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10.櫂とカイ①

誉はこの白いウサギのキャラクターが好きなのだろうか。 身支度をしながらカイは思う。 鍵についていたキーホルダーもそうだし、パジャマの真ん中にも大きく描かれていた。 そして今、誉が用意してくれていたというベストとサマーニットの帽子も同じキャラクターが描かれたワッペンがついている。 ワイシャツはともかく、このベストと帽子はどう見ても女の子用なのが気に入らないが、学校指定のジャージよりはマシなので贅沢は言っていられない。 「あはは、よく似合うよ。可愛いね」 「笑っちゃってるじゃねーか。 それに可愛いって言うな」 「いや、ホントに可愛いよ。 それ見た時、カイに絶対似合うと思ったんだよね」 カイは誉が嬉しそうに言うのをしかめっ面で見る。 多少背が低い自覚はあるが、自分はれっきとした男なのだ。可愛いと言われるのはあまりいい気はしない。 一方で、そんなことを誉に言っても相手にされないことがわかっているので、ふくれっ面のまま赤い眼鏡を手に取った。 そして息を吐き、吸い、もう一度吐き出した後、ゆっくりそれを掛ける。 瞬間、すっとその顔から表情が消えた。 「そうそう、特にそのベストがね、その眼鏡に合いそうだなあって思ったんだよ」 「そうですか」 誉は変わらない調子で櫂に言うが、その返事はそっけないものだった。 「また似合いそうなのあったら買っておくね」 「ありがとうございます」 誉はカイの返事から感情が薄れたことに気が付いたが、敢えて口調と表情を変えず続ける。 「パンケーキ、多めに作ったんだけど、持って帰る?」 問われた櫂は誉と目を合わせること無く下を向いた。 眼鏡を掛けた彼はこれを断るだろうと思ったが、予想に反して小さく頷いてくれたから誉はほっと安心する。 「よしよし、じゃぁ、櫂がお気に入りのシロップとフルーツも入れておくね」 「ありがとうございます。 それからすみません、マスクがあればお借りできますか。 変えを学校に置いてきてしまって」 それにしても、眼鏡の有無で完全に別人のようだ。 勿論誉はその変わりようを何度も見ているが、毎回新鮮に驚いてしまう。 この"差"は、今に始まったことではない。 眼鏡のない彼はどちらかと言えば粗雑で乱暴だが、眼鏡をつけた彼は見事に正反対だ。 櫂が置かれている環境から、誉も最初は解離性同一障害、所謂多重人格を疑ったが、いずれの時も記憶がしっかり残っているので、どうやら違うらしい。 ただこの眼鏡のオンオフによって、家族から望まれるあるべき姿の自分と、本当の自分、ニつの人格を切り替えていることは間違いない。 一方で、ほんの少し前までは、櫂は誉の前でも頑なに眼鏡を外そうとしなかったが、やっと二人きりでいる間だけは外してくれるようになった。 先程も、以前なら眼鏡をつけた状態では断ったであろう申し出を受けてくれた。 これは櫂が誉を信頼してくれている証だ。 素直に嬉しく思う。 そしてそれは櫂自身にとっても大きな進歩だ。 「ああ、マスクね。 あるよ、小さめサイズ」 「……ありがとうございます」 誉がマスクを手渡してやると、カイは僅かに眉を寄せながら頭を下げた。 ああ、茶化されて面白くないという感情が、少しだけ表情に出ている。 何を言っても全くの無表情だった頃に比べ、これもまた大きな進歩だ。 誉が微笑みながら頭を撫でてやると、カイは居心地悪そうに肩を竦めた。 「あれ、ちょっと日差しが強いかな?」 まだ昼前なのに、今日は天気が良すぎるのか少し日差しが強い気がする。 もうすぐ梅雨だ。 梅雨が終わると一気に季節は夏に向かう。 色素の疾患を抱える櫂にとっては、一番過ごしにくい季節が近づいてくる。 念の為、誉は手持ちの測定器で紫外線をチェックしながら問う。 「日傘を出そうか」 「今の数値なら、帽子で十分です」 誉の手の中のそれを覗き込み、櫂は頷く。 「日傘は、嫌いです」 そして被っていた帽子を更に深く被り直した。 「なら良かった。 実は駅まで歩いて、本屋に行きたいと思っていたんだ」 アパートを出て、ゆっくりと大通りに向かい歩きながら誉が言う。 「本屋さん」 「そう、欲しい本があるんだ。 駅前ならタクシーもたくさんいると思うしね」 「わかりました」 「それに櫂は本屋さん、好きでしょ」 「行ったことがないのでわからないです」 「えっ、行ったことないの」 「はい、無いで…わっ」 あまりにも意外で歩を止めると、背中に櫂がトンとぶつかった。 広めの歩道に出たので、今度は櫂を内側に入れて手を繋ぐ。櫂は一瞬驚いた顔をして手を引いたが、ぐっと強く握ると大人しくそのままついてきた。 見下ろすと恥ずかしそうに横を向き俯いている。 華奢で背が低い彼は、そうしているとまるで女の子のようだ。 いつもお付きの車で移動する彼と、外を一緒に歩ける機会はなかなかないので新鮮で楽しい。 「あんなに本が好きなのに、本屋さん行ったことがないのはちょっとびっくりだね」 「書庫に沢山あるので…」 「けど、新刊で読みたいのもあるだろうに」 「新しい本はあまり知らないのですが、もし欲しいものがあれば、母か爺…瀬戸に頼めば大抵のものは買ってきてくれますよ。 あと、兄も読み終えたのをよく回してくれます」 それを聞いてようやく誉は彼の極端な知識の偏りに合点がいった。 櫂が好きに選べる本は書庫に保存が許されている古書だけ。 そして彼の母親のことだ、仮に新書を買い与えるにしても内容を選ぶだろうし、航も敢えて"そういった"本を弟には渡さないだろう。 テレビやパソコン、タブレットの類は画面が眩しくて長く見ていられないので使えないと以前本人が言っていた。 それ故か、櫂が持っている情報機器は携帯電話しかない。それもかなり旧型のガラケーと揶揄されるもので、それすらも彼は通話とメールしか使い方を知らない。そもそもそのメールのやり方だって、誉が教えたのだ。 つまり、カイは得られる情報まできつく制限された状態で生活することを強いられている。 普通なら容易に取れる情報を彼が得ることは、とても難しい。 「そっか。 なら尚更行ってみよう。きっと楽しいと思うよ」 「けど、母に聞いてみないと…」 「俺と一緒なら大丈夫だよ」 「でも」 「大丈夫」 「……わかりました」 誉に押されてそうは頷いたものの、櫂は不安そうだ。 誉はもう一度その手を握り直し、何も言わず櫂の歩調に合わせてゆっくり歩く。 「わあ」 本屋に入るなり、櫂はそう息を漏らした。 先程の不安そうな顔から一転して目を輝かせ、店内をぐるぐると見回す。 「本がたくさんあります」 「まあ、本屋さんだからね」 駅前には本屋が数店舗あるが、ここが一番大きい。 通りすがりの棚のあらゆるところに店員各々のオススメを書いたポップやポスターが貼ってあるのだが、それがかなり物珍しいようだ。 「本屋さんの紹介ポップって良く出来てるよね。 つい色々読みたくなる」 「はい、本当に。 それに私、本屋さんてもっとこう、図書館みたいなものだと思っていました」 「ちなみに図書館は行ったことあるの?」 「学校のならよく行きます」 「それは一般的には図書室だね……。 図書館も割と学校から近いよ。 今度連れて行ってあげるよ」 「あ、見て下さい。 あの本は、先日、兄がくれたものと同じです」 櫂は誉の声がもう耳に入らない程、珍しくはしゃいでいる。 あちこちを見渡しては喜んでいる。まるで玩具屋に連れてこられた幼児のようだ。本当に嬉しそうだ。 「俺が買いたいのは決まってるから、その後、櫂のをゆっくり見ようか」 「私の?」 「そう、櫂の好きな本も買おうね」 櫂はそんなことは全然考えていなかったようで、目をパチクリさせた後に俯いたが、すぐにぎゅっと繋いだ手を握り返してくれた。 誉はそんな様子を微笑ましく思いながら見守っていた。

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