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3.初めてのお泊り③
またそんな表情をして、という言葉を誉は飲み込んだ。
その表情も、そうやって諦める癖も、彼のせいではない。
その育った環境故だ。
そしてこうなってしまった彼に、このアプローチは全く無意味だ。
誉はカイに手を伸ばす。
ビクリと強張ったその体から力が抜けるまで優しく撫で続け、今度はわざとらしく困ったように言う。
「そうかあ。
でも、そうなるとやっぱり家庭教師はそろそろ潮時かなあ」
するとカイが顔を上げて誉を見た。
さっきとは打って変わり、怪訝そうな顔だ。
「何で」
益々機嫌が悪そうな低い声だ。
かかった、と誉は思ったが、敢えて先程と変わらぬ口調で答える。
「文系は専門外だから、僕は教えられないよ」
「そんなことないだろ。
今だって全教科教えてくれてるじゃん」
「名目上はね。
でも君は文系教科はむしろ僕より詳しいくらいじゃないか」
「けど」
「本気で君が文学部に行くと言えば、きっとお祖父様はその専門の人を先生として連れて来るよ。
そうしたら、僕はお役御免になる」
「そんなの、いやだ」
「嫌でも仕方ないよ、どうにもならない。
それは君が一番良くわかってるでしょ」
「……っ」
カイは返す言葉もない。
だが高ぶった感情を抑える事もできず、下唇を噛んで誉を睨んだ。
誉はそんなカイの頭から手を離して腕を組む。
そして首の付け根を触りながら続けた。
「それに、文学部じゃあ、なかなか会えなくなっちゃうね。
カイは医学部志望だとばかり思っていたから、同じキャンパスに通えると思って楽しみにしてたんだけどなあ、残念だなあ」
「別に学部違っても会えるだろ」
「会えないよ。
六年ともなると、僕も実習とか試験があるからそれなりに忙しいんだよ。
同じ学部なら、こうやって時間合わせて会いやすいしだろうし、勿論専門だから家庭教師も続けてあげられると思うけど。
流石に文学部の内容は教えてあげられないし、そもそもキャンパスがかなり遠いからね。
君も家から行き来するだけでいっぱいいっぱいになると思うよ。体力ないしさ」
そこまで一気に喋った誉はちらりとカイを見る。
カイは口元を右の手で覆いながら、空の皿を見つめ、考え込んでいる様子だった。
そして暫くそうした後、赤い瞳を真っ直ぐに誉に向けて、一言だけこう言った。
「わかった」
誉は何も言わずに微笑んだ。
すると途端にカイは顔を赤くして、慌てたように横を向く。
その仕草が愛しくてたまらない。
「来る?」
その言葉にカイは耳までも赤く染めたが、まだ動かない。
「おいで」
床についていた左手の指がピクリと動いた。
「カイ、おいで」
「……っ、仕方ねえな!」
そろそろと這って寄ってきたカイに手を伸ばして抱き寄せる。
小さなその体をすっぽりと覆うように抱きしめてやると、カイは居心地悪そうにモゾモゾと動く。
そしてより強く抱きしめると、今度は大人しくなって胸に頬を寄せてきた。
「カイは"俺"に会えなくなるの、そんなに嫌なんだ?」
「……っ、べつにそんなこと」
「俺は嫌だよ、カイに会えなくなるの」
「……っ!!
オレ、は。
オレは、その、お前が作ったメシが食えなくなるのが、嫌なだけ!」
「そうかあ、じゃあ、たくさん作ってあげるよ。
だから、たくさん食べに来てね」
恥ずかしすぎてうまく言葉を続けられないカイは、返事の代わりに只ぎゅっと誉を抱き締め返すのが精一杯だった。
誉とカイの出会いは、昨年の夏のことだ。
誉が下宿しているアパートの一室で火事があり、
一時的に行き場をなくしてしまったに、同期の中でもとりわけ仲が良かった航が自宅の空き部屋を使えるように取り計らってくれたのがきっかけだ。
航の実家、如月邸は予想を裏切らない大豪邸で、特に驚いたのが大きな書庫だった。
本の虫なのは家系なのか、貴重な医学書や、様々な分野の本がまるで図書館のように揃っていた。
誉もありがたいことに使用許可を貰い、よく通わせてもらっていたのだが、そこでいつも本を読んでいたのが、航の弟である櫂だった。
真っ白な体とは対象的な真っ黒の学ラン。
眼鏡だけが赤いのが印象的だった。
それが窓際の白いレースカーテンを背に黙々と本を読んでいる様は、あまりにも現実離れしていて、一瞬この世のものではないのかと思ったほどだった。
結局誉はアパートの建て替えが終わるまで、2ヶ月ほど如月邸の世話になったのだが、その間幾度となく歪な家族関係を目の当たりにする。
家庭の中で必ず一番に優遇される長男の航と、父親からその存在を全く無いものとして扱われている次男の櫂。
一方で次男をペットのように溺愛し、長男を敵視する母親。
時折別宅から訪れる兄弟の祖父は、出来の良い長男と、彼いわく汎用な次男を執拗に比較し、常に次男を叱責していた。
そんな環境の中、櫂はいつも凪であった。
その赤い眼鏡の奥に感情をしまいこみ、母に従い祖父の叱責をただ受け止めていた。
あの家で唯一櫂を家族として扱っているのは兄の航だけだったように思う。
実際、誉に櫂の面倒を見てくれないかと頭を下げてきたのは彼だった。
書庫に通ううち、少しずつ櫂と打ち解けつつあったのは事実だが、まさかそんなことを親友から頼まれるとは思っていなかったので誉は素直に驚いた。
とはいえ弟のこと、兄である君がその役を担うべきだと諭しはしたが、彼は首を横に振り"弟は自分を厭うているから"と寂しげに笑った。
「誉、あの、そろそろ」
「んー?」
「そろそろ、離して欲し…」
「どうしようかなあ。
今夜はこのままずっと抱っこしてたいなあ」
「んなっ、何言ってんだよ。
気でもおかしくなったのか?」
「…カイはわかってないかもしれないけど、俺、今結構舞い上がってるんだよね」
「は?」
「帰ったら部屋にカイがいて、それだけでも嬉しかったのに、一緒にこうやって夜まで過ごせるのは、本当に嬉しい」
俄に、カイは自分を抱きしめる誉の腕に力が込められて行くのを感じる。
「誰もいない部屋に帰って、一人で夜を過ごすのは、とても寂しいから」
「誉?」
カイはシンプルに驚いた。
誉が自分にそんな風に弱みを見せたのは初めてだったからだ。
また、一人で何だって出来る強い誉に、そんな感情があるなんて思いもしなかった。
どんな顔をしているのか、その顔を見てやろうと思ったが、狡いことに誉が自分の頭に顎を乗せているせいで叶わない。
それでもどうしても見たくてカイがモゾモゾと動くと、彼はふうと息を吐いた後顔を上げた。
カイを見下ろす格好で視線が交わり、誉は目を細める。
「意外かい?」
「えっ、いや……えと、うん……。
正直に言うと、意外だった」
「だよね、みんなそう言うんだよ。
俺だって人並みにそういう感情はあるのだけれど、勝手にそんなことないって決めつけられて、驚かれて、"らしくない"って言われるんだ」
「…………ごめん」
「だめ。許してあげない」
「え?」
誉は互い鼻先がくっつきそうなほど顔を近づけて言う。
「また泊まりに来てくれないと、許してあげない」
「なっ、子供かよ?!
…っておい、ちょっ…っ」
誉の鼻が、ツンとカイのそれに当たる。
同時に、カイは反射的に体をこわばらせて目を閉じた。
押し返そうと誉の胸に当てた手には力が入らなかった。
誉の吐息を間近に感じる。
心臓がやかましいほど高鳴っている。
目を閉じていても、誉の体温がすぐ間近にあるのがわかる。
流石のカイも、察した。
これは、まさか、もしかして…。
…が。
誉はそのままゆっくりとカイから離れると、くしゃりとその頭を撫でる。
そして、カイが目を開いた所で、
「期待した?」
とまるで茶化すように言い、ニコリと笑む。
瞬間湯沸かし器宜しく、みるみるうちに真っ赤になったカイにクックと笑いながら誉は続ける。
「まだ、お預け」
カイは腹が立ちすぎて誉から離れようと暴れる。
「期待なんか、してねーし!」
そして、そう言い返すのがやっとだ。
なのにまた誉はカイを逃さないとばかりにがっちりと抱き、耳元で囁く。
「カイがもう少し大人になったらね」
カイは脊髄反射で、"もう十分大人だし"と返しそうになったが、誉のにまにま顔を見てやぶ蛇かと思い留まった。
そもそも!
キスは付き合ってる同士がするものだし!
誉とオレは付き合ってないし!
………ん?待てよ、てことは。
オレが"もう少し"大人になったら、誉はオレと付き合いたいってことか?
「ま、そういうことだよ」
「は?オレ何も言ってねえし」
「けど、君が今思っていることの答えにはなってると思うよ」
既に誉はさっきまでの憂いた様子は無い。
結局のところ、からかわれただけなのだろうか。
面白くなくて、カイは誉を睨みつける。
一方で、いつも通り優しい眼差しを向けながら、ゆっくりと、そして愛おしそうにその頭を撫でるのだった。
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