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11.櫂とカイ②
「誉先生は、どんなご本を探してらっしゃるのですか」
「専門書だよ」
三階フロアの一番奥が誉の目的地だ。
櫂は誉に手を引かれ歩きながら、興味津々といった様子でキョロキョロしている。
「それなりに値が張るし、大学の図書館でも借りられるからちょっと悩んでたんだけどね。
まあ、バイト代も入ったし、持っていてもいいかなと思って」
棚の一番上にあるその本を手に取りながら誉は言う。中を見せてやると、櫂は覗き込みながら眉を寄せた。
「全然わかんないです」
「当たり前だよ。
もし今の君がこれを理解できたら、俺はお役御免になってしまう」
眉を寄せる櫂の眼の前でそれを閉じて誉は笑った。
「けど、櫂ならきっとすぐに解るようになると思うよ」
「そうでしょうか。私、化学は少し苦手です」
「有機のところはちょっととっつきにくいよね、俺もそうだった。けど、コツを掴めば簡単だよ。
教えてあげるね」
「はい、ありがとうございます」
「さて、俺の用事は終わり。
櫂の本を探しに行こうよ。何かお目当てはあるかい?」
「えっ、私?いや、特に…」
「じゃ、ちょっとフロアを回ってみようか」
誉がそう言うと、櫂はまた俯いてしまう。
なので、誉はその手を一つ強く握り、
「櫂のお気に入り、一緒に探そう」
と声をかけてゆっくり歩き始めた。
櫂はそれに従うように歩を進めているが、表情は固い。
「あの、本当に私はいらないです」
「どうして?ここまで楽しそうに色々な棚を見てたじゃないか。
一つくらい欲しいのあったでしょ」
「いえ、あの、母に聞かないとわからな」
「お母さんは今関係ないよ」
「でも」
「大丈夫だから、ね」
母親に全てを与えられるがままに育ってきた櫂は、自分で何かを決めることがなかなか難しい。
けれど、思っていることはある筈なのだ。
誉はそっとその背中を押してやる。
「俺が、櫂にプレゼントしてあげたいんだ。
櫂が、初めて本屋さんで選んだ特別な本をね」
そう言ってやると、櫂は俯いたままぎゅっと誉の手を握った。
「……だったら、私」
「ん?」
「あの、私…」
それから櫂は、少し背伸びをして誉に顔を近づける。しかし身長差がありすぎて届かず、ぴょこぴょこと跳ねた。
それでようやく櫂が自分に耳打ちをしたいのだと気が付いた誉は少しかがんでやる。
すると櫂は小さな声で、欲しい本を教えてくれたのだ。
誉は微笑む。
顔を見るとすぐに反らされてしまったが、マスクをしていてもその顔が真っ赤なことが分かった。
「ちゃんと言えたね、お利口さんだ」
誉は櫂の頭を撫でた後、またごく自然に手を繋ぐと小説のコーナーへと向かう。
櫂もそれを受け入れて、誉の隣をついて歩いた。
「それに、別に恥ずかしがらなくてもいいと思うよ。間違いなく名作だよ」
「前に兄さんに馬鹿にされたんです。
そんなの、子供が読む本だって」
「作品の良さに大人も子供も関係ないよ」
小説は二階フロアだ。
お目当ての本は比較的直ぐに見つかった。
「文庫版とハード版があるみたいだけど」
「文字が大きい方がいいです、読み易いので」
「わかったよ。じゃあ、こっちだね」
棚の上の方からそれを取って手渡してやる。
櫂は受け取って、大切そうにそれを両手で持ち、
「ありがとうございます」
と、嬉しそうに言うと頭を下げた。
二人は会計を終えて、店を出る。
折角だからと包んでもらった本を、櫂は嬉しそうに抱えている。珍しくご機嫌な様子だった。
「さて、後は帰るだけだけど…珈琲でも飲んでからにしない?」
誉が本屋の隣りにあるコーヒーショップを指差す。
若者中心に人気の店だが、勿論櫂が知るはずもなく、首を傾げた丁度その時、
「あ、ホマちゃんじゃん!」
「え?どこどこ!ホントだ〜!」
その店から数人の若い男女4人組が出てきた。
櫂は思わず誉の後ろに隠れる。
見上げた誉の眉間には、深く皺が刻まれていた。
恐らく誉の知り合いなのだろう、彼らは揃ってこちらに寄ってきた。
「こんな所でどうしたの?珍しいね〜」
「今日バイトないの?
なら、これから俺等と来ねえ?」
「うんうん、ホマちゃんも行こうよ」
どうやら誉の知り合いで、これからどこかに出かけるらしい。
派手な格好をした女子二人がそれぞれ誉と腕を組んで引っ張る。
それと同時に後ろに回った男子が、
「あれ?このコ誰?」
と声を上げた。
櫂は反射的に2歩退いてしまう。すると誉との間に彼は体を滑り込ませ、ますます櫂の顔を覗き込んで来るのだ。
「わ、めっちゃ色白…っ。
赤いカラコン似合うね、病み系なの?」
その顔が近づいて来るのが怖くて櫂はぎゅっと目を瞑った。
「離れろ」
その瞬間、誉の低い声が響く。
櫂は聞いたことのない、低い声だった。
誉は目の前の男の肩に明らかに強く自分のそれをぶつけ櫂の前に入り直す。
そして、まるで王子様のようにすっと跪いて
「怖かったね」
と頭を撫でてくれた。いつもの優しい声だった。
しかし櫂はまだ動悸が止まらず、何も言えない。呼吸が乱れ、ひゅっと肺が鳴った。
すると誉は眉をしかめた後、今度は抱き寄せ、背中を撫でてくれる。
「え、ちょっと待って、見せつけてくるじゃん」
「もしかして、本当に誉の新しい彼女?」
「えっ、ホマちゃん、また彼女変わっ…ムグッ」
「佐々木ちゃん、シッ。デリカシー無いよ」
「卯月の彼女っていつも可愛いよなあ。
俺たちにも紹介してよ」
「てか、今回若いね〜。幾つ?」
四人が誉の背後で口々に騒ぎ盛り上がり始める。
その瞬間、
「……チッ、うるせえな」
と、誉が発したそれを櫂は聞き逃さなかった。
だからまた驚いて、その胸から顔を上げた瞬間、誉は櫂から離れて立ち上がる。表情は見えない。
そして誉は口調だけは穏やかにこう言った。
「君たち、目障りだから散ってくれる?」
言われた彼らも一瞬状況が掴めなかったのか、しんと静まる。
その後、
「どうしたの誉ちゃん、怒った?」
「ノリ悪いよ〜」
「そうだよ、そういうの良くないよ〜」
と、彼らは慌てたように言っていたが、誉は完全に無視をして櫂の方を向いた。
その顔はいつも通りの優しい誉だ。
「行こうか、櫂」
誉はそのまま怯える櫂の手を取り、ズンズンと歩き出した。
背後で何か言っている声が、少しずつ遠ざかった。
「先生…っ」
ぎゅうぎゅうと引っ張られて、更に誉の歩調で歩かれると櫂は次第に遅れ追いつけなくなる。
「ほま、せんせ…っ、わっ」
そして彼らの声が止み、櫂の息が切れて、その足がもつれかけた時。
誉が急に立ち止まったから、櫂は額をその背中にぶつけてしまう。
そのままよろけて尻もちを着く寸前に、誉はすっと櫂を引き寄せてから抱き締めた。
「ちょっ」
途端、周囲からの視線が集まる。
それでも誉は気にせず、更に櫂を強く抱きしめた。
ただでさえ人に注目されるのが苦手な櫂は縮こまる。恥ずかしくて消えてしまいたい程だ。
そんな櫂に構わず、誉は気が済むまでそうした後、櫂の目を真っ直ぐに見ながら優しく声をかけた。
「大丈夫だった?怖かったよね、辛かったよね」
かと思うと、今度は低い声の早口で続ける。
「あいつら、俺の櫂に酷いことを。
絶対許さない。消す。確実に消す。社会的に消す」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って!」
櫂は誉の変わりようにともかく驚いてしまって、周りの目も忘れ誉の頬を両手でバチンと叩いた。
「先生、落ち着いて」
すると誉はハッとした様子で、気まずそうにカイから視線を外す。
「……頭に血が上ってたみたい」
「そうですね。あと、離して下さい」
「もう少しこうしてたいけど」
「誉先生」
「わかったよ」
やっと誉が落ち着いてくれたので、櫂は安心して右手を差し出す。
誉は少し驚いた顔する。
その瞬間、当たり前のように手を繋ごうとした自分の無意識な行動に気づき、櫂は顔を赤らめてしまったが、手を引く前に誉は嬉しそうに笑んでそれを取った。
そうして、また二人はゆっくり歩き始めたのだが、櫂は一つ心配な事があったから勇気を出して問うてみた。
「あの、さっきの、お友達だったんでしょう?
大丈夫なんですか?」
「違うし、大丈夫だよ」
対し、誉の態度は素っ気ない。
「彼らとは、実習のグループが同じなだけ」
「えっ、それってまずくないんですか?」
「何で?」
「だ、だって一緒にこれからも実習するんでしょう?仲間はずれにされたり、気まずくなったりしないんですか?」
「あはは、そんなことないよ」
そして誉は不敵に笑んだ。
「俺が見捨てたら、彼らは単位取れないからね」
それから誉はスマフォを尻ポケットから取り出すと、画面を櫂に向ける。
「ほら見て、さっきから電話がずっと鳴ってる」
確かにそれは、着信画面だった。少し待つと一度切れたが、また鳴り始める。
「けど、まあ、もういいか」
「え?」
誉は櫂の前からスマフォを引き上げて、トントンとその背を人差し指の腹で叩きながら言う。
「こいつ等は、もう要らないかな。
だって、もし櫂が医学部に入ってくれたとしてさ、こいつ等がいたら嫌でしょ?
こいつ等のせいで櫂が学校に来たくなくなっちゃうなんて、俺、そんなの嫌だよ」
「いや、いや、ちょっと待って下さい」
櫂は焦る。誉の様子がおかしい。
「櫂が嫌なものは、全部俺が駆逐してあげるから大丈夫だよ、安心してね」
いや、全然大丈夫じゃないし安心もできない。
確かに先程はとても驚いたが、大したことではない。あんなことで、そして自分のせいで、あの四人の未来が奪われて良いわけがない。
櫂は考えて、考えて、そして何とか誉に伝えようと声を張る。
「さっきは、私が驚きすぎたのもいけなかったと思います。
だから、その、そんなに怒らないで下さい」
「櫂」
「あと、誉先生が守ってくれたのも、相手を怒ってくれたのも、凄く嬉しかったです。
だから、私、もう大丈夫です。
誉先生が一緒に居てくれたから、大丈夫です」
櫂のその言葉で、ようやく、ようやく誉は本当に溜飲が下がったようだった。
そして、櫂を愛おしそうに見つめながら言う。
「櫂は優しいね」
それから鳴り続けるスマフォに向き直り、着信を取った。
一方で櫂は、誉の手をぎゅうと握り締めながらその様子を心配そうに見守る。
「はい。ええ、もう別に怒っていないです。
そうですね、やり過ぎですね。
はい、今回はもういいですよ」
誉の声色は、いつもと変わらない。
スマフォの背を指でトントンもしていない。
櫂はほっと息を撫で下ろした、が。
「けれども、次はもうないです」
最後の背を電話を切る間際のその声がぞっとするほど冷淡で、櫂は背筋がひゅんと冷たくなった。
しかし当の誉は、櫂の手を握り返し、さっきとは打って変わってご機嫌に微笑んでいた。
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