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47.初めての名

 なかなか脱出が叶わずに結構な時間を踊り続けて、楽団が休憩に入ったのを契機に人々の輪から離れる事にようやく成功した。奇怪な動きをしていた故か、ベルマリー嬢の指導で結構な集中砲火を浴びた気がする。  そんなラズリウを心配してグラキエ王子が気遣わしげに話しかけてきた。 「だ、大丈夫か……?」 「うん、大丈夫。こんなに鍛えられたって感じるのは久しぶりかもしれない」  ニクス王子の魔法の特訓は完全に未知の世界だったけれど、ベルマリー嬢の特訓は騎士を目指していた頃を思い出させるものだった。思えば舞踏家は体が資本だ。方向性が違うけれど、体を使う事には変わりない。 「……そ、そうか……さすが騎士志望なだけはあるな……」  対してグラキエ王子の方が疲れ切った顔をしていた。研究所にこもりがちだし、仕方ないといえば仕方ない。それでも踊りが上手いのは、何だかんだで幼少期にきちんと練習をしていたからなのだろう。  武術の訓練にばかり熱中していた過去の自分を省みて、少し恥ずかしくなってきた。グラキエ王子の習性をとやかく言えそうにない。  他愛ない話をしながら屋台で遅い昼食を取って、休憩がてら広場に面した幅の広い煉瓦の建物に向かう。その三階が今夜の宿らしい。 「凄い……宿屋なんて初めて」 「俺もだ。この街の宿はわざわざ泊まらないし。街から出ても観測塔くらいしか行かない」  二人揃ってキョロキョロと周りを見回しながら、案内をしてくれる従業員の後ろについて部屋に向かう。外壁と同じ様に色違いの煉瓦が交互に組まれた壁が生かされた屋内の壁には、飾り布や植物、夏の間の風景を描いた絵が何枚も飾られていて賑やかだ。  てっきり途中で二階があるものだと思っていたが、真っ直ぐ三階にたどり着いた。廊下にはドアが三つだけ並んでいる。   聞くところによると、テラスがある部屋のフロアは他の階とは部屋の構造や位置が違うらしい。二階と三階はそれぞれ独立した通路になっているのだそうだ。 「こちらが本日のお部屋でございます。テネス様や護衛の皆様は両隣の部屋におられますので、何かございましたらお声がけ下さいとの事でした」 「……テネスめ……気を利かせてくれたと思えばそういう事か」  過保護な教育係に米神を抑えるグラキエ王子に微笑みながら一礼し、ラズリウにも深々と礼をして案内役は階段を降りていった。   グラキエ王子は嫌な顔をするが、テネスの配慮は当然である。本来王族は単独でウロウロしない。ラズリウとて昔は外出とあれば少しの距離でも身代わりを兼ねた使用人や近衛騎士を連れていた。何があるか分からないし、誰が危害を及ぼすか分からないからだ。  この国は城と城下の距離感が近いからか、カヴェアの気候で外の人間が潜入しづらいからか、誰も別段気にはしていないようだけれど。     気を取り直して中に入ると、アルブレア城の部屋に負けず劣らずの広い部屋が視界に飛び込んできた。  廊下とは打って変わってクリーム色の石材と木材で組まれた内装。向かって左手には、磨き込まれて艶を湛えた木材の家具と装飾の刻まれた暖炉。右手には大きな天蓋付きのベッドが二つ。下がっている蚊帳は絹の様な光沢がある白い布だ。  向かって正面には闇夜の様な薄いカーテンが幾重にも重なって下がっている。少し開いた隙間から覗く金属のフレームに色ガラスが嵌め込まれた扉を開ければ、白い石材で統一されたテラスが広がっていた。  まるで貴賓室の様な雰囲気の漂う部屋。恐らく豪商や貴族、王族が留まるための部屋なのだろう。 「まるで城だな……城下に出てきたというのに情緒の欠片もない」 「仕方ないよ、グラキエは王族だから。それに、このテラスのために取ってくれた部屋なんじゃないかな」  むすっとする様子に苦笑しながら、眼下の街へ視線を向けた。  テラスからは広場の賑やかな様子が見える。ここなら部屋に居ても祭りの様子が分かるし、音楽や人々の声も耳に届く。  一日続く祝祭の空気を、近くでずっと感じることが出来るのだ。本来なら夜になれば城に戻らなければならないグラキエ王子とラズリウのための部屋。  祭りの気配の中でも、二人きりになれる部屋。     初めて参加する行事で舞い上がってしまっているのか、ベルマリー嬢にしごかれてハイになってしまっているのかは分からない。  この状況にとくとくと踊る心臓。まるで背中を押されたようにグラキエ王子へ近付き、後ろからそっと抱きしめた。 「ら、ラズリウ……!?」 「少しゆっくりしよう。ずっと動きっぱなしだったから」  落ち着く香りに頬をすり寄せる。すると前に回している手にそっとグラキエ王子の手の平が重なって、やんわりと拘束を解いた。向かい合った顔は赤い。ラズリウの額にその唇が触れて、鼻先に触れて。  ……しばらく、その状態で固まって。 「あ、あの……口付け、ても……?」  途中で我に返ったのか、金色の瞳と緊張した顔が恐る恐る覗き込んでくる。  ここにきての許可を求める言葉に思わず吹き出してしまった。 「口付けてくれるのかなって、待ってたよ」  腕を首に回すと、びくんとグラキエ王子の身が震えた。ほんのり朱に染まっていた頬が一瞬で真っ赤になる。  まさか積極的過ぎたのだろうか。  本当にこの人は扱いが難しい。今この部屋で気絶なんてされたら、襲ってしまいそうなのに。  立ち尽くすグラキエ王子をじっと観察していると、こくりと白い喉が動いた。  ゆっくり近付いてくる顔が見えなくなり、暖かい柔らかさが口に触れる。そっと背に回った手がラズリウを抱き寄せ、腕の中に閉じ込められて。  何度か啄むように触れ合って、待ちきれなくなって少しだけ深く口付けた。それに驚いたのかラズリウを捕らえる腕にぎゅうっと力が入ったけれど、じきに優しく撫でるような動きに変わる。 「ん……ふふ、くすぐったい」  唇が首筋の肌を撫でる。少しずつ、少しずつ、探るように。 「……ラズ、リウ……リィウ」  ぽつりと熱っぽい吐息の混ざった言葉がグラキエ王子からこぼれて、ラズリウの耳から染み込んだ。まるで乾いた砂の上に落ちた水のように、あっという間に吸い込まれて全身へ広がっていく。  初めてだ。  そんな名で呼ばれたのも、こんなに甘く囁かれたのも。 「ぐ、らきえ……キーエ……」  応えるように囁くと、少し見開かれた目がラズリウを見た。すぐに目尻が下がってとろりと甘い微笑みに変わる。    どちらから導いたのかは分からない。    気が付けば寝台の上で二人横になりながら、いつもと違う名を呼び合いながら飽きることなく口付けを繰り返していた。  寛げた服の合間から覗く肌が少しだけ皮膚に触れる。ほんの少しだけなのに、まるで裸で抱き合っている様な錯覚さえ覚えて。リィウ、リィウと特別な名前を呼ばれる度に心まで火照っていく。 「キーエ……っ」  力一杯すがりつくと強く抱きしめられた。宥めるように頭を撫でられて、まるで昇りつめる時の様な心地良さに思考が沈んでいく。  夢中で触れ合うひとときを終えたのは、青空に花火が上がり始めた頃だった。    散々口付け合って満足したのか、ようやく平静が戻ってきた二人は寝台の端と端で背を向け合って座っている。 「その、すまなかった……まさか押し倒しているとは……その……弁明のしようもない……」 「いえ、たぶん、その、僕が……さそっ……ぅう」  舞い上がっていた頭が冷静になると、今度は込み上がってくる羞恥で体が熱い。先に口付けで物足りなくなったのは恐らくラズリウである。深く口付けたのも己の方だったのだから、そのままグラキエ王子を誘ったと考えるのが自然だろう。  婚約の話がきた時は王子に応えようと心づもりしてきたはずなのに。応えて貰えると分かった途端、すっかり自分が欲求を向ける側に回ってしまっている。   ちらりと振り返って見た背中は丸くなっていて、見える首や耳が赤くなっていた。恥ずかしい思いをさせてしまった。申し訳なさが罪悪感に少しずつ変わっていく。    情けなくて、気まずくて。   今の空間に耐えられなくなったラズリウは逃げるようにテラスへ出た。

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