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12.櫂とカイ③

他のカフェに行ってみようかと誉は提案したが、"あの事"があったからか、櫂は首を縦には振らなかった。もう目立ちたくないのだと言う。 櫂はとても臆病だ。 少しでも外が怖い場所だと認識してしまったら、また巣に閉じこもってしまう。 無理強いは良くないかと、誉は今日は引き下がることにした。 タクシーの後席に並んで座りながら、誉はちらりと櫂を見る。 先程のことで沈んでないかと心配だったが、意外にもそうではないらしい。 大切そうに本を抱えるその表情は、明るい。 誉はほっとしながら話題を振る。 「櫂がその本を持っていないのは意外だったな」 「そう…ですか?」 「うん。 一般的に有名な作者の本は全て読破してそうだから、とっくに持ってると思ってた」 「私がいつも読んでいる本は、書庫の本です。 そして書庫の本は、私の本ではありませんから…」 「え、いつも部屋に本が沢山溢れているけど、あれも全部書庫のなんだ?」 「はい。後は兄から譲ってもらった本か少し」 「櫂が欲しくて買った本はないの?』 「無いです。この本が初めてです。 これは、私が一番好きな本です。 だから誉先生がプレゼントしてくれて、本当に嬉しいです。大切にします」 誉はそんな櫂がいじらしくてたまらくなる。 御曹司と呼ぶに相応しい彼なのに、たった千円ちょっとの好きな本をやっと手に入れて、大切に抱いているなんて、あまりにも切な過ぎる。 「また本屋さん、行こうね」 誉は櫂に言う。 「他にも、色んなところに行こう。櫂が好きなもの、一緒に沢山見つけようね」 そう言われた櫂は、誉を見上げて目をパチクリとさせた後、少しはにかんだような顔をして「はい」と答えてくれた。 車が郊外に出て少し走ると、所謂高級住宅街へと入る。 奥に行けば行くほど敷地面積が広くなるのだが、櫂の実家は一番奥、そして一番広い邸宅だ。 そして自宅が近づくに連れ、櫂から言葉と表情が消えていった。 タクシーが如月邸の門の前で一度停車する。 古く立派な門構えの向こうにうっすら見える建物が母屋だが、これが見た目以上に距離がある。 この名家は有名なので、心得ているタクシー運転手は何も言わずとも門の中まで車を乗り入れてくれる。 門前の警備員は、後部座席に櫂の姿を確認すると、深く頭を下げた。 一方で、櫂はそれに目を合わせようともしない。 門を越えるといよいよ櫂の表情が険しくなったから、誉はその手を握ってやった。とても冷たい。 車は母屋の手前にある噴水前の広場に停められた。 初老でスーツ姿の男性が控えており、頭を下げた。 運転手も車からわざわざ降りて、彼に頭を下げた。 その隙に誉もまた先に車を降り、最後の櫂が降りるのを助けてやった。 「坊ちゃま、お帰りなさいませ。 卯月様、お世話をおかけいたしました。 いつもありがとうございます」 「いえいえ、瀬戸さん、頭を上げて下さい。 恐縮です」 瀬戸は、総白髪だが背筋はピンと伸び、品のいいお爺さんと言った感じだ。いつも質よく仕立てたスーツ姿だが、気取らず粋がある。 彼は櫂専属のお付きで、幼少の頃からその生活全般のサポートを担ってきた。 それ故に、この屋敷で櫂が唯一気を許している人物であり、また良き理解者であった。 「爺、母さんは?」 「奥様はただ今留守にしておられますが、夕方には戻られるご予定ですよ」 「わかりました」 少しだけ櫂の顔が和らいだのを誉は見逃さない。 とはいえ、今の自分に何かしてやれるわけでもないので、そのまま瀬戸に持っていた荷物を渡してた。 「あ、タクシー、丁度いいや。 俺そのまま使うからそこにいてくれ」 と、その時屋敷の方から声がした。 直ぐにその主は姿を現す。長男の航だ。 彼はエントランスから続く階段を降りすがな、誉を見つけると人懐っこく笑いながら言う。 「誉?ああ、櫂を送ってくれたのか。 いつも悪いな。 こいつワガママだから大変だっただろ」 「そんなことないよ。櫂くんはとてもお利口さんだし、一緒に過ごせて僕も楽しかったよ」 「ホントにお前ってやつは……いや、まあいいや。 ともかく、ありがとう」 そして次に櫂に向くと、強い口調で諌める。 「櫂、お前は突然押しかけて、誉の迷惑も考えろ。嫌われても知らねえぞ」 そう言われた櫂はビクリと肩を震わせて、慌てた様子で頭を下げた。 「ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした、誉先生」 「こら、航、そんな意地悪言わないんだよ」 誉は航を諌めて跪くと、櫂の肩を撫でて、 「迷惑なんかじゃないし、嫌いにもならないからね。 航が言うことなんて本気にしちゃだめだよ」 と、その顔を覗き込んで言ってやった。 今にも泣き出しそうな顔だった。 「誉も木下教授に呼ばれてんだろ。 ついでだから、一緒に行こうぜ」 「あぁ……」 「お前まさか忘れてたんじゃねぇだろうな」 「いや、覚えてるよ。 どうしようかなとは思ってたけど」 「教授に呼び出されてんだ、行く一択だろ」 「いや、行ったらまた面倒事押し付けられるでしょ、絶対」 「意外と不真面目なんだよな、お前。 いいから行くぞ」 「君は真面目過ぎるよね。 はあ、わかったよ」 誉は立ち上がると、もう一度、今度は櫂の頭を撫でた。 「また火曜日、いつもの時間に来るね」 「はい」 「さっき約束した通り、化学にしよう。 後で課題を瀬戸さんにメールするから、やってみてね。出来るところだけでいいからね」 「わかりました」 先にタクシーに乗っていた航は、窓越しに二人の様子をチラリと見、口元を緩めて目を細めた。 二人が乗ったタクシーが門を出ていくのをいつまでも見送っていた櫂に、瀬戸は声をかける。 「坊ちゃま、中に入りましょう。 ここは少し日差しが強うございます」 それでも櫂が動こうとしなかったので、背中を軽く押して促した。 するとようやく櫂は歩き始める。 その姿を見つけた使用人がエントランスの扉を開いて頭を下げたが、彼は見向きもしなかった。 吹き抜けのエントランスには赤い絨毯が張られ、高い天井からは、大きなシャンデリアが下がり輝いていた。そして、その中央にから伸びる大階段が二階へと続いている。 向かって右が主に家族の居住地、左側は客人用のエリアとなっている。 櫂は1番階段側の自分の部屋に真っ直ぐ向かった。 彼の自室はコネクティングルーム仕様になっており、ベッドルームとリビングエリアに分かれている。 小さなバルコニーがあるが、それに通じる窓は開かない。母が危ないからとはめ込みにしてしまったからだ。 櫂がソファーに腰を下ろし、息をついた所で瀬戸が言う。 「お召しになっているお洋服をお着替えしましょうか。とてもよくお似合いですが、奥様のご趣味には恐らく合いませんから」 「そうですね。 いいですよ、捨てても」 「本当によくお似合いですし、卯月様が選んでくださったお洋服でしょう。 爺が大切にお預かりします」 「わかりました。 ……少し、休みます」 「かしこまりました。 昼食はいかがなさいますか?」 「朝食が遅めだったので、不要です」 「では、お休みの後、軽食とお薬をお持ちしますね」 「わかりました」 瀬戸が出ていくや否や、櫂は眼鏡を外す。 それをセンターテーブルに放り投げると、足を投げ出しソファーに横になった。 そして背の下から、誉から貰った本の包みを出す。 彼にしては丁寧にラッピングを解くと、天井に向かいそれを掲げて、表紙をじっと見つめる。 中を見るわけでもなく、そうやって暫くの間表紙を眺めていると、突然、猛烈に口寂しさを覚えた。 下唇を噛んで何とかやり過ごそうとしたが、その欲求は膨らむばかりだ。 「タバコ吸お…」 そう呟いて尻ポケットを探ったが、何もない。 それもその筈だ。 「しまった、誉の家だ。 まだ他に残りあったかな…」 独り言を言いながら、学習用にしている机の引き出しを開けた。 アンティーク調の小洒落た外見に反して、引き出しの中はぐちゃぐちゃだ。 参考書や学校の教科書の更に奥に、目的の小さな箱が見えたから、カイはそれをむんずと掴む。 中を見ると三本だけ残っていた。 しかも運がいいことにライターも入っている。 カイはその一本を咥えながら窓際へと向かった。 いつもは書庫の裏まで行くのだが、今はそんなの待っていられない。 カイは小さな換気用の窓を開けながら、慣れた手つきでライターに火を灯し煙草の先端に近づける。 するとふと、 "俺は君が苦しむのは嫌だよ" と、カイの脳裏に、誉の言葉が浮かんだ。 "だから俺のためと思って、今日は本当にやめてよ、ね?" その瞬間、急に胸のつかえが気になって、カイはケホンと小さく咳払いをした。 「クソ」 カイはそう呟くと、ライターの火を消して咥えていた煙草を乱暴に箱に収める。 それをまた机の引き出しの最奥へと押し込んで、グシャグシャと頭をかいた。 それから眼鏡をかけ直し、センターテーブルの上にある電話機を取り、内線のボタンを押す。 『はい、坊ちゃま。どうかなさいましたか?』 「やっぱり、先に軽食を取ります」 『かしこまりました。直ぐにご用意致します』 「誉先生のカバンに、パンケーキが入っていたでしょう?それを、食べます」 『かしこまりました』 櫂は電話を切ってふうと息をつくと、ベッドルームに向かう。 そして、ベッドの上に置かれた服に着替え始めた。 誉が選んでくれた明るく可愛らしい服とは違う、モノトーンでシンプルな、母好みの服だった。

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