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追想 2

「行ってまいります」  何と言葉を返そうか考えていたセフェリノに、颯爽と背を向ける。  その広い背に、声を投げた。 「……ひとつだけお願いを聞いてほしいんだ」  そう口に出してから、セフェリノは一瞬だけ逡巡した。 「おまえに触れておきたい」  振り返ったアルヴァに手を広げて待った。  抱きしめて不安をやわらげたいなんて、小さい子どもみたいだと自嘲してみながらも、長身の騎士をじっと見上げた。 「ええ」  眦の長く切れた、冷然として見える双眸が柔らかく細められた。  すらりと背を伸ばし、誰の前でも堂々と立ち振る舞うその人は、近寄りがたいように思われる。  けれど、幼い頃からずっと見守ってきた、まだ(あどけ)なさを残す若き王子の前では優しい。  身分差はありながら、弟を見るような情に満ちた表情。貴族諸侯たちの水面下での後継者争いの中心で、毎日薄氷を踏む日々を過ごすセフェリノにとっての安穏だった。  周囲から何と言われようと、気にせず親しく接する。孤児であったアルヴァは、小さい頃から兄弟や肉親の関係に憧れているのだと話していた。  二人きりの時は、年下の主を甘やかしすぎるきらいもある。 「怪我するな……難しいかもしれないけど」  背を少しかがめて、柔らかくセフェリノを腕の中に収めた。 「殿下が望まれるのであれば」  しがみつくように手を回した。上着の内側に着けた、薄い胸当の硬さと体温を感じていた。  セフェリノの緩いウェーブをえがく髪を指先で掻き分けるように、そっと撫でた。 「おまえは強すぎるくらいだ。全く心配してない」  厚く頼りがいのある胸に顔をうずめていた。  彼からは、気取った香水の匂いはしない。なめし革と、鼻腔をくすぐる程度の香木の品の良い香り。  幼い頃、寂しい時はその膝で体を丸めていた。  そういう時、アルヴァは何も言わず背中に触れた。もう記憶の深い場所に染み込んでいるその人の匂い。  セフェリノは夢と追憶のあいだで、自分の体に腕を絡めていた。  慣れてしまっているはずなのに、彼の腕の中にいると時々胸が高鳴るようになったのは、いつからだっただろう。  ずっと前から好きだった。  それは肉親に対する感情と似たもののはずだった。  いつの日からか、その思いは少しずつ変化していった。  彼に色目を送る若い女性に、苛立ちを感じたとき、自身の狭量さに辟易した。  彼のことを一番知っているのは自分で、一番最初に好きなったのは自分なのだから、他の誰にも渡したくないと心の奥で思ってしまう。  けれど、誰よりも魅力的なアルヴァに好意を寄せる人間は、幾らいてもおかしくはないのだ。  わかっているから、悔しい。  剣を交えるのは彼なのに、セフェリノの方が本人よりも不安にかられていては主として形無しだ。  ぎゅっと目を閉じてから、ゆっくり開いた。 「僕は、おまえがここに帰って来るのを待っているから」  体を離して、頭一つは大きな彼を背伸びしながら見つめた。  臣下をただ信頼し、多く口出しせず泰然としているのも、主君の務めであろうと意志を固めた。  アルヴァは主の言葉に、鷹揚とうなずいた。  柔和に細められた目を伏せた。  視線を下げると目元が翳る。髪色と同じ黒い瞳に睫毛が影をつくると、いつも見せる堂々とした精悍さから、物静かで楚々とした印象に変わる。  その色香は、なまめかしさではなく、触れようとしても指から零れていくような刹那的で形を持たないものだ。  申し分のない実力に羨望の眼差しを嫌という程受ける彼が、脆さのようなその匂いをまとうのは不似合いにも思えた。  しかし完璧に見えてどこかに綻びを秘めているために、彼にひどく惹きつけられるのかもしれない。 「勝利の吉報を約束いたします」  そう言って微笑をうかべた頬に、無意識に手を伸ばしていた。指先をなぞらせると、硬い手のひらが重ねられた。  心がふわふわと軽くなるような思慕のこもった眼差し。  睫毛にかげる黒い瞳はいつも温度が低いのに、今はとろけるように甘かった。  ──恋人だったら、きっとここで口づけるのだろう。  セフェリノはふとそう考えて、ぱっと顔を赤らめた。慌てて手を引っ込める。  いかめしい表情をわざと作り神妙そうにうなずいた。 「うむ。言うまでもない」  老大臣の真似をして言ったのを聞き、アルヴァが吹き出したのを見て、つられて笑った。  笑っていると面映いような感情が少し薄れた。  恋情には踏み込めない。すでに完成されているはずの関係を崩すような勇気は、セフェリノにはなかった。  敬意をもって王子に対する彼に、そういう関係になることを迫れば受け入れてしまうだろう。  踵を返した後ろ姿に、『愛している』と言葉を吐き出せたら、この心のもやもやはすぐに晴れるのに。  セフェリノは黙ったまま温かさの残る手のひらを握り締めた。

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