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47.如月邸 お泊まり②

着信相手の名前を見て、航はギクリとした。 今一番話をしたくない相手の名だったからだ。 航は出るか否か悩んだが、そうもいかないよなと思い直してそれを取る。 すぐに電話口の向こうから可愛らしい声が聞こえた。 航の彼女の舞子である。 「航さま、ごきげんよう」 それはいつも通りの明るく、朗らかな声だ。 普段なら癒やされるその声色に、今は只胸がざわつく。満との情事が脳裏に過ぎった。 「あぁ、ごきげんよう」 それでも努めて平生を装い航が返すと、彼女は嬉しそうに言葉を続ける。 「こんなお時間に申し訳ありません。 あの、先日お話したコンサートのチケットが取れましたの。もし宜しければ、航さまもご一緒にと思いまして…」 「そうか、良かったね。 勿論いいよ。いつだい?」 「来月の2日、17:00です」 「分かった、予定しておくね。 折角だから、終わったらディナーにでも行こう。 後で詳細をメッセージで送ってくれる?」 「はい、勿論です。ふふ、楽しみです」 「あぁ、俺も楽しみにしてるよ。 店の希望はあるかい?」 「いいえ、航さまのお勧めは御座いますか?」 「そうだな……来月なら、この前君が話していたフレンチの店が取れるかもしれないね。 聞いてみるよ」 「まあ、覚えていて下さったのですか?嬉しい」 「当たり前だろ。それじゃあ、またね」 「はい!航さま、良い夜を」 「ありがとう。舞子もね。おやすみ」 電話を切ると、航はふうと息をついた。 大丈夫、いつも通りやれたはずだ。 航は酷く動悸する左胸を抑えそのまめ蹲る。 舞子は、如月と並ぶ名家である立花家の長女だ。 そして航と舞子の父親たちが親友同士で、幼い頃から互いの家をよく行き来するほど仲が良かった。また、親同士の口約束ではあるが、舞子と航の二人は彼らにより許嫁と決められている。だから航はそうするべきだと思って生きてきた。両親含め周りがそれを望んでいることは重々理解していたし、幸いにも舞子は自分を好いてくれている。だからそれで良かった。良かったはずなのだ、それなのに。 "貴方、本当に彼女のことが好きなんですか?" 満の言葉が脳にこだまする。 当たり前だと思う一方で、本当にそうなのだろうかという疑念が生まれてしまった。 それは小さな小さな黒い染みに過ぎないが、確実に航の心の中に存在し、消えることはない。 また、航は同時に舞子というものがありながら、どういう形であれ、他人に体を許すのは裏切りなのではないかという罪悪感にも苛まれている。 満は体だけ自分に寄越せと言ったが、では心さえ守りきれば、裏切りではないと言えるのか。 いや、そんな都合の良い話があるものか。 やはり体だけでも関係を持てば、不貞に当たるだろう。 そんな考えがずっと堂々巡りをしていて結論が出ない。ただ一つ思うのは、やはりこうなった以上、本来なら舞子とは別れるべきなのだろう。 だがしかし、何を理由にしたらいい。 正直に事情を話すなんてことは勿論出来ない。 安直な理由での分かれ話は、彼女を酷く傷つけることになるだろう。そして何よりも、両親族の期待を裏切ってしまうことになる。そんな事が許されるのか。 祖父と母親のことがあるからこそ、航は不貞が許せない。なのに、自分がそれを行わざるを得ない状況に追い込まれている。 どうしたらいいかわからない。 相談できる相手はいない。 苦しい。 やはり、舞子と別れるわけにはいかない。 苦しい。 航のスマートフォンがまた震えた。 着信名に、吉高 満という文字が見えたので思わずそれを向こうへ投げつける。 恐ろしくてたまらず、航は息をつまらせながら後ずさり、光り続けるスマートフォンの画面をただ見つめることしかできなかった。 それを取る勇気がどうしても出なかったのだ。 一方、その頃。 隣にある弟の部屋で、誉がリビングエリアを覗きながら申し訳無さそうに言った。 「あんなに手間かけさせちゃうなら、ダイニングで食べるようにすればよかったね」 「何で?」 二人は今、カイの部屋のベッドルームエリアで待機をしている。リビングエリアを見ると、使用人が4名と瀬戸が、ソファーセットを除け、代わりに先ほど部屋に運び込んだダイニングセットの用意をしていた。 誉はベッドに座るカイの元に戻りながら続ける。 「部屋食というから、てっきりあのソファーとテーブルで食べるのかと思ったよ」 「あれじゃ食べにくいじゃん。テーブル低いし、遠いし」 「もしかして今日は俺がいるから特別とかではなくて、君が部屋でご飯を食べるときは毎回この作業が発生してるの?」 「うん。具合悪いときはベッドで食べるけど」 道理で瀬戸が食事の三十分も前に来たわけだ。 誉はようやく合点が行く。 「そもそもだけど、何でダイニングで食べないの?」 「部屋から出るのめんどくさいじゃん」 「……」 その君の面倒臭いを解消するために、大人5人がもっと面倒な事をしているわけだが、それについて思うことはないらしい。むしろ当たり前だとすら思っていそうだ。 そんな無神経且つお姫様気質のカイは、誉の横にちょこんと腰を下ろしてもたれながら先ほど渡した暗記用のテキストを捲り眺めている。ちなみに思い通り誉がお泊りする事になったので、彼は今、とてもご機嫌だ。 一方で誉は、向こうに人がいると思うとカイを大胆に愛でるわけにもいかず、その頬をやわやわと撫でるにとどめている。非常に手持ち無沙汰である。 するとカイがふとプリントから目を離し、誉を見上げる。そして頬を撫でていた腕を取ると、顎の方に導いた。だからその通り撫でてやると、こそばゆそうにモゾモゾした後、ふにゃっと気の抜けた顔をする。心地良いのだろうか、まるでウサギみたいだ。とても可愛らしい。 「カイは撫で撫でされるの好きだねえ」 その様子に癒やされながら誉がそう言うと、珍しくカイは素直に頷いた。 「きもちいから好き」 「カイは気持ちいいこと大好きだもんね」 "キスとか、エッチなこととか" 最後のは耳元で囁く。するとカイはポッと顔を赤らめた。 「あはは、茹でタコさんみたいだ」 「お前が変なこというからだろ」 「そう?俺は好きだよ。 エッチなことも、気持ちよくてトロトロになっちゃうカイも。凄く可愛くて愛しい」 「エッチじゃねーし。可愛くねーし」 「じゃぁ、今日はしない?」 「……」 「お風呂も一緒に入るつもりだったけど、やめとく?」 「する。入る」 「即答!やっぱり期待してたじゃないか」 「してないし!」 カイはバッと誉から離れ、顔を赤くしながらそれを否定する。素直なカイも可愛いが、この強がりがある方が、よりカイらしくていいと誉は思う。 すると、丁度そこで瀬戸がベッドルームへと戻ってきた。 「お待たせ致しました。 お夕食の準備が整いました」 「わかった」 「坊ちゃま、お顔が真っ赤ですが、どうなさいましたか?お熱を計りましょうか?」 「具合悪いわけじゃないから、平気!」 瀬戸に気取られたのが余計に恥ずかしかったのか、カイはそう言うと横を向く。 それを微笑ましく思いながら誉は瀬尾に礼を言い、拗ねたカイの頭を撫でた後立つように促した。 一礼した瀬戸が先にリビングルームに消えると、誉が急にカイの小さな尻に手を回し、ゆっくりと揉んだ。 「ひゃっ」 カイはそんな情けない声を出して背筋をピンと張る。 「ちょ、や、やだぁ…」 それでも気にせずにモミモミしていると、カイから甘い息が漏れ始める。 「……続きは後でね、エッチなカイくん」 誉はカイの耳元でもう一度そう囁き、そこにちゅっとキスをした。 そして尻から手を離し、先に歩き始める。 「もぉ、不意打ち禁止!」 誉はそれに対し何も言わず肩を竦めただけだった。対するカイはぷりぷりと怒りながら、誉の大きな背中を追いかけた。

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