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18.誉先生とカイくん①
「いやだ!」
カイはそう言うと口をへの字に曲げてスプーンを投げ出した。
そのままベッドに横になり、体ごと壁の方を向く。
「ですが、坊ちゃま」
瀬戸は困ったように続ける。
「熱下がったのに!爺の嘘つき!」
「嘘はついておりません。
まだ咳が少し残っておられます」
「咳なんかいつでも出るし!
じゃぁ爺はオレに一生一人でベッドの上で暮らせっていうんだな!」
「そこまでは申し上げておりません。
ただ、普段ならいざ知らず、今は病み上がりでらっしゃいますから」
「やだ、絶対やだ。
今日の授業キャンセルしたら、オレもう一生薬飲まない!」
主は完全にへそを曲げてしまったようだ。
瀬戸はため息をつきながら答える。
「かしこまりました。
但しお食事をきちんと取られて、お時間までベッドで大人しくされていることが条件です」
「えー、ベッドにいるのはまあいいけど、食事はやだ」
「ではキャンセルします」
すっと瀬戸が電話を取り出したので、カイは焦って、
「えっ、ダメダメ、わかった、わかったから!」
と、瀬戸の腕にしがみつく。
「では交渉成立ですね。
朝食を全てお召し上がり下さい」
「うう…朝からこんなに食べられないよ……」
「お時間かけても構いませんよ」
「うう…」
カイは肩を落としながら、瀬戸が小さく切り分けてくれたフレンチトーストを口に運んだ。
そして1時間ほどかけやっと朝食を終えたカイは、瀬戸に言う。
「風呂に入りたい」
「いけません」
「いけませんが、早いよ…。
けどオレ、土曜日から入ってないんだよ。
誉が来るのに、匂ったりしたら嫌だよ」
「誉"先生"です、坊ちゃま。
毎日体を拭いておりますし、寝間着も変えてますから匂わないです、大丈夫です」
「やだ、絶対におう、やだ!
あとなんかもう不潔なのが無理」
「だから不潔ではありません」
「あーあ、オレはこのまま一生風呂も入らせてもらえないんだ、酷いよ…」
「今度は泣き落としですか。
そして誰もそこまでは申し上げておりません」
「何でもいいからせめて頭は洗いたい!
頭ベトベト!気持ち悪い!やだ!」
カイはベッドに寝転ぶと、今度はジタバタと暴れ出した。完全に駄々をこねる体制だ。
「……」
こう見えて、結局瀬戸はカイに甘い。
細心の注意を払うことを前提に、入浴の許可を出してくれた。
「本当に一人で大丈夫ですか」
「大丈夫!」
カイが脱いだ上着を受け取りながら、心配そうに声を掛ける。
「けど、母さんがいなくてよかったよ。
そういえばどこ行ってんだろ」
「本日より、お友達とご旅行だと伺っております。土曜日まで留守にされますよ」
「ほんと?やった!」
「さあ、体が冷えますから早くお入りください」
「わかったよ、爺は心配性だな…」
「坊ちゃまが心配ばかりお掛けになるからです」
「ハイハイ」
カイはそう言うと浴室へと入っていく。
それを見送って瀬戸はカイが脱いだ服を畳むと、替えを用意した。その間、約5分。
ガラリとドアが開き、カイが出てきたので、
「何か御座いましたか?!」
と慌てて駆け寄る。
が、カイは首を傾げ、
「いや、もう出るけど」
と答えてずぶ濡れのまま脱衣所を闊歩しようとした…ので、瀬戸は思わず
「坊ちゃま、一度浴室にお戻り下さい」
とため息交じりにそう言うと、カイをくるりと反転させその背を押した。
「えっ、なんで」
「入浴の仕方をお教え致します」
「なんで、知ってるし、もう入ったよ」
「分かってる方が出てくる速さではありません」
よくもまあこんな様子で一人で風呂に入ると主張が出来たものだと呆れる一方で、きちんと彼に生活のやり方を教える良い機会だとも瀬戸は思った。
これは、幼い頃から病弱だった彼を、皆で過保護に世話を焼き育て過ぎた結果なのだ。
瀬戸は責任の一端は自分に勿論あるのだと改めて自戒する。
「宜しいですか、坊ちゃま。
髪はまずこのように…」
瀬戸はカイをバスチェアに座らせて、シャンプーを手に取るとその滑らかな白い髪を優しく撫でる。途中まで泡立ててやり、続きはカイにやるように促した。
「お上手です。
前だけでなく、横と後ろも泡立ててくださいね」
「んー、わかった」
瀬戸がカイの世話係を任されたのは、彼が三歳の頃だった。
まだ今よりもずっと体が弱かった彼は、風呂に入ることすら大きな負担になった。だから毎回気を抜けず、ヒヤヒヤしたものだ。
それが大きくなったものだと、その背を見て瀬戸は感傷的な気持ちになる。
まだまだ同年代に比べれば小さく痩せっぽちで、その体にたくさんの問題を抱えていることは確かだが、それでも彼は成長している。
きっとそう遠くない未来に、彼はここから羽ばたいていく、いや羽ばたかせなければならないのだ。
そう思うと、少しずつ手を離す準備をしていく時期に差し掛かって来たのかもしれない。
自分の役割の終わりが来る日を悟りながら、瀬戸は不器用な主の背を見つめていた。
如月邸は最寄り駅から少し離れたところにある。
誉が普段一人で訪れる時は、その最寄りまで電車を乗り継ぎタクシーに乗り換えるのだが、今日はたまたま帰りが一緒になった航の車に同乗できたので、いつもより三十分程早く着くことが出来た。
航は櫂のようにお付きはなく、普段は自ら運転し大学に通っている。
愛車は例に漏れず高級車だが、彼は大学より離れた場所に駐車場を借り停めているので、それを知っている人間はあまりいない。
人を乗せることも殆ど無いと言っていた。
本来ならひけらかしてもおかしくないほどの家柄だが、彼はその素振りを学内で一切見せたことはなかった。
その明確な理由は誉にはわからないが、彼はいつでも"普通"であろうとしていた。
「ありがとう、助かったよ」
「いや、それはこっちの台詞だ。
櫂が面倒かけてすまないな」
エントランス前で車を降りると、どこからともなく使用人がやってきてそれを駐車場へと運んで行く。それを当たり前に受け入れているのだから、やはり根は"普通"の感覚ではないのだろう。
誉は航と一緒にいると、生まれの差、育ちの差というものを否応なしに感じることが多々ある。
航は誉がここまで何とか築き上げたもの、いやそれ以上のものを生まれながらにして持っているのだ。
もしも自分が"そう"だったならば、弟の昴が"そう"だったならば…。
「これは僕が好きでやってるんだから、本当に気にしないで。お給料も頂いてることだしね」
「そう言ってもらえると気が楽だよ」
そんなどす黒い気持ちを心の奥底にしまい込み、誉は航に笑顔を見せた。
「ほま………げっ、兄さん…」
「げってなんだよ、げっ、て」
重厚な玄関扉を超えてすぐに見える大階段の脇で待ち構えていたカイが、航を見るなりそう声を上げた。
航はむくれた顔をし、誉はそれが可笑しくて笑ってしまう。
「卯月様、ご足労くださりありがとうございます。
航様、お帰りなさいませ」
「うわ、瀬戸、いたのか。
お前気配消すのうますぎやしないか」
「お褒めに預かり光栄でございます。
さあ、坊ちゃまもご挨拶を」
「誉先生、ごきげんよう。もう、早く行こ!」
「坊ちゃま」
「早く、早く」
「あはは、思ったより元気そうだね、良かったよ。では、失礼します」
誉はカイに手を引かれたまま、苦笑いをしながら航と瀬戸に頭を下げた。
残された航は、呆然とその様子を見送りながら瀬戸に言う。
「なあ、瀬戸」
「はい」
「櫂、なんかいつもと様子が違いすぎやしないか?」
「卯月様がいらっしゃってくれて、嬉しいのでしょう」
「だとしても、だ。
表情から口調まで、別人のように違う気がするけど…」
「眼鏡がありませんからね」
「え?」
瀬戸はそうとだけ言うと、航に頭を下げた。
そしてエントランスから右に伸びる廊下の奥へと消えていく。
「眼鏡…?」
航は腕を組んでそう呟くと、首をかしげた。
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