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15.如月兄弟①

航は帰宅するや否や、ヒステリックな母の叫び声が耳に飛び込んできたから、心底辟易とした。 エントランスホールまでハッキリと聞こえるその声に、使用人たちも落ち着かない様子でその方を向いていた。 今日の震源地は、櫂の部屋のようだ。 そして航が自室に戻るためには、必ずその前を通らなければならない。 彼はムカムカする気持ちを抑えながら大階段を登り、櫂の部屋を通り過ぎた。ドア越しに母が喚いている声が聞こえたが、自分には関係ないと言い聞かせる。 が、自室のドアノブに手をかけた瞬間、物が割れるような大きな音が響いたので、反射的に振り返ってしまった。 大きなため息をつく。 「…ああ、ったく」 そしてワシャワシャと乱暴に髪を掻きむしって踵を返す。 「何騒いでんだよ、うるせぇぞ!」 航は敢えて乱暴に弟の部屋に押し入り、母に負けぬ程の大きな声を出した。 突然の外部者の乱入に、予想通りシンと場が静まり返る。 その隙に航は室内の状況を確認する。 航の予想以上に凄惨たる状況だった。 床には割れたティーセットが散乱しており、弟は尻もちをつく格好で母を見上げたまま固まっている。 その右頬は赤く腫れ、目の前にはレンズが割れてフレームがひん曲がった赤い眼鏡が落ちていた。 また、櫂の着衣は乱れており、ニットベストの首元が不自然に伸びて歪んでいるのが痛々しい。 「航ちゃん!もう櫂ちゃんてば酷いのよ!!」 母は航を味方だとでも思ったのか、そう叫び胸に泣きついてきた。 それを心底嫌そうな顔で突き返し、航は話が分かる瀬戸の方を向き、何があったのだと問い質す。 「ええ…」 しかし、その返事は彼にしては珍しく歯切れの悪いものだった。 航は櫂と母を交互に見やった後、続けて強い口調で言う。 「何だよ、俺には言えないことか?」 「いいえ、実は」 「聞いてよ航ちゃん!櫂ちゃんてばね!」 すると瀬戸の言葉を遮り、母がまた大声で涙ながらに、そして力いっぱい叫んだ。 「櫂ちゃんてば、もうママとお風呂に入らないなんて言うのよ!!!」 その余りにも、余りにもくだらない母の訴えに航は言葉を失った。 自分の母親の馬鹿さ加減が俄に信じがたく、思わず瀬戸の方を見た。 瀬戸は目を伏せて、ゆっくり頷いた。 「……マジか」 航の口からやっと出た言葉はそれだけだったが、母は長男が自分に同調してくれたと捉えた様だ。 「本当なのよ!ね!酷いでしょ、酷いわよね! 櫂ちゃんがこんな悪い子になっちゃって、ママってば本当に可哀想よね!」 と、声高く続ける。 そうして再びすがりついてきた母の腕を払い、航は頭を抱えた。 「いや、当たり前だろ。 こいつもう高校生だぞ、母親と風呂に入りたがるわけねえだろ。 てか、え?ちょっと待て。 今までマジで一緒に入ってたのか?」 「そうよ!櫂ちゃんが一人でお風呂なんか入れるわけないじゃない! 大体息子がママとお風呂に入って何が悪いのよ!」 「馬鹿か。悪いに決まってるだろ。 お前頭おかしいんじゃねえのか?」 「まあ!航ちゃんてばママに使ってなんでこと!おじいちゃんに言いつけてやるんだから!」 「あーもう勝手にしろ、馬鹿らしい。 首突っ込んで損した。 おい櫂、お前もお前だぞ。 何でもっと早く、ちゃんと言わなかっ……、櫂?」 そこで航は櫂の異変に気がついた。 目を大きく見開いたまま、小刻みに痙攣している。 肩を上下させながら、すう、すうと大げさに、しかし普通ではあり得ない速さで息を吸い込む音が聞こえた。 航は誰よりも早く櫂に駆け寄る。 その肩を抱き揺らしてやるが、櫂は反応することはなく口を半開きにしたまま首元を抑えた後、苦しそうに胸をかきむしってもがいた。 そして櫂はまた息を吸う。何度も吸う。 「櫂、違う、吸うな。吐け、吐くんだ」 航は櫂の背中をゆっくり押しながら、努めて優しく声をかけた。 「な、なによ急に…」 一方、櫂のただならぬ様子にたじろいた母がそう叫ぶ。 「櫂ちゃん、なにそれ。 怒られた当てつけでやってるの? ちょっとそんなのやめなさい、気持ち悪」 「奥さま」 それに続くであろう暴言を遮ったのは瀬戸だった。 「奥さま、本日はもうお引き取り下さい」 そして兄弟と母の間に入り頭を下げる。 「はあ?貴方、使用人の癖に生意気ね、どきなさい」 「いいえ。お引き取り下さい」 「ちょっと!航ちゃん、こいつ何とかして!」 「お引き取り下さい」 瀬戸はそう言って頭を下げたまま微動だにしなかった。 もちろん息子たちは母の横暴な要求を聞くわけもなく、とうとう敵わないと判断したのか、 「そう、そうやって私を皆で悪者にするのね! なによ、航ちゃんも櫂ちゃんも大嫌いよ! ママ、もうあんたたちのことなんか可愛がってなんかあげないんだから! それに貴方、覚えてなさいよ。 お義父さまに言いつけて辞めさせてやるから!」 と、彼女は言い捨てて逃げるように部屋を出た。 「坊ちゃま」 瀬戸は踵を返し、櫂に駆け寄る。 「大丈夫だ、呼吸が整ってきた」 櫂は航の腕に抱かれて、大分落ち着いたようだった。 「櫂、ほら、"兄さん"の真似をして。 ゆっくり吐く、そうだ、上手だよ。 そうしたら今度は吸う、焦るなよ」 櫂は苦しそうにはしていたが、何とか航の言う通りに呼吸を合わせようとしている。 その様子を見て、ようやく瀬戸はほっと胸をなでおろした。 航がぐっと腹を押すと吸い、離せば吐く。 それを焦らぬよう、声をかけながら更に十五分ほど繰り返すと、ようやく櫂は"戻って"来た。 「もう大丈夫だな?」 航にそう問われると、弱々しくだが頷く。 「ごめんなさい…」 「謝ることじゃないさ」 航はゆっくり櫂の体を抱き上げ、ソファーに下ろしてやる。 櫂は直ぐに膝に肘をついて、頭を抱えた。 それから、 「かあさんは…?」 と、震える声で問う。 過呼吸の発作により、櫂は途中から話を聞けていなかったようだ。 そして、母の暴言を聞かずに済んだのは不幸中の幸いだったと航は思った 「奥さまは、お部屋に戻られましたよ」 瀬戸が櫂の背を撫でながら穏やかに言う。 「……オレ、かあさんに、謝らなきゃ」 櫂はそう言うと顔を上げ、ソファーから立ち上がろうとした。しかしまだ体に力が入らないのか、ぐらりとよろける。 「まだ動いちゃ駄目だ」 「いやだ、かあさんのとこに、行く」 引き止める航の腕を遮って、櫂は再び立ち上がろうとするが、やはり上手く行かない。 とうとう航がその肩を抱き、無理矢理ソファーに座らせて抑えつけると、 「いやだ、いやだ」 櫂は駄々をこねるように暴れ始めた。 「坊ちゃま、明日にしましょう」 「明日やだ、母さん、すごく怒ってた。 早く謝らなきゃ、謝って、許してもらわなきゃ」 抵抗しながら櫂は徐々にまた興奮していく。 「櫂、落ち着け」 そんな航の言葉は耳に届かず、その腕から逃れようともがき、 「母さん、母さん!」 と、必死に母を呼ぶ。 そしてその瞳がポロリと一雫溢れたのを皮切りに、櫂は大きな声を上げ、まるで幼児のようにワンワンと泣き始めた。 航はそんな櫂の様子に言葉を失った。 母子の関係がここまで歪なまま育っていたという事実を目の当たりにして、ただただショックだった。 母は勿論おかしいが、こんなに取り乱し泣いて母親を欲する弟もまた普通ではない。 今日の風呂の話は、きっと親子の普通ではない関係を示す氷山の一角に過ぎないのだろう。 一方で、瀬戸は冷静であった。 「坊ちゃま、さあ。今日はもう休みましょうね」 まるで幼児にそうするように櫂の頭を撫で、涙を拭ってやった。航が手を緩めると、そのまま櫂を引き寄せて、器用に縦抱きにして立ち上がる。 櫂は瀬戸にしがみついて、その胸に顔を押し付け声を上げて泣いている。 泣きながら何かを言っているが、到底聞き取れない。それでも瀬戸はその背を撫でながら、丁寧に話を聞き、頷いてやってきた。 そしてベッドルームに入る直前、瀬戸は航の方へと向き直り、 「ありがとうございました。 若さまのお優しいお気遣い、坊ちゃまもきっと救われる思いであったかと存じます」 と、頭を下げた。 ベッドルームから、また一段大きな泣き声が聞こえた。それを聞きながら、航は床に落ちていたティーセットと、眼鏡の残骸を拾い出した。 恐らく母が怒りに任せ投げつけたのだろう。そう思うと、本当に情けなかった。 航がカフェテーブルに拾い上げたそれらを並べ終えた頃、ようやく櫂の泣き声が聞こえなくなったことに気がつく。 ベッドルームの方を見やると、丁度電気が消されたところだった。 ということは、ようやく櫂は落ち着けたのだろう。 航は安堵の息を吐いた後、静かに部屋を出た。 そして自分の部屋を通り過ぎ、そのまま母の部屋の方へと向かう。 はたとカイは目を開いた。 周りが真っ暗で、一瞬焦る。 いつの間にか眠ってしまったていたようだった。 そして、直ぐに先程のことを思い出して気持ちが落ち込んだ。 いつもそうだった。 母は自分の思い通りにならないとああやって激昂する。そんな事は、よくわかっていたはずなのに。 何で母の意に沿わないとわかっていたのに、正直に自分の思いを話しまったのだろう。 明日、きちんと母に謝らなくては。 何でも言うことを聞く、いい子になると約束をする。そうすればきっと母も許してくれるはずだ。 多分、許してくれるはずだ。 そこまで考えて、自分の人生は一体何なのかと急にカイは虚しさを覚えた。 心を殺して母に従うだけのこの人生に、何か意味はあるのだろうか。 その時、唐突に櫂はまた異常な程の口寂しさを覚えて下唇を噛んだ。 何かを口に含みたいと思ったが、手元には何もない。 煙草とも思ったが、体が酷く怠くて向こうの部屋まで行くのが億劫だった。 仕方なく人差し指の第二関節に噛みついてみた。 しかし欲求は消えるどころか膨らむ一方だった。 息が吸いにくい。カイは焦る。 何かないか、何か。 櫂はサイドテーブルの上を手探りで探す。 すると、手にごつりと何かが当たった。 掴んで引き寄せると、それはカイの携帯電話だった。 そしてそれを見た瞬間、カイは思ってしまった。 "誉の声が聞きたい" カイは、携帯電話を開く。 周りが暗いせいか、バックライトの光に目がくらんだ。それでも負けじと目を細めながら画面を見つめ操作をする。 最初、電話をかけようとしたのだが、もし出てもらえなかったら本当に心が折れてしまいそうな気がしたので、寸前で止めた。 たから、メールを打った。 そしてそれを両手で握りしめながら、布団の中で、小さく丸くなった。

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