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22.兄弟デート③

通された半個室席のソファー側に腰を下ろし、カイはガチガチに緊張している。 ここからが本番だ。家に帰るまでこの兄の機嫌を損ねないように振る舞わなければならない。 そう考えると緊張してしまって、渡されたメニューの中身も全く頭に入ってこない。 「お前はこの辺なら食えるんじゃねえか」 すると意外にも兄が自分のメニューをこちらに向けて来た。指を指しているのはサラダプレートのページだ。カイはそれを覗き込んで、自分のメニューの同じところを開く。 サラダをメインに、スープと惣菜、それからパンがついている。たしかにこれなら大丈夫なものがありそうだ。カイはほっと胸をなでおろす。 その表情を見た航もまた安心した一方で、心中は複雑だ。 今や弟については、兄である自分よりも誉の方がよくわかっている。そして弟自身も、きっと誉を兄のように思っているのだろう。 もともと櫂は、幼い頃はお兄ちゃん子だった。 そして航にとっても、歳の離れた無垢な弟はとても愛しい存在だった。 しかしある時偶然知ってしまった事実が、その関係を捻じ曲げた。 それは、中学に上がる少し前の事だった。 櫂は戸籍上実両親の子供になっているが、本当は違う。櫂は母の不義の子供だ。 しかも櫂の本当の父親が祖父だったことを知り、その時から航は生理的に祖父と母親、それから櫂を受け入れられなくなった。 彼らがどうしても汚らしいものにしか見れなくなってしまったのだ。 いつしか櫂が難病を患っているのも、極端に病弱なのも、彼が負った罰なのだと考えるようにすらなっていた。 如月家の跡取りとして、長男である自分への期待や締め付けが厳しくなっていく一方で、病気を理由に全てから逃げて部屋に閉じこもって何もしない、出来ない、それが許されている弟はただ足手まといで、疎ましくてならなかった。 そんな航の転機は、誉との出会いだった。 彼は、難病を抱える弟がいて、それを治療したいがために医師を志したのだと言った。 そんな彼が弟の話をする中で語った言葉がある。 『彼に何か否があったわけじゃない。望んだわけでもない。ただそう生まれついてしまっただけなんだ』 その言葉を聞いた時、航は心の氷点が一気に溶けたのを自覚した。 そうなのだ。 憎むべきは、業を背負うべきは、不義を働いた二人だ。 櫂は偶々そう生まれついてしまっただけで、そこには何の罪もないのだ。 だから、櫂まで憎み厭うのは大きな間違いだ。 誉の言葉には続きがあった。 『だから僕は彼の兄として、弟が普通に暮らせるように最大限の努力をしたいし、するべきだと思っている』 それから航は、少しでも弟との関係を取り戻したいと思った。しかしその時にはもう、全てが手遅れだった。 自分がその存在を否定していた間に、櫂の親族内での立ち位置は非常に危ういものになっていたし、彼自身もまた、肉体的にも精神的にも普通に暮らすには程遠い状態だった。 そして一番悪いことに、弟は兄を一番恐れ、拒絶していた。 これまで彼にしてきた仕打ちを思えば自業自得なのだが、それはもう航一人でどうにかできる状態ではなかった。 誉の介入は、航の思惑通り良い方向に転がった。 もう一年程になるが、彼に託してから櫂は目に見えて良くなった。 少し前なら、こうやって誘っても頑として出てこなかっただろうし、そもそも話すら聞いてはくれなかっただろう。 今更、都合よく弟に好かれようとは思っていない。 兄が願うのは、ただ弟が普通に笑って暮らせるようになること、それだけだ。 メニューを一生懸命見ていたカイが、おずおずとその中の一つを指さして言った。 「兄さん、オレ、これにする」 「あぁ、ちゃんと選べたのか。偉いな」 「え?」 突然兄がそんな事をいうから、カイは驚いたように問い返した。 しかし航はそれには応えずにただ目を細めると店員を呼び寄せた。 「全部食べられたじゃないか」 会計を終えた兄が財布をしまいながら言う。 兄に怒られるのが怖くて最後はかなり無理をしたが、確かに食べられた。 それはカイにとっても意外なことだった。 「うん、美味しかったよ」 「お前にそんな感情があったんだな」 「……」 「冗談だよ、怒るなよ。 沢山食べて偉かったな」 航は口をとがらせるカイにそう言うと、ワシャワシャと頭を撫でた。 やっぱり兄の様子がおかしい。 カイは乱れた頭を慣らしながら兄を見上げる。 その証拠にまた手を繋ごうと伸ばしてくれている。 一体どういうことだ、何を企んでいるのだ。 カイが警戒しながらその手を握ったその時、 「如月さま!」 と、向こうから中年の男性が走り寄って来た。 勿論カイの知らない人だ。 怖くなって航の背中に隠れる。 一方で航はその人を知っているようで、ペコリと頭を下げた後、背中に隠れるカイに小声で教えてくれた。 「外商部の山岡さんだ、うちの担当なんだよ」 聞き慣れない言葉には首を傾げるカイに対し、航の態度は堂々としたものだ。 「いつも母がお世話になっております」 「いえいえ。いつも贔屓にして頂いて、こちらこそありがとうございます。 申し訳ありません、如月さまがご来店とは知らず、ご挨拶が遅れました。 本日は何かご入用でございましたか?」 「ええ。弟の眼鏡を探しに。 ですが、今日は弟の社会勉強も兼ねて敢えてご連絡差し上げなかったのですよ。 こちらこそ、逆に気を使わせてしまい申し訳ありません」 「!!」 そのタイミングで航がカイを背中から前に引っ張り出す。そして背中をトンと叩いた、 挨拶をしろということだ。 「ご、ごきげんよう」 カイはやっとそう言うと頭を下げる。 山岡はそれを見て目を細めると、 「はじめまして、坊ちゃま。 私、山岡と申します」 そう丁寧な挨拶と共に名刺を差し出して来た。 カイはそれをたどたどしく受け取ると、 「如月櫂と申します。こちらこそ、よろしくお願いします」 と、やっとの思いで返した。山岡は続ける。 「奥様からお話はかねがね伺っておりますし、いつも坊ちゃまのお召し物は奥様と一緒に選ばせて頂いてきました。 本日はお会いできて本当に光栄でございます」 「そう、だったんですね。 ありがとうございます」 一通り挨拶を終えた所で、ふと航が思いついたように続けた。 「あ、そうだ、丁度良かった。 山岡さん、別件なのですが、一つお願いしてもいいですか」 「はい、何でございましょうか」 「今度、舞子が誕生日なんですよ。 それでプレゼントを見立てて頂きたくて」 「左様でございますか、おめでとうございます。何かご希望はございますか?」 「いや…私はあまり詳しくないし、彼女の好みは山岡さんのほうが詳しいでしょうから。 何かお勧めのものを幾つかご提案頂けますか」 「かしこまりました。 ご自宅にお持ちしますか?」 「いや、また来ます。来週火曜日の夕方は空いてますか?」 「ええ。お待ちしております」 「ありがとうございます」 舞子、その人物にカイは覚えがあった。 父の親友の娘だ。小さい頃はよく遊びに来ていた。 ちなみにその親友は立花総合病院という大病院の院長なので、舞子は言わずもがなご令嬢である。 幼い頃から二人は特に仲が良く、彼女がくるとカイは兄にかまって貰えずヤキモチを焼いていた。 成長するにつれ、彼女が家に訪れることはなくなったので、カイは二人の関係は切れたものだと思っていたのだが、そうではなかったらしい。 「ねえ、兄さん」 「んー?」 エスカレーターに乗りながらカイは問う。 「舞子姉さんは、兄さんの恋人なのか?」 「あぁ、そうだよ。 そうか、お前には言ってなかったか」 航はそこまで言うと、カイの方を向いた。 「俺が大学を出たら、結婚しようと思ってる」 「けっこん……、結婚?!」 「声がでかいな」 「……や、えと、ええと、そか…おめでとう」 「それはまだ早いな。 まだちゃんと婚約したわけじゃねえし」 「や、でも、反対する人はいないと思うよ」 「そうかな。だといいな」 その時カイはふと、誉のことを思い出した。 あまり気にしないでいたが、誉も自分も男だ。 男同士は勿論結婚はできない。 そもそも男同士で付き合うことについて、体面を気にする父、それに順ずる兄もいい顔をするとは思えない。母は論外だ、どうせ誰が相手でも気に入らないだろう。 ちゃんと皆に祝福され、好きな人と結ばれる。 元より自分にそんな未来が来るとは思っていないから良いが、誉はどうだろうか。 きっと違うとカイは思う。 誉は、本人が望めば幾らでもそれが叶う人間だ。 ということは、自分と一緒にいることで、誉の幸せな未来を潰してしまうことになるのではないだろうか。 一方で、それでも誉と一緒に居たいと思う自分勝手な自分がいる。どうしたらよいのだろうか。 カイは左手のブレスレットに触れながら考えるが、その答えを今出すことは、とても難しい。 「カイ、どうした?」 急に大人しくなった弟の顔を覗き込みながら兄が声を掛ける。 「え、あ…うん」 カイはハッと顔を上げた。 「具合悪いか?」 「ううん…大丈夫」 航は小さく息を吐くが、深くは追求することはなく、ただ優しく櫂の頭を撫でた。 「さ、お前に似合う眼鏡探そうぜ」 「うん」 そしてもう一度カイの手を握り直し、眼鏡屋へと入っていく。

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