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31.週末デート⑥

改札前で誉からカードを一枚渡された櫂は、不思議そうにその表と裏を順番に見た。 「これにね、お金をチャージして電車に乗るんだよ」 「これに…お金をチャージ…する?」 櫂はそう言うと、誉が用意しておいたサコッシュからチェック柄の二つ折り財布を取り出した。某ハイブランドのロゴが真ん中に入っている可愛らしい財布だ。女物なので、きっと母親のお下がりなのだろう。 少し面白いことになりそうなので、誉はそのまま櫂の好きにさせてみる。すると彼はその中から慣れぬ手つきで一万円を取り出すと、カードの表面に押し付ける。 勿論何も起きないので今度は裏側、側面と試した後首を傾げ、不安げな瞳で誉を見上げてきた。 「あそこの券売機でお金をチャージするんだよ」 期待を裏切らず可愛くて可笑しくてたまらないが、ここで笑うと拗ねてしまうので誉は耐えた。ちなみに今回、瀬戸から直々に"良い機会なので坊っちゃまに社会経験をさせてやって欲しい"と個別に依頼があった。いつも持っていない現金を持っているのもそれ故だろう。それにしても額が普通じゃないなと誉は横目で見ながら思う。 「ここにカードを置いて、ここにお金を入れて。 あ、お金入れるのは気をつけてね。 油断すると手が機械に吸われるから」 「えっ!」 「冗談だよ」 「誉先生のうそつき…」 「ふふ。ほら、やってごらん」 おっかなびっくりと言った感じで機械を操作するカイは信じられない位可愛らしい。 誉は思わずムービーを撮り始めるが、必死な櫂は気づかない。 「これ、どのボタン押せばいいですか?」 「押すのは画面の方ね。 今日は千円で十分だよ」 「画面!画面を押せるんですか?」 「タッチパネルって言うんだよ。 スマフォと同じだね」 「へえ…すごいです」 「君のほうがすごいと思うよ、色んな意味で」 「あ、カード出てきました」 「お釣りをもらうの忘れてるよ」 「あれ?」 これは前途多難だなと誉は苦笑いだ。 その間、櫂はモタモタと財布にお金をしまい、ふぅと息を吐く。眼鏡をしていようがいまいが、物を何かに綺麗に収めるということは苦手らしい。 財布を鞄に入れ終わると櫂は誉の横に並んで、当たり前みたいに手を握ってきた。 その可愛い手を握り返してやると、櫂は嬉しそうに笑う。 「切符を切る駅員さんはいないんですね」 自動改札の前でそう尋ねてきた櫂の言葉で、誉はようやく櫂の世間知らずさに合点がいった。 櫂は古典文学ばかりを読んでいるから、駅の情報が昭和で止まっているのだ。 電車の中は思ったより空いていた。 一つ空いていた座席に櫂を座らせようと思ったのだが、誉から少しでも離れるのが不安なようでイヤイヤされたので、ドアの前に立っている。 これはこれで窓の外がよく見えるので悪くない。 櫂は子どものように窓から見える景色に釘付けだ。誉は櫂の後ろにぴったりくっついて、やれ変わった形の建物だとか、兄のと同じ色の車だとかたわいもない話を聞いて相手をしてやる。 眼鏡をしている時の櫂は無表情で無口なイメージだが、今日の彼は口調こそ違えど雰囲気が裸眼の時に近いような気がする。 それほどはしゃいでいるのか、誉の前では取り繕う必要性を感じなくなってきているのかわからないが、いずれにせよ良い傾向だ。 そんな事を思う一方で、前のめりで窓の外を見ている櫂の尻が頻繁に誉の太ももに当たるので、 この公共の場でこれを揉みしだいてやったら櫂はどんな顔をするだろうかと余計なことを考えてしまう。羞恥心と快楽に震える櫂はさぞ可愛いかろう。想像しただけでムラムラしてきた。 ちょっとだけやってみようか。 いや仮に他の乗客に櫂が身悶えている姿を少しでも見られたらそれは腹が立つ。 しかし、これをやるなら他の乗客がいる環境でないと面白くないし…などと良からぬことを考えていたら、 「誉先生?」 「ん?」 いつの間にかこちらを見ていた櫂がいた。 「私、何か気に触ることしましたか?」 と、不安げに眉を寄せて問うてくる。 「ああ、考え事を少し。 俺、考え事をしてると表情が抜けちゃうらしいんだよ。びっくりさせちゃったね」 「なら、よかったです」 櫂はようやくホッとした顔で誉の胸に頭をちょいと付ける。そうやって頼ってくる感じがとてもいい。 櫂とやりたいことが沢山あるのに、週に数回会うのがやっとの現状では、なかなか消化しきれないのがもどかしい。 いっそのことこのまま攫ってどこかに閉じ込めて独占してしまおうかとも思った。 しかし、一般の子供ならまだしもこの箱入り御曹司となると、学生の身分である自分ではなかなか難しかろう。 とすると、やはり如月家に取り込んで合法的に同棲を勝ち取るしかないが、そのためにはあの母親と、最近頭角を現し始めたあの家唯一の常識人の航を何とかしなければならない。 さて、どうしたものか。 ずっと考えてはいるけれども、なかなか確実な方法が見つからない。 はあ、と誉はため息をついて、櫂をぎゅっとした。そうしたら急にキスをしたくなったので、即行動に移す。 そのピンクベージュのマスクを人差し指でついっと下げ、ちゅっと唇を落とした。 突然のことに、櫂は目を大きく見開く。 同時に顔を真っ赤にして、声を上げた。 「な、なんてことを!」 「シッ、大きい声を出すと皆に見られちゃうよ」 「ッ!」 櫂は口を覆ってあたりをキョロキョロと見渡し、小さくなる。 「は、は、はしたないです!」 「また古風な言い方をするね。 それにキスくらいどこででもするでしょ、恋人同士なんだから」 「しませんっ」 「俺はするよ」 誉はまたそう言うと、今度はその額にキスをする。 「せんせいっ?!」 「だから声が大きいってば」 そして誉が苦笑いをしながら肩を竦めた丁度その時、目的地に着いた。 だから膨れっ面の櫂の手をぎゅっと握って、 「降りるよ」 と手を引いて歩き出した。 「もう!」 櫂はぷりぷりと起こりながらついてきたが、改札を出、エスカレータを降りたフロアの人の多さに怯んで立ち止まる。県内一番のターミナル駅なので当たり前の光景だが、櫂にとっては初めてだ。 こんなに沢山の人がいるのは見たことがない。 しかもみんな色んな方向から歩いてきて、それぞれ違う方向に歩いていくのに、その中に割って入って行ける気がしない。 「世の中って沢山人間がいるんですね」 「何、山から降りてきた仙人みたいな事言ってるの。行くよ」 誉は櫂の手を引いて、沢山の人を避けながら器用に前に進んでいく。少し進むと人波が落ち着いて、余裕を持って歩けるようになってきた。 すると櫂がこんな事を言い始める。 「……ねえ、誉先生。 私ってもしかして世間知らずなんでしょうか」 「えっ?」 いや寧ろ今まで世間を知っているつもりだったのかと誉は逆に驚いたが、櫂は少し落ち込んだ様子だ。 「電車の乗り方もわからないし、こんな沢山の人を見たこともないし、上手く道も歩けないし…」 「ええと、まぁ…そうだね。 あまり詳しいとは言えないかもしれないね」 「本で読んだのと随分違います」 「君がよく読んでいるのは古典文学だからなあ…」 「新しい本も読まないとだめってことですか?」 「いや、そういうことではなくて。 知識の新旧はあれど、櫂は知識は沢山あると思うんだよね。後は色んな経験して、その知識を使えるようになることが大切かな」 「経験…」 「そう。ここまで来る間だけでも、きっと本だけではわからなかった沢山の経験をしたよね。 その積み重ねだと思うよ」 「本は好きですが……。 色んなことをするのは、難しいです」 「簡単だよ。 "誉先生"がついてるんだから。 二人で一緒にいろんなことをしようね。 きっと楽しいよ」 「……わかりました」 「ほら、じゃあそんな暗い顔はしないの。 折角の初デートなんだから、楽しい経験だけしてほしいな」 「はい」 「そんな顔してると、ここでまたキスするよ」 「えっ」 「これもまた一つのいい経験になるしね」 「いやだ、駄目です!」 いくら少なくなったとはいえ、さっきの電車とは比べられない位沢山の人がいる。 なのに誉は本気のようで、櫂の腰を掴み抱いて引き寄せた。 そして顔をゆっくり近づけてくる。 櫂は肩をひゅんとあげた後、誉の迫りくる顔を抑えようとしたがその手は捕らえられて叶わず、櫂の小さな体は誉の大きな体にすっぽりと包まれてしまった。 「ほま、や…」 そう言っても誉はやめてくれない。 またさっきのようにマスクを下げ、そのまま3回、角度を変えてキスをされた。 「もう!こんなところで本当にキスするなんて信じられない!どうするんですか!みなさん見てる!」 「だから皆が見てくるのは、その大きな声のせいだってば」 またもやぷりぷりと怒り始める櫂に、誉はそう苦笑いで返した。 すると彼はぷんと膨れたまま下唇を噛んだ。 それから、誉の手をぎゅっと握り直し、背伸びする。耳を傾けてやると、小さな声で続ける。 「やっぱり、人がいないところでなら、いいです」 「もっとしたくなったんでしょ」 櫂は膨れたまま顔を真っ赤にし、頷く。 「………はい」 全く、良い意味でも悪い意味でも人の期待を裏切ってくる子だ。 誉はその頬をふにっと軽く摘んだ後、わかったよと嬉しそうに返した。

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