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 午後が始まったばかりのカフェはちょっとだけ混雑していたけれど、日差しの強いテラス席は比較的人もまばらだ。 「腹立たしいわ!」  テラス席の端で、むっすりとした顔を隠すことなく、ため息をぶつけてくるのは頬杖をついたサムだった。  ぼくはと言えば、彼女のストレートな暴言を耳から入れて、口からわははと笑いを吐く。  今日のぼくは――というか、ここ最近のぼくは最強だ。もともとサムの小言には慣れているのだけれど、たぶん世界中のささやかな嫌味を一気にぶつけられても、軽やかな鼻歌で応戦できると思う。  にこにことサンドイッチを齧るぼくの右手の薬指には、先日アンジュと一緒に選んだペアリングが嵌っていた。  右手が目に入るたびに、ぼくの機嫌はどんどん上昇する。指輪を嵌めてあげた時のアンジュのかわいさを思い出してにこにこするぼくを眺めて、サムはまたそばかすの浮いた頬を膨らませた。 「私は玉砕したってのに、ヤルマリだけハッピーだなんてずるいわよ。ずるい。ひどい。なんだかすごく腹立たしい!」 「そんなこと言われても~……だってぼくは幸せだもの。サムだってさ、そこまで派手に振られたわけじゃないんでしょ? きみの人格や外見が駄目だったわけじゃなくて、ただちょっと、あー……ケネディはシングルマザーがお好みじゃなかっただけ」 「十分な玉砕よ。トーマスを受け入れてくれる人じゃなきゃ意味ないわ。ああもう、こんなことなら大人しくさっさとあなたと指輪の交換をしておくべきだった……」 「指輪はもう先約があるからねぇ」 「見ればわかるわよこれ見よがしににやにやしちゃって本当に腹立たしいわね……」 「サム、今日は呪詛がすごいね、わはは! ていうかきみ、そんなにストレートに感情を吐くタイプだったっけ?」 「猫の皮をかぶってたのよ。誰だって好きな相手にはよく見える自分で居たいわ。……あなたはそういうの、全然考えてなさそうだけど」 「うん、そうだね、あー……考えたことないな」 「でしょうね。そういうところがとても素敵で、そしてとても不安だったのよ」 「不安?」 「不安よ。だって貴方のこと、全然わからないんだもの。『普通ならこうする』っていう定型にハマらな過ぎて、とにかくすごく不安になる。私には理解できない、想像できない人だった」 「……だから手放した?」 「うん、そう。そして今猛烈に後悔してる。だってあなた、ちゃんと恋にハマったら普通のかわいい男でしかないじゃない……」 「え。あ、そう? ぼくってば外から見ても浮かれてる?」 「盛大に浮かれてやがるわよこの色ボケ鳥類学者!」  お酒でも飲んでるの? ってくらいエキサイトしてるサムの言葉に、ぼくは心底びっくりしてちょっとだけ咀嚼を忘れた。  そうか、ぼくはちゃんと、浮かれているように見えるのか。あなたって何を考えてるのかわからない、と言われがちだから、あからさまに機嫌よくするのをやめろと言われたのはとても久しぶりだと思う。  なるほどぼくは、アンジュのことが相当好きらしい。  本人を目の前にしているときは、キュートとエクセレントしか頭に思い浮かばない。でもこうやって離れている時にまでぼくは浮かれてしまっているらしいので、それってなんだかすごく恋愛してるよねぇ? と実感してしまうのだ。  アンジュは可愛い。アンジュはちょっと、えーといや、かなり不思議で面白い。彼の行動も思考も、とても一直線なのにいつだってぼくの予想を軽々と超えてくる。  笑った顔がキュート。物を食べている時の口元がキュート。ぼくを眺めてぼーっとしている時の残念な顔もキュート。朝に弱くて寝起きは最高に我儘になるところなんてもう本当に可愛すぎて駄目だ。最高。最近はアンジュを帰したくなくて、ぼくの方がごねてしまうくらいだ。  毎日ゆっくりきみに落ちていく。  落ちた先にあるものが幸福なのか、いまいち判断つかないんだけど。でもまあ、ぼくはどうあれアンジュを不幸にするつもりは一切ない。  そろそろ、恋人に四六時中監視される生活にも慣れてきた。というか、最初からあんまり違和感なかったんだけど、このところ彼がぴったりとぼくに寄り添っている状態がむしろ楽しくなってきた。  大発見だ。ぼくはどうやら、それなりに恋人が好きな人間だったらしい。  サンドイッチの最後の一口を平らげながら、そういえばアンジュはハムとかベーコンとか好きだよなぁ、今度ミラノサンドのおいしい店を一緒に探しに行こうかなぁ、なんて考えていたせいでまたにやついていたらしく、サムに足を蹴られてしまった。痛い。 「暴力はよくないよぉ~……ちょっと、その、浮かれちゃってる自覚は出てきたけども」 「別にいいのよ。ヤルマリが浮かれているから腹立たしいんじゃなくて、未練たらしい自分に腹を立ててるだけだから」 「未練って、ケネディに? それともぼく?」 「どっちも。……あなたにしておけば良かった、なんて最低なセリフよね。でも、本当に後悔してるの今日だけは言わせて……トーマスもあなたには懐いていたのに……」 「あー、トーマス……」 「なあに、あなたも子供は苦手だったの? 結構楽しく遊んでくれたじゃないの」 「うーん、子供ねぇ。嫌いじゃないんだけど、なんていうか、シンプルに観察しちゃうんだよね。なんだろう、理性より本能で動いてるっぽいからかな」 「…………もしかして時々トーマスを微笑ましく見守ってたのは、あれ、観察してたの? 鳥みたいに?」 「いや彼が鳥とは別の生物だってのは承知してるよ。でも、人間の子供ってカテゴリでちょっとじっくり観察しちゃうときはある……」 「あなた、本当にわけがわからないわ。……今の恋人も学者なんでしょ? やっぱり変な人なの?」 「やっぱりって失礼だねぇ~ぼくはともかくアンジュはとても普通! って言いたいけど、ふふ。普通じゃないかなぁ。変人? っていうか変でとってもかわいくて興味深いよ」  サムは『なにそれ?』って顔をして眉を顰めていたけれど、アンジュを的確に表現する言語がぼくには見当たらないのだ。キュート、だけじゃ事足りない。でもエキセントリックなだけじゃない。ぼくのクロミヤコドリはとても不思議でとても可愛いのだけれど、あの魅力を伝えるためにはぼくたちの出会いからじっくりと語る必要がある。たぶん一時間くらい。  とのろけると、げっそりとした顔のサムがとても嫌そうに息を吐いた。 「……遠慮しとくわ。シロップを吐いて死んじゃいそう。ていうかあなた、そんな風にどろっどろに甘い顔でのろける男だったのね……脈ナシだって知ってて良かった。私が何も怖くない無鉄砲な小娘だったなら、人生が狂ってたかもしれないわ」 「ひどいねぇ、ヒトを毒か兵器みたいにー」 「過ぎたる恋は毒よ。愛で中和しないと死んじゃう人間だっているんだもの」  おっと、いまのはちょっと誌的すぎるけれど、とても素敵な言葉だった。  確かに、恋は毒だ。――特に、アンジュにとってはひどい毒なのだろう。でも中毒者のアンジュは、恋を摂取してないと息ができない。辛いのに摂取する。苦しいのに手を伸ばす。  目下ぼくの悩みは、『恋ばかり求めるアンジュにどうにか愛をぶち込む方法』を模索することだった。  アンジュは愛を信じない。恋が愛に変わることを信じない。たぶん、愛なんてものの存在は、おとぎ話かなにかだと思っているのだ。  ……ぼくはかなり、うん、いや、ええと、……相当、本気で、彼を愛してるんだけど。  まだ長い付き合いじゃないけれど、愛してる? って訊かれたら即答できる。アンジュが好きだ。愛してる。でも、何故か当の本人に一番伝わってない。……ぼくとランチを共にしている同僚にさえ、この愛情は駄々洩れだっていうのに。  という悩みを午後のカフェテラスで真剣に同僚に相談したものの、サムはとても嫌そうに『わかんないわよ人間じゃない人たちの恋愛事情なんて』と吐き捨てた。  わはは、まったくその通りだ!  ぼくとアンジュはたぶん人間としてとても未熟で、本来あるべき複雑な感情を持ち合わせていないのだ。予想もつかない、予測もできない。それならば愚鈍にただひたすら愛の言葉を連打するしかない。  どうなるか予測がつかない実験は、とにかく試行錯誤を繰り返してまずは行動してみないといけない。待っているだけでは何も変わらないし、観察しているだけにも限界がある。  うん、とりあえず旅行にでも誘ってみようかなぁ。基本的にアンジュはぼくのことが好きだから(そこは本当に微塵の疑いもないんだけど)、デートの誘いは仕事の用事がなければほとんどオッケーをもらえる。  旅はほら、なんかこう、開放的な気分になるっていうじゃない? ぼくはあんまり行楽でどこかに出かけたりしないんだけど、遠出自体は苦じゃないし、車の運転も割合好きだと最近気が付いた。というか、助手席にアンジュを乗せてのドライブが好きなんだけど。  カリフォルニアの観光シーズンっていつなんだろう? オーストラリアの夏は暑すぎて、シーズンは冬だった。この辺は南半球に比べたら結構涼しいんだけど、観光客でいっぱいになる時期はこれからだったりするのだろうか?  観光に詳しくないぼくはまず、旅行サイトを探すところから始めなくてはならない。わあ、すごく人間っぽい! いままでぼくは本当に人間じゃなかったのかも。  みんなぼくから離れていく、なんて悲しんでいたけれど、ぼくが人間じゃなかったからみんな呆れてしまっていたのかもしれない。 「ねぇサム、カリフォルニアの観光スポットでおすすめとかある? できれば、うーん……騒がしくて元気になれそうな場所で」  アンジュはロマンチックな場所でしんみりしてしまうと、すぐに『別れ話されるのかと思った』なんて言って泣いちゃうからね。ぎゃーぎゃー騒げる場所の方がきっと楽しい。 「騒がしいのがお好みならカリフォルニア・アドベンチャーとか?」 「ぐるぐる回るミッキーの観覧車があるところ以外で」 「あなたまだ高いところ駄目なのねぇ。私そういうのあんまり知らないわ、今夜トーマスに訊いといてあげる」 「わぁ、ありがとう! 現役男児のご意見、すごく参考にしたい!」 「……十三歳男児の好きそうな場所をチョイスして大丈夫なの?」 「だいじょうぶ、だいじょうぶ。たぶん、そういう場所の方が気に入ると思うから」  アンジュの趣味は結構こどもっぽいというか、わんぱく少年みたいなところがあるから。ネイチャー番組とか実は好きみたいだし、この前のサンタモニカピアも結構楽しんでいる様子だったし。  ぼくは上機嫌で、そしてサムはため息を吐きつくしたのか若干くらいは持ち直した様子の疲れた笑顔で手を振って別れて、お互いに午後の職場に向かって歩きだした。  サムと食事をするために切っていた通信機(という名目の盗聴器)の電源を入れる。誰かと会話をしている時と仕事の時以外、ぼくはなるべくこの小さい機械の電源をしっかりとつけている。  ぼくが朝起きたとき、家を出るとき、仕事を始める前、折々のタイミングでアンジュはチャットメッセージを送ってくる。おはよう、いってらっしゃい、おかえり、おつかれ。いつも午後の仕事の前のちょっとした移動時間に、アンジュは『午後も頑張って』とメッセージをくれる。マメだな~かわいいな~とにやにやしてしまうから、ぼくは彼のこのストーカー感満載の一言が大好きなんだけど。 「…………あれ?」  ぼくが大学に入っても、ぼくの携帯端末はぴくりとも反応しない。  おかしい、いつも絶対に研究室に入る前にアンジュから何かひとこと届くのに。  家なら虚空に向かって『アンジュ、聞いてる?』と声をかけたところだ。さすがに人の目がある場所で独り言を元気にぶちかますわけにもいかず、ぼくは沈黙しているチャットアプリに『アンジュ、今日は忙しいの?』と打ち込む。  一秒、二秒、三秒、…………三十秒。  いつも二秒で返信が来るのに、音沙汰がない。  ここで初めてぼくは、彼から送られてくるスケジュールアプリを開く。普段は休みの日くらいしかチェックしないんだけど……うん、今日のアンジュは特別忙しい様子はない。時折授業だとか学会だとかそういうものに顔を出している彼だが、今日は朝からラボで作業をしている予定だった。  首をひねる。ひねりながら、嫌な予感がじわじわと湧き上がり、ぼくは研究室に向けていた足を止めてUターンした。  通話アプリをタップして、登録したまま一度もかけたことのない知らない大学の電話番号を押そうとした時――唐突にぼくの携帯が着信を知らせる音を鳴らす。  相手の番号に見覚えはない。たぶんアンジュでもない。……でもまあ、仕事柄知らない人から唐突に連絡が来ることも、なくはない。ぼくは基本電話には出ることにしているから、特に躊躇もなくとりあえず通話のボタンを押した。 『ああ、良かった……! 助けてください、ミスター・カンガス!』  そしてその後聞こえてきたのは、とても必死で、とても泣きそうな知らない女性の声だった。

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