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50.跡
もこもことグラキエの渡していた服を身に巻きつけたラズリウ王子は、腕の中に収まってもまだ子供の様に服にくるまっていた。
じわじわと何かが染み込んでくる様な、感じた事のない感覚。これがフェロモンの影響なのだろうか。
「リィウ……大丈夫か?」
ぎゅっと目を閉じたまま荒い呼吸をしている姿が少し心苦しい。落ち着いたと頃だとシーナは言っていたが、今でこれならピークの時はどれだけ苦しかったのだろう。
ゆっくりとグラキエを見た琥珀色の瞳は潤んで、とろんとした視線を向けてくる。大丈夫だと小さな声が聞こえるけれど、どうにも説得力がない。
Ωのヒートなんて初めて見る。シーナが普通にしているのなら正常なのだろうけれど、どうなると異常に転んでいるのかが何も分からない。
自分が側に居ても良いのだろうか。シーナに診てもらっている方が良いのではないだろうか。
少しずつ積もってくる僅かな不安を振り払うように、腕の中に抱えている体をさする。はぁはぁと息を乱す口元からは、ん、ん、と時々やけに甘ったるい音がこぼれてくる。
一見すれば風邪のようにも見えるけれど、音が混じるタイミングからしてグラキエが撫でているのが刺激になっているらしかった。
「いつもこんなに苦しいのか?」
自分が要因ではないかと手を止めると、止めないでと甘えるような声が鼓膜を揺する。
「発情期、だから、ね……でも……キーエの匂い……近くにあると、落ち着く。撫でられると、気持ちいいんだ」
弱々しく微笑む姿にぎゅうっと心臓が握られる。がばりと抱き込んで背中をゆっくり撫でると、あ、と鼻から抜けるようなラズリウ王子の声が転がり落ちた。
テネスがΩ贔屓な理由もようやく理解できた気がする。こんな姿を見せられたら過保護になりもするだろう。
グラキエですらこうなのだ。シーナこそが運命だと結婚前から騒いでいたらしいあの教育係なら、ヒートで籠る時はいても立ってもいられなくなるはずだ。
離れたくない。
僅か一晩であっても惜しい。ずっと側で見守っていたい。
湧き出てくる気持ちに少しだけ戸惑う。これが己だとは俄かに信じ難い。初めて見るヒートの光景に驚いたのもあるのだろう。想像よりもずっと苦しそうだったから。
……それに対して何も出来ないどころか、立ち昇ってくる欲望を向けそうになる自分が情けない。
「あの、しばらくこの部屋に居ても、構わないだろうか。リィウの隣に居たい」
「……夜も……?」
「君が許してくれるなら」
いつの間にか目を開いてグラキエを見つめていた視線に微笑むと、ふにゃりと強張っていた眉間が緩む。
「一緒がいい……ずっと……ずっと帰らないで」
「君が部屋から出られるようになるまで、ここにいる」
「きぃ、え……キーエ……っ」
熱い唇がそっと口に触れて、思わず深く口付け返す。逃げられないように捕まえて、抱きしめて。衝動的に押し倒した身体に口で触れて、気付けば首の付け根に歯を立てていた。
薄くグラキエの噛んだ跡が残る、ラズリウ王子の肌。
それを見て込み上げるのは、誰に対するものか分からない優越感。満たされていく征服欲に湧き出てくる高揚感が全身を痺れさせていく。
少し変だ。以前はこんな風に思わなかったのに。
……グラキエが己の行動をきちんと把握出来ていたのは、そこまでだった。
「申し訳ない!!!」
少し時間が経ったであろう頃、グラキエはシーツに頭を押し付けて土下座をしていた。
向かいに座るラズリウ王子の身体には全身至る所に噛み跡がついている。血こそ出てはいないが、おびただしい数のそれらは見るからに痛々しい。
そして、それらをつけたのは間違いなくグラキエ本人である。
ラズリウ王子に最初の跡をつけた所までは記憶している。けれどそれを見て……恐らく興奮状態になったのだろう。理性を飛ばして全身に噛み付いたのは想像に難くない。
ヒートで苦しんでいる相手に何をしているのか。急に襲い掛かられて怖い思いをしたに違いない。
「キーエ」
「本当にすまない……っ!!」
顔が上げられない。合わせる顔もない。
ラズリウ王子はどんな顔をしているのだろう。怒っているのならまだいい。もしも怯えられてしまっていたら、どうすればいいのだろう。
混乱して何のフォローも導き出せないまま、シーツに押し付けた頭がめり込んでいく。
不意に前方で人の動く気配がして、そっと頭に何かが触れた。手の平だろうか。ゆっくりと撫でる様な仕草をしていて、するするとその感触が首、背中と少しずつ降りていく。
その動作が気にはなりつつも恐くて顔を上げられない。目を逸らすなと教わってきたはずなのに。情けないことに、自分のした事すら直視できず目を逸らしている。
しばらく背中をさすっている感触がしていたが、ふっと止まる。少しすると首に暖かくて柔らかいものが触れて。
――どこか遠慮がちに、頸の肉を硬い何かが挟んだ。
「いッ!?」
「あ……ごめん、強すぎたかな」
殊の外ガッツリと噛みつかれて思わず体を起こすと、苦笑しているラズリウと目が合った。グラキエが暴走する前に比べると苦しそうな様子は薄れているように見える。
……いや、そうではなく。
「い、一体何を」
「僕も跡を付けたいなって思って」
「何故急に……」
言っている意味がいまいち理解できずにラズリウ王子を見つめ返す。けれど目を背けたくなるような己の粗相が視界に映り、考えを改めた。
意図を理解出来るかではない。それで気持ちが治まるなら良いじゃないか、と。
「いや、罰ならいくらでも受ける。好きなだけ噛んでくれ」
他ならぬラズリウ王子の事なのだ。よほどの無茶ではない限り叶えたい。
頭を切り替えて腕を差し出すけれど、帰ってきたのはきょとんと不思議そうな顔だった。
「キーエには噛み跡は罰になるの?」
「え……俺がした事への罰じゃないのか。目には目を、というアレじゃ」
正直グラキエへの罰になるかと言われると否なのだけれど。跡を付ける高揚感を知ってしまった今、互いに同じ場所へ跡を付け合う事への密かな期待しかない。
少し変態くさいなと思いながら見つめた顔は、なんとも例えがたい複雑そうな顔をしていた。
「………………どうして罰なんか与えるの。嬉しいのに」
「嬉し……えっ?」
一瞬自分が言ったのかと思ってしまった。けれど確かに言葉は目の前の口から発せられたものだ。
その顔はまた拗ねたような表情になってしまっている。
「僕は身体に残す跡は独占の証だって教わってきた。だからキーエも所有印がつけたくなるんだって、嬉しかったのに」
「え、えと……あの……す、すまない、その辺りの事は……その」
何がこういう場合の普通なのか分からない。行為の意味など覚える気もなかったからだ。
今のグラキエに分かるのは、二人が恐らく同じ基準でいるのだろうという事だけ。それは嬉しい事なのだけれど。
「どうせ、教わってても興味なかったから覚えてないんだ」
「うっ。申し開きの言葉もない……その時は必要性が分かっていなかったから……」
「なのによくお役目は果たすなんて言ってたね」
じとりとした視線がちくちくと刺してくる。
どうやらラズリウ王子の違うスイッチを入れてしまったようだ。さっきまで弱々しく腕の中に収まっていた人間と同一人物だとは少し信じがたい。
けれど恐らくラズリウ王子はこちらが素なのである。しっかり者で、少し気の強い王子の顔が。
「うぐぐ……最初に言ったこと、結構根に持ってるだろ」
「それは別にいいと思ってたんだよ。子作りの相手じゃなくて、僕が欲しくなってくれたんだって、ちゃんと君が教えてくれたから」
拗ねながら抱きついてきて、かぷりと首筋に甘く噛みついてくる。何度か柔らかく噛んで、食んで。少し強く噛みつかれたと思えば、その場所にはくっきりと跡が残っていた。
少しだけ満足げな顔で歯形をなぞって、ちらりとグラキエを見上げてくる。
「だからこういう行為は無くてもいいって思ってた。でも……我を忘れるほど、跡をつけて興奮してくれたって事だよね?」
「うう……まあ……事実を言うなら、そう、だな……」
そう言われてしまうと身も蓋もない。おまけに嬉しそうに見つめられて顔が熱い。そんなグラキエに満足したのか、拗ねたような顔は嬉しそうな笑顔に変化していった。
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