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17.紗子と誉

ジュエリーショップを後にしながら、誉はラッピングされた箱をスーツの内ポケットに仕舞った。 時計を確認する。 そろそろ時間だ。 今日の待ち合わせの場所へと急ぐ。 百貨店を出てすぐのロータリーに、一台の高級車が停まっていた。 誉が後部のドアを開くと、赤いハイヒールが見える。 次いで伸ばされてきた滑らかな手を誉は手に取ると、軽くその甲に口づける。 「あら、今日は随分おめかししてきたのね?」 「紗子さんに恥をかかせる訳にはいきませんからね」 「ふうん。まあ、及第点ね。 今日は貴方の分も見立ててあげるわ」 夫人は目を細めながらそう言うと、凛とした様子で車を降りた。 全身をハイブランドで固めた、亜麻色の髪の彼女はとても一般人には見えない程美しい。 名は、紗子と言う。 彼女は他でもない、航と櫂の母親だ。 「今日はご自分で回られるのですか」 「そう」 何度か彼女の買い物に付き合ったことがある誉だが、VIPルームではなく共に店舗を回るのは初めてだ。 「提案されるばかりも、飽きるものよ。 たまには自分で好きなものを選びたいわ」 「はぁ、そうですか」 金持ちの感覚はわからないものだ。 誉は肩を竦める。 そしてそう言っている間にも、彼女は慣れた様子でハイブランド店へと足を踏み入れていくのだ。 恐らく知られた存在なのだろう。 店舗に入った瞬間、次々と店員が寄ってきては頭を下げる。そして慌てた様子で奥から出て支配人が彼女に付き添った。 「悪くないわね、全部頂こうかしら」 「ありがとうございます」 支配人からの新作の案内を途中で打ち切り、新作の鞄を全て掻っ攫って行く。 店員が慌ただしくそれを包む様子を見ることもなく、彼女は次の店舗へと向かった。 一体何が面白いのか、何のために買っているのか、金持ちの考えは本当にわからないなと誉は半ば呆れながら、そんな彼女に付き添う。 同様のことを数店舗に渡り続けた後、彼女は紳士服売り場に向かった。 「それも悪くないけれど、それではちょっと垢抜けないわね」 誉のネクタイをつうとなぞりながら紗子は言う。 「今の時期は、もう少し濃い色のほうがいいわ」 紗子は、飛び出てきた得意の店員にあれこれと指示を出す。 誉はその指示通りまるで着せ替え人形のように、あれこれと試着に付き合わされた。 しかしその全てを結局買い与えられたので、無駄な時間だったなと辟易する。 しかも既製品では飽き足らず、オーダーまでするつもりのようで、採寸までされてしまい心からうんざりしたが、損はないので大人しく従った。 「誉は張り合いがあっていいわ。 航ちゃんなんて、私が選ぶとものは全部気に入らないのか、文句ばっかり。 櫂ちゃんは着てはくれるけど、あの子白過ぎるでしょう?似合う色に限りがあって面白くないのよ」 紗子はさっき十分購入したにも関わらず、今度は棚においてあるワイシャツを手当たり次第店員に渡しながら不貞腐れだように言う。 誉は愛想笑いをしながら全てにおいてただ頷いているだけだったが、彼女は満足そうだった。 「はあ、スッキリしたわ〜! ストレス解消には買い物が一番ね!」 次いで連れてこられたのは百貨店隣にあるホテルのラウンジだ。 ちなみに誉は上から下まで彼女好みの衣装に着替え済である。 誉がシャンパンをそのグラスに注いでやると、彼女はそれをスワリングさせながら、スイーツに手を伸ばした。 「ストレス、ですか。 何かあったのですか?」 誉もまた同じシャンパンをグラスに注ぎ、ゆっくりと嚥下しながら問うた。 すると彼女は頬を膨らませ、待ってましたとばなりに早口で話し始める。 「櫂ちゃんが反抗期なのよ。もー、こんなに手塩にかけて可愛がってあげてるのに、がっかりしちゃったわ」 「櫂くんがですか?」 「そうなの。 あの子、昨夜、母さんとはもうお風呂に入らない〜なんて言ったのよ! もう私ショックで。だからママにそんなこと言っちゃ駄目よって怒ったら、航ちゃんは私がおかしいって怒ってくるし、使用人まで子供たちの味方になって、みんなで私を悪者にしたの。本当に許せないわ!」 その余りの幼稚さに誉はただ呆れる。 が、同時に昨夜カイが泣いていた理由を察した。 一方で、カイが自分の言った事を信じて、母親と対峙してくれたことに大きな手応えを感じる。 それはカイの中で自分の存在が大きくなっている証だ。 「私、本当にショックだったのよ。 飼い犬に手を噛まれるってこういう気持ちなのね」 よりによって自分の息子を犬扱いか。 そんな思いは噯にも出さず、誉は次のシャンパンをグラスに注いでやる。 ほろ酔いになってきた彼女はより饒舌になっていく。 「しかも櫂ちゃんてば、過呼吸?てやつになっちゃって。気味が悪くて嫌になっちゃったわ。 それでね、その後全然謝りににも来ないと思っていたら、今朝になってまた体調崩してるみたいなのよ、あの子」 「それは喘息の発作ですか?」 「さあ?お熱と、あぁ、確かに喘息がとか何とか使用人が言ってたわね」 「……そう、ですか。心配ですね」 「そう?」 紗子は足を組み直して、グラスを片手に興味なさそうに言う。 「具合が悪い時は関わりたくないわ。面倒だもの」 その時ふと誉の脳裏に過ったのは、己の母のことだった。病気の弟の為にと理由をつけて家を出たはずなのに、弟を見捨てて自分の欲に負けたあの女とそっくりだと思った。 その行き着く感情の先は、嫌悪感だ。 やはりこの女から、早く櫂を開放しなければ。 誉は気持ちを新たにし、カイのために一つ手を打つことにした。 「しかし、そうですか」 「あら、どうしたの?」 誉は少し物憂げに俯いて見せる。 普段見せないその様子に、紗子の興味が一気にその方を向いた。 「お風呂の件、申し訳ないことをしたと思って」 「貴方が?どうして?」 「いや、先日櫂くんが泊まりに来たでしょう。 入浴の際にそんな話になって。 僕、彼に意地悪を言ってしまったんですよね。 お母さんと入るのって珍しいよね、と。 櫂くんは真面目ですから、それを真に受けてしまったのかもしれません」 「ま!貴方のせいだったの?!」 途端声を荒げる紗子だ。しかしそれは勿論誉の想定の範囲内のこと。 誉は少し参ったように前髪をかきあげ、落ち込んだようにため息をついた。 そして目線だけを紗子に向けて続ける。 「ええ。貴方とそんな風にいつも一緒にいられる彼が羨ましくて」 「誉、貴方ねえ」 紗子はそう言うと呆れたように頬杖をついた。 「櫂ちゃんは私の息子よ?嫉妬してどうするの」 「そうですよ、ずるいですよね。 僕も貴方の息子ならよかった。 そうしたら、いつでも貴方と一緒にいられたのに」 その落とし文句は、紗子の気持ちをがっちりと掴んだようだった。 彼女は誉の腕にそっと触れ、馬鹿ねと呟く。 そうして、急に艶のある声で続けるのだ。 「なら貴方には息子とはできないこと、してあげようかしら」 「……」 誉は目を細め、紗子の手を取る。 そのまま彼女に向かい顔を近づけると、ついと唇を押された。 「馬鹿ね、まだお預けよ」 誉は肩を竦めた後、彼女の手の甲にゆっくりと口づけ、熱い眼差しを彼女に向ける。 カイは部屋の中からドアをそっと開くとあたりを見渡した。 そこは二階一番奥にある、彼の父親の部屋だった。 父の部屋には、書斎とベッドルーム、そしてもう一部屋サービスルームがある。 そこには備え付けの棚とワインセラーがあるのだが、カイの目的はその棚の中にある睡眠薬と、煙草の買い置きだった。 廊下に誰もいないことを確認し、するりと父の部屋から抜け出す。 それから前にくすねた部屋の鍵を締めたところで急に大階段の方から声が聞こえた。 父の部屋に戻るか、そこの非常用階段から外に逃げるか判断に迷っている間に、コツコツと足音が近づいてくる。 その持ち主が母だと気がついたカイは妙案を思いついた。 だからそのまま母の部屋の前へと急ぎ動く。 ドアノブを下げるが、予想通り鍵がかかっていた。 と、その時、 「あらぁ、櫂ちゃんじゃないの〜」 と、声が響く。 母は酷く酔っているようだった。 「ママのお部屋の前でなにしてるの〜?」 「ええと…」 カイは母に向き直り、言う。 「ゆうべのこと、謝りたくて…」 「ん〜」 母は目を細めると、カイの顔を覗き込んできた。 その圧に耐えきれず、カイは思わず退く。 すると母は手を上げた。 カイは反射的に肩を竦め身を固めるが、降ってきたのは思いの外優しい手だった。 頭を撫でられながらカイが目を開き顔を上げると、 「それはもういいわ。 貴方反省してるみたいだし〜」 と、母はご機嫌にそう言う。 そしてカイを優しく抱擁し、耳元で囁いた。 「お熱が下がったら、ママが一緒にお風呂に入ってあげるわね」 瞬間、カイはゾクリと背筋に冷たいものが走った。しかし母はにんまりと微笑むと、カイの少し腫れが残る頬にチュッと口付ける。 そしてヒラヒラとカイに手を振ると鼻歌を歌いながら自分の部屋へと入っていった。 取り残されたカイは、それを呆然と見送るしかできない。 と、その時、 「坊ちゃま、またベッドを抜け出して…!」 と、瀬戸が血相を変えて駆けて来る。 が、母の部屋の前で立ち尽くすカイを見て察した彼は、優しくその肩に上掛けをかけた。 「坊ちゃま…お部屋に戻りましょう」 「……」 「さぁ」 瀬戸は動こうとしないカイの手を引く。 その手が小刻みに震えていたから、瀬戸はもう一度強くそれを強く握り、小さな主を守るように寄り添った。

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