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46.如月邸 お泊まり①
如月邸に着くと、航は疲れたからと早々に部屋に籠ってしまった。
ただし、道中の航はいつもと変わらぬ態度だった。同行する自分を気遣ってのことだろうが、その精神力は大したものだと誉は思う。
一方、その弟の方はと言うと、誉の膝の上でぐずぐずと泣いていた。誉が出していた"宿題"が思うようにできなかったことが悔しくてたまらないらしい。ちなみにそのせいで情緒が不安定になり、今日は結局学校にも行けなかったと瀬戸から聞いている。そのメンタルは、最弱である。
元々誉の授業は、予め宿題と称したプリントを作成して渡し予習をさせ、それに対し分からなかった所や、間違えた所を時間内で集中的に教えるのが基本だ。プリントはカイの様子を見ながら得意なもの、苦手なものを考慮しバランスよく誉が作る。
今回は期末テストに向けて主要五教科に加え実技教科も宿題を出したのだが、案の定実技教科の方がボロボロだった。かなり高難易度な問題まで満点を叩き出した五教科に比べ、実技教科の方は空欄が目立つ。なんとか埋めた箇所もかなり間違えていた。
そしてそれはカイのプライドを著しく傷つけたようで、最初は宿題が終わっていないことを理由に誉が部屋に入るのを拒んだ程だった。
そもそも宿題が全部出来たら家庭教師としての自分は不要なのだと誉は何度も諭したが、カイは"出来ない"という事実が受け入れられない。
誉はそんな癇癪を起こしているカイを優しく抱き、幼子にするように背を撫でてやりながら、改めて宿題のプリントを確認する。
実技教科の正答率はおしなべて良くない傾向だが、その中でも実力にばらつきはある。壊滅的なのは家庭科と保健体育。これまでのカイの様子を見ていれば、納得の結果である。それに対し、美術は半分程度できている。美術史は、もしかしたら彼の豊富な読書経験で触れている箇所があるのかもしれない。意外なのが音楽だ。音楽史のところに加え、基本的な楽譜の読み方も含め7割程出来ている。
「カイは音楽好きなの?」
スンスンと赤い鼻を鳴らしているカイに問うと、
「嫌い」
と、ぶっきらぼうな答えが返ってきた。
それでも返事が返ってくるようになったことに安堵しながら誉は続ける。
「そう、でも音楽は花丸、よくできてるよ」
「……ピアノ習ってたから、他よりはまだわかる」
するとカイは、渡された花丸が書いてあるプリントを見やりながら返した。
「えっ」
「何だよ」
「君、ピアノ弾けるの?」
「もう弾けないと思う。辞めて随分経つから」
「そっか。けど、なら素養はあるから、音楽は大丈夫だね。ちなみにこれは興味本位だから嫌なら答えなくてもいいけど、ピアノ、何で辞めちゃったの?」
カイは少し押し黙った後、
「先生が嫌いだった。
すぐに兄さんと比べるんだ」
とボソリと言い、ひくっと喉を鳴らす。
ああ、きっと。
誉は思う。
この子はこうやって兄とずっと比較され、そして暗に、或いは公然と否定され続けて生きてきたのだろう。
「そっか」
誉はそれ以上追求せずそうとだけ返すと、改めてカイを優しく抱く。そしてその頭の天辺に唇を押し付けた。
「何だよ」
「ん、カイのこと好きだなと思って」
「……え、今?」
「今に限ったことじゃなく、ずっと好きだよ。俺は他の誰でもなく、君のことが大好きだよ」
「……」
カイはまた少し黙り込んだ後、涙を袖で拭う。
そして、
「知ってるし」
とだけ返すと、甘えるように誉の胸に頬を押し付けた。
ようやくカイが落ち着いたので、宿題の間違えた箇所を一緒に確認する。
実技教科は基本的には暗記なので、量さえこなせば問題ないはずだ。
それを告げた上で、暗記用のテキストと続きの宿題を渡すと、カイは頷いた。
気がつけば、日はすっかり落ちていた。
いつもカイの宿題の出来がいいので小一時間もあればやることが終わってしまうのだが、今日は休みもなく3時間もかかってしまった。
そう考えると、途切れること無くこの誉の授業に付いてくるカイの集中力は、やはり素晴らしい。
「さて、そろそろお暇する時間だね」
片付けをしながら誉が言うと、カイが眉を寄せてその腕を抱きながら引っ張った。
「カイくん、お片付け出来ませんよ」
しかしカイは黙ったまま腕にしがみついて離さない。誉は苦笑いをしながらその頭を撫でてやると、拗ねたように下唇を出した。
その嘴のような尖ったお口が可愛かったので、顎を取りちゅっとキスしてやる。
「暫く授業の回数を増やしてもいいことになったから、また明後日来るよ」
そしてそう伝えるが、それでもカイは諦められないのか誉の袖口を掴み引っ張った。
そして、ポソリと言う。
「今日、勉強しかしてない」
誉は家庭教師なのだから、それがあるべき姿だ。ただ、いつもカイの宿題の出来が良いので時間が余るだけで……。
誉はクスリと笑うと、カイのことをもう一度抱きしめた。
「そっか。カイはもっとこうやってギュッてしてたかったんだね」
うまく要求を口にできない彼に代わりそう言ってやると、小さく頷いて誉にくっつく。
すんっとまたその鼻が鳴った。
なので、もう一度その頭にキスをする。
するとついと顔を上げたので次は額に、更に催促するようにカイが更に顎を上げたので、最後は唇にキスを落とした。
啄むようなキスを何度か繰り返した後、カイの唇が薄く開いたのをきっかけに互いの舌を絡めていく。
「ん、ん…」
カイは気持ちよさそうに目を閉じ、誉の首に手を回した。
もっともっと深く繋がりたい。
そう思った矢先に、ドアをノックする音が聞こえた。誰かは聞かずとも分かる、瀬戸である。
紳士な彼は返事をするまでそれを開けることは無いが、長く持たせれば不審に思うだろう。
名残惜しさを感じながら二人は唇を離す。
時計をチラリと確認すると、もう6時半を回っていた。カイの夕食は七時なので、瀬戸はそれに向けての準備に訪れたのだろう。
「はい」
誉はそう返事を返しながらその方へ向かい、ドアを開く。
「すみません、今日は授業が長引いて」
「左様でございましたか。
こちらこそ、急かして申し訳ありません」
「もう終わりましたので、今片付けますね」
「ありがとうございます。
坊ちゃま、本日のお食事はお部屋に致しましょう。若さまも本日はお部屋で取られるそうですから」
「……母さんは?」
「先ほどお出かけになられましたよ」
「……」
カイは黙ってソファーに腰を下ろしながら誉が勉強道具を、そして瀬戸が食事の準備をする様子を見ていた。
そして、誉がカバンに荷物をしまい終えたタイミングで口を開く。
「爺、夕食、誉と一緒に食べたい」
「えっ?」
カイがしっかりとその要望を口にしたことにまず驚いたのは誉だ。
それどころかカイは誉の腕にくっついて、
「というか、誉に泊まってってもらいたい」
と、続けた。
「坊ちゃま」
同様に瀬戸も驚きを隠せない様子だったが、まずはコホンと咳払いをし、
「卯月"先生"でございます」
と、非礼を窘めた。それから、
「急にそんな事を仰っては、卯月先生もお忙しいのですから、ご迷惑ですよ」
と続ける。しかしカイは諦めない。
「ねえ、誉"せんせい"、今日は泊まってってよ。良いでしょ?」
「ええと…」
「坊ちゃま」
「爺には言ってない、誉に聞いてんの」
「カイくん、そんな言い方しちゃ駄目だよ」
「ヤダ、誉ともっといたい、帰っちゃヤダ」
カイはそう駄々をこね、誉の腕を抱えて離そうとしない。
「坊ちゃま、いけません」
「いーやーだっ」
「卯月様、申し訳ありません」
「いえいえ。ちなみに僕はそれでも全然構わないのですが…」
「爺、誉もいいって!」
「ええと…」
誉とて、カイと一緒に居たい気持ちは同じだ。
しかし誉の自宅ならまだしも、この如月邸にいきなり泊まるのはハードルが高いと思っていたのだが……。
意外にも瀬戸は小さくため息をついた後、誉に向かい頭を下げた。そして、
「大変申し訳ありません、卯月様。
でしたら、お願いしても宜しいでしょうか」
と、改めて丁寧に依頼をしてくる。
「えっ、あ、はい」
「ありがとうございます」
「やったー!」
どうやら誉が思っていたより、ここ泊まることへのハードルは低かったらしい。
「直ぐに卯月様の分のお食事もご用意致します」
「誉と二人で部屋で食べるからね!」
「かしこまりました」
瀬戸が部屋から出て行く。
するとカイは誉にくっついたまますぐに、
「これで、キス、もっとたくさんできるよね?」
と尋ねてきた。
誉はその目眩すら覚えるほどの可愛らしい質問に、
「もちろん。いっぱいしようね」
と返すと、そのお望み通りその唇にさっきと同じ甘いキスを落としてやった。
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