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49.君の側へ
陽光祭からしばらくして、朝食にラズリウ王子が出てこなくなった。
流石にこの理由は分かる。けれどすぐに部屋へ入れてくれと言うのは、この日を待ち構えていたみたいでどことなく憚られた。
最初の頃の様に差し入れをして声をかけるタイミングを見計らう。まるでウロウロと主人の帰りを待つ犬の様な気分だ。
そんな事をしている間に、ラズリウ王子のヒート期間は四日目を迎えてしまっていた。
門番の如く部屋の前に立つシーナに、今日も上着を渡す。身につけている衣服が一番の贈り物だと言われて毎日一枚ずつ渡しているが、返却される様子はない。大丈夫なのだろうか、衛生的な意味で。
「お預かりいたします」
上着を受け取って部屋に戻ろうとする後ろ姿。今日も見送りかけて、少し考えて。
「しっ、シーナ!」
「はい」
かけた声に振り返った顔は笑顔だ。何かを期待する様な、楽しそうな。研究員達の様なネタを期待する雰囲気ではないが、何かを待ち構えている気配はする。
そんな雰囲気を気取った頭の中から、かけようとした言葉が消え去ってしまった。声が出ない。あーだのうーだの唸りながら目の前の顔を見つめていると、察してくれたのかにっこりと笑った。
しかし、その口が開かれる事はない。グラキエが言葉を出すのを待っているようだ。
「その、…………へ、部屋に」
「はい」
詰まってしまった言葉の続きを促す様に、じっと青い目が見つめてくる。
「……っ、部屋に、入っても……いいだろうか……ラズリウの側に、行きたい……」
「お時間がかかられましたね。ラズリウ殿下はずっとお待ちでしたよ」
何とか絞り出した声は上擦ってしまっていた。しかしシーナは満足げに微笑んで、そっと部屋の扉を開けてくれる。
使用人の待機室前を通り、ラズリウ王子の居室への扉を開こうという時だ。いけない、と小さく呟いたシーナはくるりとグラキエを振り返った。
何事だろうと目を丸くしていると、お待ちくださいと言ってぱたぱたと待機室に入って行った。すぐに出てきた彼女から渡されたのは、小さな小袋に包まれた丸いもの。
「グラキエ殿下、入室前に避妊具のご準備を」
「は?」
よくよく見ると、袋の中身は自身の性器に着ける避妊具だった。実際に使う機会が無かったせいで、見た事がある程度の代物だけれど。
ぎょっとしてシーナを見るが、その顔はのほほんと笑っている。どうしてそれが待機室に置かれているのかという疑問も一瞬だけ浮かぶ。けれど今ここでこれを着けろと軽く言われて、些細な疑問は完全に吹っ飛んでいった。
「ヒート期間中でございますので。間違いがあっては事ですから事前に」
「そ、そんなつもりで部屋に入る訳じゃないぞ!?」
「多少落ち着く時期に入ってはおられますが、Ωのフェロモンを侮ってはなりません。αの理性は容易く崩れるものです」
……テネスが実際に何かやらかしたのかもしれない。放つ言葉に妙な説得力を感じる。
しかし、だ。
ここでひとつ問題がある。
「ところでグラキエ殿下。避妊具の使用方法は」
呆然と袋を見つめるグラキエに、シーナは相変わらずにこやかに尋ねてくる。
「い、いや、その……」
そう、使い方を知らないのだ。
魔法技術に熱を上げていたグラキエである。どこかで使う機会などあろうはずもなく、当然使用経験もない。いっそ実物を手にしたのも初めてだ。
もしかすると昔教わったかもしれないが、興味のない事を真剣に聞いていた可能性は己の性格からして無いだろう。
沈黙で回答を把握したらしいシーナは、やれやれと小さく呟いた。
「成年の男子がこの状態とは……テネスの怠慢ですわね。では僭越ながら、私が」
そう言ってグラキエの前にしゃがみ込んだシーナはグラキエのベルトに手を掛けた。流れる様に金具を外されて下履きがばさりと落ちる。
その様子をぼんやりと見守って。
「えっ!? いや、いい! それは流石にっ」
ハッと我に返り、慌てて落ちた下履きを拾って引き上げた。シーナから前を隠す様に体をずらし、じりじりと距離を取る。
これは部屋から出るべきだろうが、今の状態で飛び出す姿を見咎められれば間違いなく危ない人間である。せめて下は履かねば、どんな尾鰭がつくか分からない。
「ご安心下さいませ、着け方のデモンストレーションのみですので」
じりじりと距離を詰めてくるシーナは変わらず笑顔を浮かべている。その笑顔が逆に恐ろしい。
「つけ、でも、いや、それって見せるって事だろう!?」
「乳母に今更何を仰います。王子様方の生まれたままの御姿はとうの昔に全て拝見しておりますよ」
「いつの話をしてるんだ! 俺の年齢を考えてくれ!!」
冗談ではない。
子供の頃の素っ裸と、大人になって下半身を曝け出す姿では全く違う。意味合いも恥ずかしさも何もかも。
もちろん無知である己が要因だが、いくらなんでもあんまりだ。テネスならまだしも、育ての母とはいえ異性のシーナに何をして貰おうというのか。
いや、たとえ実母でもこの展開は嫌だ。羞恥心で死んでしまう。
何とかこの状況から脱出しようと頭をようやく回し始めた頃、シーナの笑顔がすっと引いた。
「早くラズリウ殿下に会いたくはないのですか。さっさと腹を括りなさい、グラキエ殿下」
低い、幼い頃のグラキエを叱る時の様な声音。耳に届いた言葉にぴたりと頭は回転を止める。
……会いたくない訳がない。もう三日も機会を逃してしまっているのだ。早く会いたいに決まっている。こんな茶番が無ければ今頃ラズリウ王子の側にいるはずだった。
資料を貰うにしても、同性に教わるにしても、また出直す事になる。あの扉一枚をくぐれば、すぐそこに会いたい人が居るというのに。
「っ………………ぅ、はい……」
ふわりとどこか甘い香りがした気がして。欲求が羞恥を上回ったグラキエは渋々ながら観念したのだった。
まさかの乳母に避妊具を着けて貰いながら使用法を教わるという、羞恥心への拷問の様な時間がようやく終わった。心なしかヨロヨロとした足取りで開かれた扉をくぐる。
「ラズリウ殿下。グラキエ殿下がお見えになりました」
天蓋に近付いて声を掛けるシーナの声に反応して、蚊帳の向こうでもぞりと人影が動くのが見えた。
そっと布地が動いて、開いた向こう側からひょこりと顔が出てくる。
「……上着、ですか? ありがとうございま」
弱々しく微笑む表情がグラキエに気付いて固まった。声も途中で途切れて、まん丸になった琥珀色の瞳がこちらを見つめている。
「ら、ラズリウ……その、久しぶり……」
そっと近付いて赤く色付いている頬に触れると、ぱちぱちと瞳が瞬く。ぎこちなく動く両手がグラキエの頬に触れて、確かめる様に何度も撫でてくる。
「グラキエ……? ほん、とうに……?」
ここまで三日もかかったせいで、来ないと思われてしまっていたのかもしれない。首を縦に振るとまるで泣きそうな表情にくしゃりと目の前の顔が歪んで。
その変化に慌てた瞬間、寝台の上に強く引っ張り込まれた。
「私は待機室に下がらせていただきます。グラキエ殿下、ラズリウ殿下をお願いいたしますね」
「あ、ああ……」
にこやかに一礼をして下がっていくシーナを見送る。蚊帳を閉じてラズリウ王子に向かい合うと、その頬は少し膨らんでいるように見えた。
「…………来ないのかと思った」
どこか拗ねた様な声。やはりずっと待っていたというのは本当らしい。
「す、すまない、いざそうなると中々勇気が出なくて」
「キーエ……」
甘える様に抱きついてくる体は少し熱い。抱き留めて背中をさすると、首筋から甘い匂いが強く漂ってくる。
時々ラズリウ王子から感じる甘いそれは、もしかするとフェロモンだったのかもしれない。
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