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第3話
「――で、わざわざ何しに来たんだよ」
この際何故自分より先に到着していたのか等という疑問は後回しにして、姿を見せた理由を明確にしたかった。苦情もしくは糾弾か、好ましいことではないことをワースは分かっていた。そうでなければ幾ら呼ばれたついでであっても合理主義の兄が時間を割く訳が無い。
コツ、と陶器製のカップがソーサーと触れる小さな音がする。
「決まっているだろう。お前が忘れた上着を届けに――」
そう言ってオーターは片手を自らの脇に伸ばす。しかしそこには何も無く、オーターは何度か空を掻いた後視線を向けてそこに何も無い事を視認する。
「ん?」
その上着とやらはどこにあるのか、ワースはただオーターの行動を見守る。ふたりの間に気まずい空気が流れた。
オーターは項垂れるように頭を垂れ、眼鏡を支えながら深く長い溜息を吐き出す。
「忘れた」
「は?」
持ってくることを忘れたのをいつまでも悔やんでいても仕方がない。無いものは無いのだからと諦めたオーターはソファから立ち上がり肩に羽織ったコートを翻す。
「忘れたのは仕方がないだろう」
予想外にこのままオーターが何も追求せずに帰りそうだと感じたワースは、それまで張り詰めていた緊張から解放された反動で思わず照れ隠しからの皮肉が飛び出してしまう。
「なんだよテメェも俺より早く着いたはいいがテンパってたのかよ」
「テンパ……まあ、そうとも言える」
眼鏡を支える手に隠れてその表情は良く伺えなかった。
渡そうとしていたものを忘れて来る程にオーターが動揺していたということにワースは気付けていなかった。
オーター自身もまだその感情に気付けておらず、一度この場を離れて感情をリセットするしかないと考え軽口を叩く弟へ再度視線を向ける。
「非合理的以外のなにものでもないが、お前が再び私の上着を持って私の部屋に来るしかないな」
「待てよ、テメェの上着なら持ってくっから――」
合理主義を掲げるのならば今部屋に戻れば取って来られる上着だけでも持ち帰るのが最良ではないかとワースはオーターの腕を掴む。
それはワースが僅かでもオーターとの時間を紡ぎたいと願う気持ちの表れでもあった。
しかし、オーターからワースに向けられた言葉は、ワースにとっては残酷な一言だった。
「お前は救いようのない馬鹿だな」
「あぁっ!?」
確かに馬鹿かもしれない。今になって兄との時間を大切にしたいなどといって子供じみた足止めなど全く合理的な行動では無かった。劣等感を指摘されたワースは反抗から怒号にも似た言葉をオーターに向ける。
その時、ぽんと背中を叩かれた手にワースの目が点となる。
「お前が風邪をひくだろう。来るときには私の上着を着てくればいい」
――今、なんと言った? ワースは自らの耳を疑った。風邪をひくと体調を気遣われたような気がした。
やけに帰宅時に上着が暖かい気がした。誰かの腕に抱かれているようなその暖かさは兄の上着であったからだとワースは理解するのに時間を要した。
親にも優しい言葉を掛けられ抱き締められた覚えが無い。それでも何故か暖かいと感じてしまったのは背中を叩くこの手と同じだったからだと気付いた。
「ああ、それと――」
「あ?」
駄々を捏ねる子供を諫めるように、くしゃりと癖のある頭を撫でたオーターは何かを思い出したようにそのままワースの頭を引き寄せる。
「ああいうことは相手が起きているときにするものだ」
周囲の誰にも聞こえないように、オーターはワースの耳元に唇を寄せて囁く。吐息が耳に掛かりぞくりと肌が粟立ったが、それ以上に告げられた言葉が直接ワースの脳に突き刺さった。
「なっ……!!」
触れられずに済んだ話題を再び蒸し返されたこと、どう解釈しても明らかにあの瞬間に起きていたと明かしているような言葉、そしてワースの行為を否定するでもなくまるで起きている時にしても良いと言っているかのような言葉に、ワースの脳内は処理をやめて爆発した。
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