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38.ゼミ飲み①

誉は、可愛らしくデコレートされたホールケーキに情緒なくフォークを突き刺す。 そしてそれを手前に引き寄せ、口に運んだ。 そうやって誉が無言で3口目を口に放り込んだ所で、向こうのデスクから木下がソワソワしながら声をかけてきた。 「ど、どうかな?誉くん」 「あぁ、はい。甘いですよ」 「そうかあ、気に入ってくれたなら良かったよ〜」 すると木下が嬉しそうに椅子から立ち上がったので、 「あ、こちらには来なくて結構です。 ソーシャルディスタンスを遵守して下さい」 と、誉は左手を上げてそれを制した。 「君のソーシャルディスタンスは随分は長いねえ」 木下はため息まじりにそう言い、再び椅子に腰を下ろす。 するとその時、ドアをノックする音が響いた。 木下の返事を待ち、ドアが開く。 「失礼しま………って、え?誉?」 「や、航。今日も勤勉だね」 「お前、何で教授の執務室でケーキ食ってんだよ、しかもホールで」 誉はそれに対しては何も返さず、軽く左手を振った後に木下の方を指差す。 すると航はその方を見、慌てて向き直った。 「如月くん、いつもすまないねえ」 「いえいえ、とんでもないです。 頼まれた資料、棚に戻しておきますね」 こちらに来る格好の理由を得た木下がさり気なく誉が居る会議席まで来て、その横に立つ。 完全にそれを無視してケーキを食べ続ける誉に対し、航は愛想が良い。 きちんと教授の前で一礼すると、両脇に抱えていた資料を棚に几帳面に揃えて戻し始めた。 航が丁度こちらに背を向ける格好になったのをいいことに、誉の肩に触れる。 それを払うためにその手に触れるのが癪だったので、誉は眉間に思い切り皺を寄せて睨む。 その顔を見た木下は途端嬉しそうな顔をして、ご機嫌に航の元へと歩み寄った。 そして棚に手を伸ばしている航の背中にさり気なく触れる。一瞬航の体が強張ったのを誉は見逃さない。 「その資料はこっちに置いてくれるかい」 「はい」 木下の手が、背中から腰に移った。 それが尻まで下りると、航はとうとう手を止めた。 しかし彼は何も言うこと無く、そのまますぐに作業を再開した。 そして手際よく全ての資料を収納し終えると、木下に向き直り頭を下げる。 木下は再びその肩を叩いて労った。 「目の前で親友の尻を揉みしだくのはどうかと思いますよ。一応言っておきますが、彼はドノンケです」 航が執務室から出て行った後、誉が言う。 「ヤキモチかい?」 「うわ、キッショ」 その言葉が余程嬉しかったのか、木下が立ち上がる。 「ソーシャルディスタンス」 「誉くんは厳しいねえ、けどそこがいいねえ」 「はあ…」 全く話が通じない木下に深いため息をつき、誉は立ち上がる。 そして食べ終わったものをそのままに、執務室を後にした。 流石に5号のワンホールケーキを食べ切ると口の中が甘ったるい。 うがいでもするかと手洗いへと向かうと、航が居た。 彼は手洗いカウンターに手をついたままバッと顔を上げた。 洗顔していたのだろうか、顔が濡れている。 よく見ると目の端が赤い。 「ああ、誉か」 彼は安心したようにそう言うと、ハンカチで顔を拭う。その横で手を洗い始めながら、誉は何てこと無いように言ってやる。 「あの人は、そういう人だからね。 嫌だったらちゃんと怒った方がいいよ」 「別に気にしてないし」 「気にしてない人の顔じゃないと思うけど。 まあ君がそう言うならいいけどさあ」 「そう言うお前こそ、教授の部屋で何してたんだよ」 「ケーキ食べてただけだよ」 「……」 「この前、君が実習とレポートでイッパイイッパイになったせいで、僕が彼の論文をフルサポートする羽目になったんだよ。 で、ケーキはそれが通ったお礼だってさ」 「う、それは悪かったな…」 「別にいいけどね。 流石にホールケーキを詰め所で食べていたら目立つかなと思って、教授の部屋をお借りしていたんだよ。そもそも僕、研究室違うしね。 ま、それ言ったら別の研究室の人に論文フルサポートさせるんじゃないよって話なんだけど」 「お前優秀だからなあ。 他の教授からも声掛けられてるんだろ」 「いや、君もでしょ。 この業界、思ったよりコネが大事そうだから有難いとは思うけど、八方美人するのも些か疲れてきたよね」 「いや、お前のそういうとこホント尊敬する」 「君みたいに、一つのことを真面目にコツコツできる方が凄いよ」 ようやく航は気持ちを切り替えた様だ。 いつもの明るい顔で笑うと、誉の肩を軽く叩いた。そして、 「ありがとな」 と、小さな声で返してくれた。 研究室に戻る途中、航がふとこんなことを言う。 「今日のゼミ飲みだけどさ」 「ゼミ飲み?」 「えっ、知らない? 教授がお前も来るって言ってたから女子たち大喜びしてるぞ」 「聞いてな……あ」 誉はスマートフォンを確認する。 すると確かに木下から今日のゼミ飲みの誘いがメールで来ていた。何日か前に受信自体は確認したが、面倒過ぎて開くことすらせず、そのまま忘れていた。 「ひっど、普通返事がなかったら都合悪いと判断しない?」 「返事が無いのは良い便りとも言うしなー。 けど、教授、お前から会費預かってるってさっき幹事に渡してたぞ」 「外堀を埋めただけでしょ。 というか、そもそも他のゼミの人間を頭数に入れるなって」 「この前のゼミの時、女子達が木下教授に誉を呼んでくれ〜って頼んでたからな。 そのせいじゃねえか? てか、今日都合大丈夫なのか?」 「19時30分からか…場所的に微妙に間に合ってしまうな…」 「あはは、今日は塾講だっけ。 てか、会場お前のバイト先の隣のビルじゃん」 「うーん」 「悩んでるなら来いよ、夕飯代わりになるぞ」 「タダ飯タダ酒は魅力だけど〜」 「全然払う気ねえな」 「払うわけないじゃないか。僕は被害者だよ」 「相変わらずいい性格してんな。 ま、悩むんなら来いよ。 俺も久しぶりにお前とゆっくり話したいし」 「おや、航くんにそう誘われたらお断りはできないかなあ…。分かった、行くよ。 その代わり、女子に囲まれたら面倒だから助けてよ」 「わかったよ。ホントいい性格してんな」 航は肩を竦めてそう返すが、誉が来ると分かって嬉しいのか、先ほどと打って変わってご機嫌なようだ。 飲みの席だと、あの教授が無礼講だとばかりに航に何かをしかねないので、牽制の意味も込めて行くのは悪くない。 正直航がどうなろうが誉は全く興味はないが、カイと付き合っていく以上、彼に恩を売っておいて損は無いのだ。 バイトが終わり、飲み会会場へ行きすがな誉はカイに電話をかけた。これから飲み会に行く旨を伝えると、電話口のカイが驚いたような声を上げる。 『え?そんなことでわざわざ電話かけてきたのか?』 「そんなことじゃないよ、大切なことだよ。 これから女の子もいる席で飲むんだもの。 恋人にはちゃんと許可を取らないと」 『そういうものなのか?』 「そうだよ。そんなわけで、行ってきてもいいかな」 『う、うん。いってらっしゃい』 「ありがとう」 先日の情事で気がついたが、カイは自分がすることを疑いなく真似てくる傾向がある。 だから、こうやって他人と何かをする時には恋人に許可を取るものだとすり込めば、きっとこれから彼も同じように自分に連絡をして来るだろう。 『あ、待って。女の子もいるんだよな……』 「うん、何人かいるよ」 『そっか……』 「どうかした?」 『あっ、いや……』 カイは少しだけ返事をた溜めた後、小さな声でゴニョゴニョと続ける。 『女の子とばっか仲良くしたら、やだよ』 その言葉の攻撃力の高さに誉は思わず立ち止まり、スマートフォンを握りつぶしそうになった。 あの全く他人に興味がなかったカイが、自分に対して独占欲を出してきたのが凄く凄く嬉しくて、たまらなく可愛い。 『あれ?誉?聞いてるか?』 「聞いてる、聞いてるよ。 ちょっと待って。 君のせいで今それどころじゃないから」 『は?何言ってんの?』 今すぐにでも飲み会を放棄して如月家に乗り込み、カイを抱きしめたい。 諸々の事情でそうはいかないのが口惜しい。 「分かったよ。 女の子とは絶対口をきかないって誓う」 『そこまでは言ってねえよ…。 飲み会ってどんなのか知らないけど、折角行くなら楽しんでおいでな』 「ふふ、カイは優しいね。 ありがとう。愛してるよ」 『……お、おれも……』 最後の"愛してる"は、やっと聞き取れるくらいの小さな声だった。 もう駄目だ、可愛い。 俺の恋人は世界一可愛い。 誉は電話を切った後、カイの心拍数をチェックした。電話の間だけそれが跳ね上がっているのを確認し、更に恋人への愛しさが増す。 だから、次にお泊りさせた時はしっかり寝かしつけてたっぷり抱こう。誉はそう心に決めたのだった。

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