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62.如月兄弟④

三十分ほどで櫂は部屋から出てきた。 本を2冊その胸に抱えている。 「これ、お借りします」 そして航の姿を見つけるとそう言って頭を下げた。 「それだけでいいのか?」 書き物の手を止めて航が問うと、 「……また、借りにきてもいいんですよね」 と、本を抱きしめながら小さな声で返してきた。航は小さく笑んで、あぁと相槌を返し椅子から立ち上がる。 「折角だから、茶でも飲んでいけ」 「えっ」 「そこ座って」 「いや、私」 「いいもの持ってるんだよ、俺」 流石にそこまではと尻込みする櫂に、航はカバンから袋を取り出して見せる。 袋には見慣れた端麗な文字で「櫂へ」と書いてあった。丁寧にハートマークまでついていた。 「誉先生…?」 「そ。櫂に渡せってうるさくてさ。 ちょうどいいや」 袋の中に入っていたのはシフォンケーキだ。 「本当はパンケーキが良かったけど時間が経つと固くなるとか何とか言ってたな。 ちなみににんじん、カボチャ、ほうれん草だそうだ。それから……」 航はそう言いながら、リビング左手の部屋に引っ込んだ。実は家族の各個室には化粧室、シャワールーム、ミニキッチン、手洗いが設置されている。実は一人あたりの専有面積は誉のアパートよりも広い。 航は直ぐにお茶セット一式ををトレイに載せ戻ってきた。全てを瀬戸に任せきりの櫂とは違い、部屋の施設を活用しているようだ。 航はシンプルな皿にシフォンケーキを載せながら、 「なんかこのヨーグルトソースをかけろっていうんだよ」 と言ってそれを横に添えてくれた。 「誉先生のヨーグルトソース美味しいですよ」 「あぁ、食べたことあるのか」 「はい。よく作ってくれますよ。 あれ、兄さんは食べないんですか?」 「や、俺はいいよ。お前に向けたものだし」 「どうせなら一緒に食べましょうよ」 「うーん、じゃあお言葉に甘えるかなあ」 「はい、誉先生のお菓子はとっても美味しいです」 「あいつ、ホントにマメというかなんというか。料理が上手いんだよな」 「ご実家がレストランだって言ってましたよ」 「えっ、そうなのか。知らなかった。 ご両親がシェフなのかなあ。 だとしたら上手い筈だ」 「そうですね……」 「あ、紅茶はもう少し待とう」 「こだわるんですね」 「おう、紅茶は結構うるさいぞ」 「兄さんは珈琲ってイメージでした」 「珈琲もやばい。奥が深過ぎる。 今結構マジで農園買うか悩んでる。 あ、お前も一緒に買うか?」 「いや、いらないです……」 紅茶のいい香りと甘いお菓子に、眼鏡付きの櫂でも、顔がほころんだ。それを見て航は安堵する。先日の様子から、よもや解離性同一障害かと思ったがどうやら違うようだ。 そしてお茶を飲みながら、航がふと言う。 「そういや期末試験の勉強、かなり頑張ってるらしいな。この調子ならバッチリだって誉がデレデレしながら褒めちぎってたぞ」 「デレデレ……。 それに、全然そんなことなくて」 「そうなのか?」 櫂はティーカップを置いて俯く。 「実技教科が、難しくて……」 「あー」 航はそういうと頭を掻き、それから 「ちょっと待ってな」 と言って席を立った。部屋の入口そばにある棚を開いて、何かを探している。 その様子を見守りながら、櫂は一口誉のシフォンケーキを食べた。 甘すぎず、あっさりしていて非常に櫂好みだ。 後で美味しかったよと誉に電話しようと思ったところで航が戻ってきた。 どかっと机の上に置かれたのはノートだ。 「兄さん、これは……」 「高校の時の俺のノート、とりあえず一年のときの分全部」 物持ちの良さもそうだが、ともかくその量が半端ない。櫂は恐る恐る一冊手に取ってみる。 こちらもまた誉に負けず劣らず綺麗な文字で、わかりやすく、そして美しくまとめられている。 そういえば兄の文字をきちんと見たのは初めてだ。 「一応教科ごとあって……。 このピンクのマーカーで染めてるやつ、これはテストに確実に出る。黄色は打率七割、青は五分五分だな」 「何故そんなことがわかるんですか?」 「世代別に先輩から過去問貰って統計取った」 「それ、ズルくないですか」 「何を言う、傾向と対策だ。 予備校の参考書だって似たようなもんだろ」 「そうですけど……」 「ちなみに過去問はこのファイルの中。 だけどそのノートがあれば使うことはないと思うけどな。ま、全部やるよ」 「……ありがとうございます」 「2年以降のは嵩張るだろうし、またその時な」 「はい、ありがとうございます」 櫂はページを巡り中身を流し見て確認する。 ピンクのラインが引かれた所は、誉の宿題出もよくでてくるところだ。 「今まであまり成績に頓着してない感じだったが、何か心境の変化でもあったのか?」 すると航がそんなことを問うてくる。 櫂は言うか言うまいか考えたが、協力しようとしてくれた兄ならばとその思いを伝えてみることにした。 「あの、笑わないで聞いて……あと他の人には内緒にしてほしいんですけど」 「ん?あぁ、随分仰々しいな」 「ええと、その。 私も医学部に行きたいと思って……」 その瞬間、航は眉を上げ目を丸くしたが、すぐに 「そうか!」 とだけ続けて嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑う。てっきり否定されると思っていたのに、驚くほどの喜びぶりに、櫂は逆に面食らって言葉を失う。一方航は、紅茶のおかわりを櫂についでやりながら、 「そしたら一緒に通えるな!楽しみだな!」 と、かなりご機嫌の様子だ。 「あの、兄さん…」 「ん?」 「……私、行ける思いますか?」 「何が?」 「だから、その、医学部……」 「行けるだろ。 逆になんで行けないと思うんだ?」 「や、でも……」 「やれると思ってやらないと、出来るものも出来ないぞ」 「はい……ごめんなさい……」 「まあ、確かにお前の場合、課題はあるが……」 航は顎のあたりを撫でながら少し考える素振りをした後、また笑顔で櫂に言う。 「よし、ジョギングしよう、俺と」 「はい?」 「お前の課題と言ったら体力だろう。 医学部ってのは体力がいる。 だからジョギングして体力つけよう。 次の定期検診いつだ?俺も一緒に行って医者に話してやるよ」 「いや、だから、その。 それは入った後の話で、私がしたいのは入る前の話で……」 「入る前?何で?何か課題あるか?」 「えっと、学力とか……その……」 「勉強してるんだろ? なら学力はついてくる、問題ない」 航の圧倒的強者の理論に櫂は頭が痛くなってきた。また、信じられないくらいポジティブだ。 しかし、それが航の強さなのだと櫂は納得してしまった。 「何だよその顔、自信持てよ」 俯いてしまった櫂に、航は言う。 「大丈夫だ。絶対できる」 その言葉に、櫂は顔を上げた。 航はそんな櫂に手を伸ばし、頭をグシャグシャに撫でた。 「お前なら、出来る」 見上げた兄の顔は真剣で、櫂は何だか泣けてきてしまった。そんな風に真っ向から肯定してくれる人が、こんな近くに居たなんて思わなかった。 そのまま涙がこぼれそうになったから再び俯きながら頷いた。 単純かも知れないが、あの完璧な兄がそう言ってくれるなら、もしかしたら本当に大丈夫なのかもしれないと初めて思えた。 「ありがとうございます。 私、頑張ってみます」 そう答えて顔を上げると、航が右手を差し出してくれていたので、ぎゅっとそれを握ってはにかんだように笑った。 櫂が自室に戻ったことを確認し、航はそっと部屋から抜け出した。 向かうのは父親の部屋である。 鍵を開け中に入ると、また鍵を締める。 そしてそのまま寝室の更に奥にあるサービスルームへとまっすぐに向かった。 ワインセラーを越えるといくつか棚がある。 その中に、睡眠薬と煙草の箱が入っている箇所があった。航はその残量をチェックすると小脇に抱えていた紙袋を探り、それぞれを補充していく。 ここからこれらをくすねているのが弟の櫂だということを、航はもう随分前から知っている。 そしてそれを知りながら定期的に補充し続けていた。 本当は止めさせたい。 しかし無理に止めさせては、櫂がまた"壊れて"しまう、あの時みたいに。ならばまだこの方がマシだ。それは航の独断で、そして苦渋の決断だった。 それでも以前に比べ、それらが減るスピードがかなり遅くなった。良い兆候だ。 そしてそれは、誉のお陰にほかならないのだろう。このまま櫂が落ち着いて、これらがいつか不要になることを航は願うばかりだ。 用事を終えると航は父親の部屋からそっと出た。 自室のドアノブを握りながら櫂の部屋を一瞬見やった。そして小さく息を吐き、部屋の中へと歩を進めた。

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