええ……? 幻覚? 何の話なのそれ? おふっ」  わたわたしているヤルマリに結構な勢いで頭突きして、そのままだらりともたれ掛る。ハンカチなんてお行儀良いアイテムは持ち合わせていないから、仕方なく鼻啜って滲む涙は自分の服の袖にしみ込ませた。  はーーーーまじでこういうとこだよおれ。このさぁ、急に泣くみたいなメンヘラ仕草が駄目なんだよ。わかってるけど感情の起伏ってやつは容易に宥められなくて、だらだらと涙は溢れる。 「おれは、あー……ダメで、屑で、メンヘラだからさ……そんな風に、前向きに評価してくれるヤツは稀なんだよ……心が広い、とか、まじで初めて言われたし」 「えー? アンジュは本当に優しくていい子だと思うけどなぁ……」 「買いかぶりすぎてる。だっておれの世界は真っ黒だ」 「黒?」  そう、おれの世界はいつもうっすらと黒い。  あらゆるものに興味がない。興味がないから黒い。注視してよく見ようと思わないから、だんだんと視る必要がなくなって薄暗く黒くなっていく。おれの世界の大半は黒くて、そしておれは黒という色が『無』であることを知っている。  ヤルマリはおれのことをたまに、クロミヤコドリに例える。それはまあよく見る感じの黒い野鳥なんだけど、黒い鳥を検索していてふと目に入った記事があった。  世界で一番黒い鳥。  パプアニューギニアに生息するフウチョウ科の鳥。その一部は、太陽光を含め受けた光のほぼすべてを羽で吸収してしまい、人の目にはぽっかりと穴が開いたかのように見える。スーパーブラックバードと呼ばれるこの鳥は、要するにどんな色も持たないのだ。  そういえばブラックホールだってそうだ。光を吸収してしまうから、結局何も見えない。宇宙が黒い理由だってそれだろう。  何もない、無とはつまり黒なのだ。  うっすらとすべてが黒く思えるおれの世界は、うっすらと何も無いことと同意で、だからなんというか――おれの世界はとても虚しい、と思う。だって黒は無だから。そこには何も存在していないから。  そんなことをぽつぽつと口にすると、おれの背中をさすっていたヤルマリがふと手を止めて唸る。 「うーん……確かにスーパーブラックバードの黒は麗しいほどに黒いし、それは発色じゃなくて吸収のせいなんだけども。でもね、ぼくは、黒は無じゃなくて色だと思うよ。有名なカラスの童話だってそうじゃないの」 「あー……色を混ぜすぎて黒くなった欲張りのカラス?」 「それそれ。あの話が個人的に好きかって言ったらそうでもないけど、でもね、黒い鳥って本当にたくさんいて、その全部の鳥が同じ色じゃないんだよ。全部違う黒だ。黒って一言で言っても、百種類くらいあるんだって。黒はね、色だよ。キミは他の人は黒く見えるって言うけど、きっと全部違う黒色だ。だってキミはとても頭が良くて世界をよく観察している。よく見てみたらいい。たぶん、世界はキミなりの色とりどりの黒で溢れているはずだよ。……ってのはちょっと、うーん、なんか気障だったかなぁ……でもぼくは本当にそう思――うぐっ」 「気障。無理。好き。吐く」 「最後のやつは何で!?」  急に抱きついたおれを引きはがすでもなく、笑ったヤルマリは逆に抱きしめてくれた。夜景をバックにいちゃつくゲイカップルの完成だ。しにたい。でも精神をズタボロに殴られたおれは一人で立てるわけもなくて、しばらく周りのことなど一回本当に忘れ去った気持ちでヤルマリの体温だけを甘受した。  おれの脆弱な精神をぶっ刺したのはヤルマリの柔らかい言葉だ。寛大な感受性と大らかな慈愛たっぷりの言葉は、容易におれのくそみたいな卑屈さを刺して刺してぼろ雑巾みたいにする。  ボロボロになった卑屈って名前の皮の下から出てくんのは何? 自尊心? それとも別の何かだろうか。知らない、だっておれは卑屈の皮を脱ぎ捨てたことがない。  それなりに人生には満足して生きてきた。死ななくて良かったなーと思うことも増えていた。それでもおれの世界はやっぱり黒くて薄暗くて、ずっと味気ない。  ヤルマリは『そんなわけないよ』とは言わない。『もっと愛しなよ』とも言わない。ただ、目を凝らしてよく見てみなよ、キミは自分が思っているよりもきっと優しい。そう言っておれの背中をさすってくれる。  泣くなと言う方が無理で、吐くなというのも無理だ。  感情が溢れて内臓がせり上がりそう。わりと本当に気持ち悪くなってきて、夜景もそこそこにおれはヤルマリにものすごく心配されながら帰路についた。  感情に酔った。そんなことあんのかよって自分でも思うけど、あるんだようるせーなとしか言えない。  普段なら、だからおれは駄目なんだよだからおれは捨てられるんだよって自暴自棄になってまた泣きそうなものだけど、この日はもう感情が溢れすぎてて悲しくなっている余裕なんてなかった。  好きで吐きそう。  そう繰り返す面倒くさいおれに、ヤルマリは本当に楽しそうに笑って、若干心配そうに背中をさすってくれる。 「……愛の過剰摂取って、死因になる?」 「どうかなぁ。人間は感情で死んじゃうし、本能なんかすっかり無視できちゃう生物だからなぁ。でも死んじゃったらぼくは悲しいし困るから、アンジュはぼくの愛にちゃんと慣れてね?」 「……人間は慣れる生き物だってのはわかるけど、おれは失恋に慣れちゃってんだよ……」 「あはは。じゃあたくさんデートして一生懸命慣らしていかないと!」  今度はどこに行こうか。  そう言って鼻歌を歌い出しそうなほど上機嫌に笑うヤルマリはどっからどう見ても最強の恋人すぎて、やっぱりおれは恋人の過剰摂取で死にそうだった。  黒は無の色だと思っていた。  でもアンタは、黒はそれそのものが多彩な色だと笑うから。世界の黒を、もうちょいちゃんと眺めてみようかな。そんな風に少しだけおれの頭のネジを緩めてくれたことを、おれは今でもずっと感謝している。

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