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61.如月兄弟③
疲れた。
車から降り、航はシンプルにそう思った。
文字通り一晩中抱き潰された後、大学での講義からサークルまでしっかり終えてきたのだから当たり前だ。ちなみに満は大学に姿を現すことはなかった。
エントランスホールに入ると直ぐに左手の廊下から出てきた櫂と行き合った。
彼は航の顔を見るなりビクっと身体を震わせ2歩下がる。
「お前な……」
誉や満を前にした時と正反対のその態度が面白くない航だが、それ以上を言うのはやめた。
自分が彼にこれまでとってきた態度を思えば仕方のないことだ。
航は何も言わず階段の方に向かう。
すると背中の方から、
「おかえりなさい、兄さん」
と、意外にも弟から言葉が返ってきた。
振り返ると、同じタイミングで俯いた櫂が見えた。
「ただいま」
航はそう返すと、そのまま大きな本を一つ抱えた櫂の方に歩み寄る。
「書庫に行っていたのか」
「はい」
櫂の目前まで来ると、ふわりと独特な香りがした。
航はすぐにその香りの正体に気がつく、煙草だ。僅かに眉を寄せ、改めて弟を見下ろす。
しかし何も言わず、その頭を撫でるに留めた。
航が階段を登り始めると、櫂が3歩後ろをついてきた。すると急に航は足を止める。
そして再び櫂の方を振り返るが、何も言わない。どうしたらよいかわからなくて櫂がオドオドし始めた頃、やっと航は頭をグシャグシャに掻いて、そして言った。
「アドレス、交換しないか」
思いもよらぬ申し出に、櫂が固まる。
返事をし損ねてそのまま数十秒固まっていると、航はため息をついて前を向いた。
「嫌なら、いい」
そしてそう言うと立ち去ろうとするので、櫂は慌てた。兄のシャツを掴んで、
「あの、アドレスって、何……」
と問い返すと、航はため息をつく。
「お前そこまで疎いのか?!」
そして胸ポケットからスマートフォンを取り出したので、ようやく櫂はそれが携帯電話の番号だと察した。
「ごめんなさい……」
「いや、謝らなくてもいい。
俺の説明が不足していたのも悪かった」
兄はそう言うと、スマートフォンを櫂に向けたので、更に慌てた。
「あの、私の携帯電話は部屋にあります…」
「自分の番号も覚えてないのか」
「ごめんなさい……」
「いや、そうか。まあ、いいけど……」
気まずい空気の中、兄弟は階段を上がって行く。
櫂は部屋から携帯電話を持ってこようと思ったが、そのままピッタリ兄がついてきたので、更に動揺する。
「……何だよ」
「入らないでください」
「何で」
「何でって……」
単純に嫌だからなのだが、それをストレートに伝えると怒られそうな気がして櫂は押し黙る。
だったらさっさとアドレスを交換して出ていってもらったほうがいい。
そう判断し学習机の上の通学カバンを探ったのだのだが、兄は櫂の部屋をぐるり見渡して言うのだ。
「散らかってるな」
「……」
見やれば、向こうのソファーの上には読みかけの本、テーブルには誉のプリントが散らばっている。
学習机の上は教科書や筆記用具でグチャグチャだ。見せてはいないが、通学カバンの中もめちゃくちゃだった。櫂は昔から、整理整頓ができない。いや、本人はしているつもりなのだが、他人から見るとそうではないのだ。
「部屋の乱れは心の乱れに繋がる。
きちんと片付けなさい」
「……ごめんなさい」
早速頂いてしまった小言だが、あまり心には響かないので櫂は空返事を返す。
何だかアドレスを交換するのも嫌になってきたが、ここで拒否すればまた何を言われるかわからない。
櫂はようやくカバンの底から携帯電話を見つけ出すと、航に差し出した。
「何だよ」
「あの、どうぞ」
「いや、番号教えてくれればこちらから返信する」
「やり方がわからないので、お願いします」
「……」
そういえば、誉が櫂は文字変換すら出来ないと言っていた。それがアドレス帳の登録なんてできるはずがない。
航は櫂から携帯電話を受け取ると、
「中、見るぞ」
と一応ことわった。櫂が頷いたのを確認してそれを開く。特にパスワードも設定されていないので、すんなりとそれは開いた。
次いで、慣れた手つきで自分の電話番号を入れて電話をかける。着信が残ったことを確認して、次はメールアドレスだ。これは旧式のガラケーなので、メッセージアプリは使えない。
航は、つつがなくメールアドレスも交換し、ついでにアドレス帳登録もしてやることにした。どうせ自分では出来ないだろうから、何も言わずに勝手にやる。
櫂のアドレス帳を開くと、母親と瀬戸、それから満と誉の4件しか登録がない。
先日眼鏡を買いに行った際、友達はいないと言っていたが、どうやら本当らしい。
航はちらりと横目で櫂を見、小さくため息をついた。心身が弱く休みも多いし、クラスに馴染めていないだけなら時が解決するだろうが、もし苛められでもしていたら心配だ。
実は航は月に数度、高等部の部活の指導を手伝っている。次の機会にそれとなく後輩に聞いてみるかと決め自分の名をそこに入れると登録ボタンを押した。
「ありがとうございます」
登録が終わり携帯電話を手渡してやると、櫂はそう言いすぐにカバンにそれをしまった。
その行動で本当にこの子は携帯電話を普段使っていないのだなと航は察する。そもそもこんな古い機種を今どき使っている方が珍しい。
逆に使いにくいのではないかとすら思ったので、
「今度スマホ買ってやろうか?」
と、櫂に声を掛けるが、櫂はすぐに首を横に振った。
「こういうのが苦手なのはわかるけど、いつまでも避けてる訳にはいかないぞ。
多分お前が思ってるよりずっと簡単だし、便利だ。お前の好きな本も、重たい思いをしなくても何冊も持ち歩けるし」
すると、櫂はカバンに視線を落としたまま少し押し黙った後、小さな声で返してきた。
「眩しくてよく見えないんです」
航はハッとした。
櫂が普通の子ではないのだと改めて実感する。
皆が当たり前にできることが、この子にとっては困難なのだ。
「すまない、無神経な発言だった」
「いえ、大丈夫です」
「ごめんな」
「大丈夫です」
そう言う櫂の肩が少し震えている。
きっとこんな風に、幾つものことをこの子は諦めていたのだろう。
航の脳裏に、誉の言葉が思い浮かぶ。
"彼に何か否があったわけじゃない。望んだわけでもない。ただそう生まれついてしまっただけなんだ"
「アドレス、交換してくれてありがとうございました」
櫂は航の方を見ること無く、最後にそうとだけ言った。つまり、もう部屋から出て行けと言うことなのだろう。いつもならそうするのだが、航は今日はもう少し弟に踏み込んでみることにした。
「ちょっと俺の部屋にも来ないか」
櫂が驚いたように顔を上げ、そして俯いた。
その口が「いいえ」と言う前に、航は強引にその手を取ると、櫂と半ば強引にその部屋から出た。それから、すぐ隣の自分の部屋に向かう。
「ちょ、兄さん、あの、私」
航は何も言わずに部屋の鍵を開け、櫂を中に通すとドアを閉め、その前に立った。
櫂は諦めたように息を吐き、兄の顔を見、それから部屋の中を見回した。
初めて入った兄の部屋は、整頓されていて綺麗だ。基本的な作りは櫂のそれと同じようだった。
中を進んでいく兄の後ろについていく。
櫂の部屋にはない壁棚に、トロフィーや賞状が沢山飾られている。テニス関係ものが多いのだろうと思ったが、よく見るとピアノのコンテストやら国際スピーチ大会等々、それらは多岐に渡る。仲間たちと撮ったであろう写真も沢山ある。兄はいつもその真ん中、みんなが笑顔でいい写真だ。彼の功績も人物像も素晴らしく、まるで別世界の人間のように感じる。
櫂はそんな兄を誇らしく思うと同時に、惨めな気持ちになる。どうして同じ兄弟なのに、自分は兄のように上手く出来ないのだろう。
「どうした?」
「いいえ、別に」
航の部屋も櫂の部屋同様、リビングエリアを越えると寝室がある。一つ違うのは、更にその先にもう一つ扉があることだ。
航はその扉を開けて櫂に入るように促す。
その通りに中に入り、櫂はわっと声をあげた。
「凄い」
「だろ」
そこは壁一面、天井までの本棚が並べられていた。勿論本棚の中には殆ど満杯状態で本が几帳面に並べられている。
航は本棚から幾つか本を見繕い、渡す。
「これ」
「この前貸した本の作者の旧作。
世界観が繋がってて面白いんだよ」
「そうですか」
櫂は口元を緩めながら本棚を見渡している。
本当に本が好きなのだろう、その様子に航は目を細める。一方で、きっとこれまで本を読むくらいしか自由に出来ることがなかったのだろうと思うと胸が痛む。
「俺がいるときならいつ来ても構わないから。
古典も悪くはないが、新しい本も読んだ方がいい」
「はい」
口調こそいつもの通り感情が薄めだが、その表情は柔らかい。
航はその頭をもう一度撫でると、
「俺向こうにいるから、好きなの持っていきな。
高いところのは取ってやるから、声かけて」
「はい、ありがとうございます」
航は櫂の頭を軽く撫でてやる。
目を輝かせながら本を見る櫂を見、航は部屋を出た。これがきっと誉や満ならば、一緒に選んでやれるのだろう。もしかしたら櫂からそう請うてくるのかもしれない。
兄と弟の距離は、まだまだ遠い。
かけ違えたボタンを正すには、まだまだ時間がかかりそうだ。
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