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63.高等部

櫂は昨日より航から貰ったノートにずっと目を通している。 それを読めば読むほど、兄がどれだけの努力を積み上げてきたかが分かる。全てが完璧な兄は才に恵まれていて、どんなことでも簡単にできてしまうのだと櫂は勝手に思っていたが、全然違う。彼の礎にあるのは気が遠くなるほどの量の努力だ。 ふと気がつくと周りが起立していたので、櫂は慌てて立ち上がる。 そしてワンテンポ遅れで礼をした。 放課後になり俄にざわめき始めた中で、櫂はやっと学校が終わったことに安堵の息をつき、先程配られたプリントをぐしゃりと丸めて鞄に放り込む。 「あいつ、今日も一言も喋んなかったな」 「入学以来、無言記録また更新だな。 どこまで行くか賭けるか?」 そんなクラスメイトの声を背に、櫂はそのまま教室を出た。 一方で、その足取りはいつもよりずっと軽い。 今日は金曜日。 そして、これから誉の部屋に行くのだ。一昨日、航と満と分かれた後に誉と約束をした。何と2日間のお泊りまで含めて母の許可も取れたと昨夜誉から連絡があったから、櫂は嬉しくてたまらない。 今日はこのまま帰らず、誉と待ち合わせることになっている。約束の場所は、図書館だ。 誉は講義が終わるのが少し遅いらしいが、本を読んでいれば全く気にならない。 はやる気持ちで廊下を降り、昇降口に向かう。 すると何やら下駄箱の方がザワついている。何かあったのだろうか。 不思議に思い歩を進めると、その原因は直ぐにわかった。 「あ、櫂〜!」 そのざわめく人波の向こうには、誉がいた。 そして彼は櫂の姿を見つけると大声で名を呼び、満面の笑みでこちらに手を振ってきたのだ。 周囲の視線が一気に櫂に向く。 その瞬間櫂はどうしたら良いかわからなくて固まった。しかし誉は全く意に返さぬ様子で昇降口を上がり、人波をかき分けてズカズカと櫂の方に寄ってくる。 「さ、帰ろ」 その差し伸べられた手をどうしたら良いかわからずに櫂が見つめていると、誉は櫂の手を取りぎゅっと握る。 すると、今度は櫂の背後から声がした。 「あ!先生!」 「え?卯月先生?」 「え?誰!?凄いイケメンなんだけど!」 「予備校の先生だよー。ほら、駅前の」 「ほんと?!私も通いたいんだけど!」 するとその声につられてまた人が集まってくる。すぐにそれは十人ほどになり、誉と櫂を囲む。その中には、櫂のクラスメイトも何人かいる。先生、先生の大合唱を聞きなから櫂は眉を寄せた。 「おや、君たちも帰りなんだね」 「卯月先生、こんなところで何してるんですか?」 そう声をかけたのは、櫂のクラスの学級委員長だ。櫂にかける時とは違い、ワントーン高い優しい声だった。 「櫂くんのお迎えに来たんだよ」 「先生、如月知ってんの?」 「もちろん。とってもよく知ってるよ。 僕、この子の家庭教師だからね」 「ええっ、先生、カテキョのバイトもしてるの?いいなあ、うちにも来てくださいよ」 「俺も俺も!」 「私も!」 「あはは、だーめ。 基本的に家庭教師のご依頼は受けてないんだ」 「え、じゃあなんでこいつのはやってんの?」 すると誉は櫂を抱き寄せて、 「この子は特別」 と、人差し指を立てニッコリ笑いながら答えた。ええっと周りから声が上がる。 櫂はそんな誉の手から逃れようとするのだが、がっちり腰を抱かれているので逃げられない。 「なにそれ、ずるい!」 生徒たちが口々に何かをいうので、また辺りがざわついてしまう。 それを見ながら誉は頭を掻き、櫂に向かってヒソヒソ声で言う。 「何だか大騒ぎになっちゃったねえ」 「こんなところに来るからです。 そもそも、図書館で待ち合わせじゃなかったんですか」 「思ったより早めに終わったんだよ。 それでね、そういえば高等部って行ったことないなあと思ってさ。 だから、迎えに来ちゃった」 「……」 「怒ってるの?」 「……」 櫂はフイと横を向いてしまう。 それを見た誉は肩をすくめて息を吐き、 「それじゃぁ、みんな。また、予備校でね」 と爽やかにそう言って手を振りこの場を収めることにした。 その隙にスルリと誉の腕から脱出した櫂は、そのまま靴箱に直行する。 そして誉を置いたまま昇降口を出ていった。 「あいつ、卯月先生にも感じ悪〜」 「先生、気にすんなよ。 あいつ、いつもそんな感じなんだから」 「そうそう、喋ってるの誰も見たことないしね」 「ほんっと、何考えてるかわかんねーよな」 「こらこら、クラスのお友達のことをみんなで悪く言っちゃ駄目だよ。幾ら相手に非があっても、よってたかって1人を攻撃したら、加害者になるのは君たちだ。気をつけようね」 誉はそうとだけ言うと、櫂を急いで追いかける。 昇降口を出ると、校門の方へと向かう小さな背中を見つけた。駆け寄るが、櫂は誉の方を見ない。 そのまま校門を出て足早に関係者向けの駐車場の方へと向かってしまう。 だから、誉はその前に割り込んだ。 すると櫂は足を止めて、ようやく誉を見上げた。閉じた下唇が少しだけ出っ張っている。 怒っているというよりは、拗ねているように見て取れた。 「櫂」 もう一度優しく声を掛けてやる。そうすると櫂は誉の上着の裾に手を伸ばして、その端っこをぎゅっと握った。 「……先生だもん」 「え?」 「誉先生は、私の先生だもん……」 そしてそうぽそっと言って俯いた後、横を向く。 誉はてっきり勝手に高校まで押しかけたことを起こっているのかと思ったのだが、そうではないらしい。櫂が気に入らないのは、自分以外の人間が誉を先生と呼んでいたことなのだ。 つまり、単純にヤキモチだ。 「もう、櫂〜!」 その瞬間、誉は櫂への愛しさが溢れて止まらなくなる。胸キュンとはまさにこのことだ。本当に心臓が痛くなるくらい胸が高鳴る。 可愛くて愛してたまらない。 感情のやり場がわからなくなった誉は思わず人目もはばからず抱きしめてしまう。まだ学校の近くなので櫂が嫌がるかと抱きしめた後に思ったが、意外なことに何の抵抗もなかった。 「そうだよ。 俺のことを"誉"先生て呼んでいいのは櫂だけだよ。だからみんな卯月って言ってたでしょ。 櫂だけ特別だよ」 多幸感で胸をいっぱいにしながら誉がそう囁くと、櫂はこくんと頷いて抱きしめ返してくれた。 するとその時、誉は背後から気配を感じて振り返る。向こうの曲がり道の影に何かが隠れた。 「櫂、ちょっと待っててね」 「…はい」 誉はそう言うとその方へと向かう。 道を曲がり少し行った先に、視線の主はいた。 さっき集団の中にいた子だ、そして誉はその子に見覚えがある。 「あ、卯月先生、その」 「小泉さん。ついてきちゃったの」 そうだ、彼女は櫂のクラスの学級委員長だ。 「ごめんなさい」 彼女は誉を見上げると頬を赤らめ、そして俯いた。誉は敢えて屈んで彼女に顔を近づけ、にこっと微笑む。 「ううん。それ別にいいんだけど……。 丁度良かった、僕も君に渡したいものがあったんだよね」 「え…?」 そして誉は鞄から一冊の本を取り出した。 「この前予備校に忘れて行ったでしょ。 悪いけど少し中身見させてもらって、これは予備校に提出せずに直接渡したほうがいいかなと思ってさ」 本屋のロゴが入ったブックカバーに包まれたそれを見、彼女は顔を更に赤らめながら受け取る。 「あ、ありがとうございます」 「もう忘れないようにね」 「はい…」 そそくさとそれを自分の鞄にしまう彼女に、誉は畳み掛けるように続ける。 「ところで、君、学級委員長って聞いたけど。 もしかして、櫂くんと同じクラスだったりする?」 「はい、そうです」 「そう!それはよかった。 なら、櫂くんのことは知ってるね」 「ええ、如月くんとは小学校から一緒なのでよく知ってます」 「なら話が早くて助かるよ。 ご存知の通りあの子は体調面に課題があるでしょ。だからあんまり人との付き合い方がわからないんだよね。 さっき喋ってるの見たことないって話があったけど、悪気があるわけじゃなくてね。 どうしたらいいかわからなくて喋れないんだ。本当はね、とってもお喋りなんだよ」 「そう……ですか」 「それでね、君だからこそお願いするんだけどね。クラスでほんの少しでいいから、あの子が輪に入れるように助けてあげてくれないかな」 「……」 そのお願いに委員長は少し考える素振りをし、それからしっかり頷いた。 「わかりました。 私もクラス委員長ですから、クラスの皆が楽しく過ごせるようにするのが仕事です」 「流石だね。ありがとう、助かるよ。 君に頼んで良かった」 誉はそう返し、最高の笑顔を彼女に向ける。 そしてまた顔を赤くする彼女に、一枚のプリントを差し出した。 委員長はそれを受け取る。右上に手書きで電話番号とメッセージアプリのIDが書いてあった。 更に視線を下に向けると、どうやら予備校のお知らせのようだ。 「来月、生徒の皆に出すお知らせなんだ。 僕、実は集団クラスじゃなくて個人指導の方に異動になるんだよね。 もし良ければ君はこっちにしない?君は優秀だし、集団クラスだと物足りないでしょ? こっちならもっと細かく教えてあげられるから。もし君の都合が悪くなければ、ここ、僕のアドレスに連絡してくれる? 塾長に便宜計るように言っておくよ」 そして最後の一言は、彼女の耳元で囁くように言う。 「特別だよ」 委員長はコクンと頷く。その顔はさっきよりもずっと真っ赤だ。 「ありがとう」 誉はそう言うとまたニッコリ笑って彼女から離れる。 「あの!」 背を向けると、委員長が声を上げた。 「さっき、櫂くんのこと特別な子って言ってましたけど、それって」 「んー?さっきの、見ちゃった?」 「えっと……はい…あの」 誉は振り返り様に目を細めて笑むと、下唇に人差し指を押し当て、"秘密"のジェスチャーをして返す。そして右手を振りながら、ゆっくり歩を進め櫂の元へと戻った。 「お待たせ」 「何かあったんですか?」 誉の姿が見えると、また拗ねた様子で櫂が駆け寄ってくる。 「んー、ワンちゃんが居たね」 「ワンちゃん?」 「そ、優秀で従順なワンちゃん」 「?」 誉は首を傾げる櫂の頭を撫でる。 すると油断しているのか櫂が手を差し出してきたのを握ってやった。 また視線を感じたので誉はそのまま櫂の肩を抱く。すると櫂が顔を上げたので、視線の主に見せつけるように、その額にちゅっとキスを落とした。

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