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16.如月兄弟②
手の中の携帯電話が、突然震え出した。
カイは掛け主の確認もせずに通話ボタンを押して耳に当てる、と。
『もしもし、カイ?』
一番聞きたかった声だ。
その瞬間、鼻の奥がツンと痛くなって、図らずしもカイはボロボロに泣いてしまった。
『カイ?どうしたの?泣いてるの?』
ちゃんと話したいのに、口から出て来るのは嗚咽ばかりだ。
『……焦らなくていいからね』
誉は察してくれたのかそう言うと、少し黙った。
カイはしゃくりあげながら涙を拭き、何とか誉と話をしようとする。
が、上手くいかなくてそれが情けなくて、また泣けてきてしまう。
すると、誉が口を開いた。
『今日さ、すごく月が綺麗なんだよね』
その言葉に、カイは顔を上げる。
確認しようと思ったが、窓にはカーテンが掛かっていて、外の様子は分からない。
相変わらず体は重かったが、そこの窓までなら行ける気がした。
だからゆっくりベッドから降りると、窓の方へと向かう。
そっとカーテンを開いて窓越しに夜空を見上げてみた。
ところが夜空は黒く曇っていて、全く月なんて見えない。
けれども、カイは直ぐに誉に返した。
「そうだな。もう、死んでもいいや」
誉がふっと息を吐いた音が聞こえた。
『さすが文学少年』
「………からかったのか?」
『んーん、君と見るから綺麗なんだろうね』
カイは今更ながらに顔が赤くなるのを自覚しながら、窓の下に腰を下ろした。
そんな話で気持ちがほぐれたのか、いつの間にか涙が止まっていた。
通話の音をよくよく聞けば、誉は歩いているのかもしれない。息遣いが、何となくそんな感じだ。
だからカイは問うてみた。
「いま、外?」
『うん、バイトの帰り』
ということは、アルバイトが終わって直ぐに電話を掛けてくれたということか。
そう思うとカイは思わず嬉しくなって、顔が綻んでしまう。
『昼間は教授の手伝いしたし、バイトはこんな時間までかかったし、流石にちょっと疲れたなと思ってたんだけど。
カイの声聞いたら元気が出たよ。
メール嬉しかったよ、ありがとうね』
「いや、オレも誉の声聞きたかったから…」
すると、電話口で誉が深く息を吐いた音が聞こえた。
そこから少し沈黙が続いたので、俄にカイは不安になる。
顔が見えない分、電話は相手の真意がつかみにくい。
本当は迷惑だったのではないだろうかなんて思ったりして、どう会話を繋げていいかわからずカイも黙った。
『やっぱり、だめだなあ』
それから少しして、誉は溜め込んだものを吐き出すようにゆっくりと言った。
『声を聞いたら、君の顔を見たくなってしまった。会いたいよ、カイ』
その瞬間、カイは胸にあったつかえが急に取れた気がした。
もとより父と兄からは厭われている。
祖父もあれだけ厳しいのだからそうなのだろう。
祖母は論外だ、一度も会ったことすらない。
だから、これまで自分は母にすがるしかないと思っていた。母に嫌われたら終わりだと思っていた。
しかし、カイは気がついた。
そして期待してしまった。
もしかしたら、自分には母だけでは無いのかもしれない。
先程の会話を思い出す。
そしてカイは、勇気を出して誉に聞いてみることに決めた。
もし期待だけして後で違うと打ちのめされるなら、今ハッキリさせた方がマシだと思った。
「誉、あのさ…」
『なぁに?』
「さっきの…」
『さっき?』
「そう、さっきの。
本気にしても、いい?」
誉がふ、とまた息を吐く音が聞こえた。
そして今度は直ぐに彼は答えてくれた。
『俺はいつだって本気だよ』
誉が期待通りの答えをくれたから、不意にカイは泣けてきてしまって、ぐずぐずと鼻を鳴らす。
その音を誉に聞かれたくなかったのでこらえようとしたが、上手くいかず今度は嗚咽を漏らしてしまう。
誉は続けて言った。
『大丈夫、俺がいるよ』
そんな事を言われたらもうとうとう駄目で、カイはまた声をあげて泣いてしまった。
誉はそれ以上何も言わず、電話を繋いだままにしておいてくれた。
そしてカイはそれが、唯一の救いのように思えた。
翌朝。
瀬戸が眉間に皺を寄せて体温計を睨んでいる。
「床で寝たりするからです」
「……うう」
あの後誉とずっと電話で話をしていて、気がつけばそのまま寝てしまったのだった。
瀬戸が様子を見に来たときには時既に遅しで、カイの体は冷え切ってしまっていた。
そして迎えた今朝、見事に発熱したというのがここまでの流れだ。
ついでに持病の喘息も芳しく無く、時折咳が止まらなくなる。
そんな訳でカイは瀬戸に怒られるし、いつもより多く薬を飲まさせられるしで散々な朝だった。
しかし一方で、昨日より気持ちは落ち着いている。母に謝らなければと言う焦燥感も殆どなくなっていた。
それは、昨夜の誉の存在が大きい。
だから確かに体は怠かったが、カイの心は穏やかだった。
「明後日までにお熱とお咳がよくならなかったら、卯月さまの授業もキャンセル致しますからね」
「えっ、やだ、絶対やだ」
「でしたらきちんと食事を取って、大人しくお休み下さいね」
「うう…」
瀬戸がオーバーテーブルに並べる朝食をカイは渋い顔で見る。
「オムレツ固そうでやだ、半熟がいい」
「胃腸も弱っているので駄目です」
「うへぇ」
瀬戸はピシャリと言ってのけると、ベッド横においてある椅子に座りこんだ。
カイが食事をちゃんと食べるように見張るつもりらしい。
カイは居心地の悪さを感じながら、渋々スープを口にする。誉が作ってくれたものの方が口に合うと思ってしまったから、ますます食が進まない。
そうしていると、向こうからドアをノックする音が聞こえた。直ぐに瀬戸が確認に行く。
「何だよお前、今度は熱出してんのか?」
するとすぐにそんな呆れた声とともに兄がベッドルームに入って来た。
カイはスプーンをくわえたまま横を向く。
また意地悪を言われるのが嫌で、そのまま押し黙った。
航は椅子に腰を下ろし、カイに手を伸ばす。
一瞬ぶたれるかと思ったカイがギクリと体を強張らせたので、航はため息をついた。
しかしそのまま彼はカイの額に触れる。
そして次に兄の大きな手は、弟の右の頬をなぞった。
「頬はそんなに腫れてないか、良かったな。
熱は……それなりにあるな。咳は大丈夫か?」
「えっ、あ、…うん、いや、はい」
「大事にしろよ」
「は、はい…」
「………」
航が眉間に皺を寄せてこちらを見ている。
カイは怖くて仕方がない。
昨日のことをまだ怒っているのだろうか。
しかしカイの予想に反して、兄がかけてくれた言葉は優しかった。
「夕べさ、母さんに一応俺からも話はしておいた。少なくともお前を殴っちまったことは反省させた。風呂のことは正直伝わったかわからん。
けど、またなんか変なこと言ってたら俺に言え。わかったな」
「う、うん…わかった」
「……なんかお前、いつもと雰囲気違くないか?」
「えっ、いや、そんなことない…と、思います」
「うーん、熱があるからか?」
眼鏡が無いからだ。
カイはここでようやく気がついた。
そうだ、眼鏡がない。
昨日母に壊されてしまった。
眼鏡はカイにとって重要なアイテムだ。
あれがないと変われない、素の自分なんて他人にはとても晒せない。だから、早く替えを作ってもらわないと、部屋からも出られない。
そう思うとカイは航と話をするのが急に怖くなってきた。手が震えるのを抑えるように、ぎゅっと布団を掴む。
しかしそんなカイに、続けて航がかけた言葉は予想外なものだった。
「体調が良くなったら、新しい眼鏡を買いに行こう」
「え?」
「えっ、て何だよ。壊れたんなら替えがいるだろ」
「ええと、まあそう…ですけど、行こうって…」
「だから、二人で買いに行こうって言ってるんだよ。新しい眼鏡は、俺が買ってやるよ」
「兄さんが?」
「嫌か」
「えっ、あ、いや、嫌って訳じゃ…」
「おや、坊ちゃま、良かったですね」
突然の申し出に戸惑うカイに、畳み掛けるように瀬戸が言う。しかも満面の笑みだ。
「若さまとお出かけなんて、楽しみですね。
早く元気になりましょうね」
「えぇ〜…」
兄と二人で出掛けるなんて、初めてのことだ。
二人だけでいたら、どんなひどい意地悪を、どれだけ言われるのかと不安しか無い。
後で誉に上手くやる方法相談しよう。
というか、いっそ誉も付いてきてくれないかな…。
そんなことを思いながら、固いオムレツを口に運んだ。その味は、ちっとも分からなかった。
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