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71.デートの前に①

「若さま、もう少しでパーティーが始まります。 ペンギンさんとはもうバイバイしましょうね」 「いやだ。ペンギンさんといっしょがいい。 じゃなきゃ、ぼく、行かない!」 航は幼い頃から数え切れないくらいの接待やパーティーに出席していた。跡取りとして、またそれに相応しい人間だと親族に周知させる事が目的だった。 そのため、航は物心がついてすぐに祖母から礼儀作法やマナーを徹底的に叩き込まれた。 幼少から、常に一族の跡取り息子として完璧であること、その役割を果たすことを課せられていたのだ。 しかし、その日に限っては、どうしても気が乗らなかった。その理由はもうとうに忘れたが、ともかくその日は人前に出るのも、知らない大人たちに愛想を振りまくのも、どうしても嫌だったのだ。 それで朝から愚図り倒した上で、瀬戸に宥められて何とかやってきたホテルの控え室では、大好きだったペンギンのぬいぐるみを胸にずっと抱いたまま泣いて過ごした。 そうしていざ出る時間になったが、今度はどうしてもそのぬいぐるみから離れたくなくて、また航は泣いた。今までないくらいの大きな声で泣いた。 とうとう他のゲストや親族が同じ様に控え室から廊下にでてくる時間帯に差し掛かる。 それなのに、跡取りさまが癇癪を起こし号泣しているという醜態を晒すわけにはいかないと困り果てた瀬戸が開いたドアを閉めようとした所で現れたのは、当時航が一番恐ろしくてたまらなかった祖父だった。 そして瀬戸がドアを閉めた瞬間、「如月家の跡取りが、このような醜態を晒すとは何事か」と、彼は航を怒鳴りつけ、その頬を容赦なく平手で打った。 その衝撃でよろけて倒れ込んだ航を見下ろし祖父は言い放つ。 「身の程を弁えろ。 お前は将来、この如月家を背負う人間なのだ その責務から簡単に逃げられると思うな」 そして彼は航の横に転がったぬいぐるみをつまみ上げる。 「如月家の跡取りともあろう者が、こんな女々しいものに執着するとは情けない。これは処分しておく」 「旦那さま、申し訳ありません。 お言葉ですが、処分だけはご勘弁くだはい。それは若さまの大切な」 「瀬戸、甘い。何のためにお前がついているのだ。子供の戯言に付き合うんじゃない。さっさと身支度を整えてこの痴れ者を連れて来い」 「……しかし」 「じぃ、もういい」 二人に割って入り、航は絞り出すような声でそう言い立ち上がる。 そして祖父に向き直ると、頭を下げた。 「おじいさま、ごめんなさい。 ぼく、ちゃんとやります」 祖父は目を細めた後、航を見ることなく部屋から出て行く。その背中を見送る航の硬く握られた拳が震えているのを、瀬戸は眉を寄せながら見つめていた。 "嫌な夢を見た。 寝る前にあんな話をしたせいだ" 意識の浮上と共に、航はため息をつく。 そして次の瞬間、自分が満と向き合いで、しかもしっかり抱かれて眠っていたことに気がついて慌てて身を引いた。そのまま向こうの壁まで逃げた所で、満が薄く目を開ける。 「お目覚めですか」 「うん」 「まだ早くないですか……? ……5時……?信じられない」 満は朝が弱い。 口調がいつもよりゆっくりで、ぼんやりしている。そして欠伸混じりにスマホをサイドテーブルに戻し、布団を上げた。それからトントンと航がねていた場所を叩く。戻れと言う意味だ。 「いや、俺は起きる。 ジョギングしないとだし」 「ジョギング?こんな朝早くに?正気ですか」 「日課にしてる」 航がそう答えるや否や、満の大きなため息が聞こえた。それから彼は後頭部を軽くかいて、もう一度指先で同じ場所をトントンと叩く。 「駄目です。今日はジョギングはお休み。 貴方、昨日は相当疲れたはずです」 「もう寝たから治った」 「自分の身体に無沈着過ぎます。 水分を取らないのもそう、きちんと休まないのもそう。ちゃんと身体の声を聞かないと、いつか破綻しますよ」 「だから大丈夫だって」 「駄目です、命令です。 貴方に拒否権はありません。戻って」 そう言われると逆らえない航は、渋々布団に戻る。足を差し入れると直ぐに満の手が伸びてきて、まるでぬいぐるみのようにぎゅっと抱きしめられた。普段は蛇のように冷たいのに、寝起きだからか体温が高い、温かい。 「休むことも大切なトレーニングの一つですよ。もう少し身体を大切にして下さい。 大事なお身体なんですから」 「その大事なお身体に無体を強いてる奴に言われたくないし」 「無体?心外ですね。昨夜もあんなに気持いい、気持ちいいと泣いて善がっていたくせに」 「あれは!あれは、お前がっ」 「はいはい、すぐ興奮しない。落ち着いて。 いい子にねんねしましょうね」 満は穏やかにそう言うと、航の背中をポンポンと撫でる。 「ちょっ、子供扱いすんな!」 「寝ないなら、失神するまで犯して強制的に寝かせますよ」 「……寝る」 「はい、おやすみなさい」 満の胸に頬がくっつく程密着させられる。 規則正しい心臓の音と、心地よい温かさ。 そして背中を撫でられる気持ちよさに、航はまたすぐにうとうととしてきた。 普段二度寝なんてしないし、出来ないのだが、満が言う通り少し疲れているのだろうか。 「あのぬいぐるみさ……」 眠気と共にさっきの夢を思い出した航は、次の眠りにその嫌な気持ちを引きずるのが嫌で、昇華させるためにポツリと言う。 普段ならあまり他人にこんなことは話さないのだが、満には既に一番格好悪い弱みを握られている。これ以上のマイナスはないと思うと、もう彼には何を話してもいいような気がしていた。 「ぬいぐるみ?ああ、ペンギンの」 「うん。幼稚園の頃、夏休みの思い出を書きましょうっていうのがあってさ」 「ああ、よくありますね」 「そ、よくあるアレ。 皆が家族で過ごしてる絵を書く中、俺だけ瀬戸と海に行ったのを書いたんだよ。 両親揃って一緒に何かしたって経験が一つもなかったからさ。家族の絵を書くなんて発想すらなかった。 そしたら、それを見た祖母が体裁が悪いって怒ってさ。それで初めて両親と水入らずで水族館に行ったんだ。その時に買ってもらったのが、あのぬいぐるみだった。凄く嬉しかった。 結局、後にも先にも両親と出かけたのってそれ一回だけだったけど、あのぬいぐるみを抱いてるとその時楽しかったことを思い出して、寂しくても、辛くても頑張れたんだよな」 「そんな大切なものを捨てられて、よく心が折れなかったですね」 「その時は凄く悲しかったけど、ぬいぐるみがないと眠れない位依存してたのも事実だったし。お陰で他に依存しちゃいけないと学べたから、まあ、アレはアレで良かったんだよ。物も、人も、いつまでも自分の手の中にあるとは限らないからな」 満は何も返さなかった。 ただ、航を抱き直すと、ふわふわの髪をゆっくり撫で始める。 航はその意図を理解出来なかったが、温かい体に包まれる安心感と、そのやさしい手が心地よくて抵抗する気は起きなかった。 それに、こんな風に誰かと眠るのは、かなり久しぶりだ。 ふと、ぬいぐるみを捨てられてしまった後、冷たい一人のベッドが寂しくてたまらなくて、何度も泣きながら瀬戸に一緒に寝てくれと請うた事を思い出す。瀬戸は使用人は同じベッドに上がることは出来ないのだと自分を諭し、その願いを叶えてくれることは無かったけれど。 すぐにまた小さな寝息を立て始めた航の顔は、やはり起きている時と比べてずっと幼く見えた。それだけ毎日、気を張り巡らせて生活をしているのだろう。 大学に入り、その実際を見るまで、彼のことを家柄に恵まれただけの世間も苦労も何も知らない唯の御曹司かと思っていたし、実際そうなら良かったのにと満は独りごちる。 航に向けた苛虐欲とは別に、新たに芽生え始めた庇護欲に、満は些か戸惑っている。他人にこんな気持ちを抱いたのは初めてだ。 先程彼が語っていた通り、何にも執着しない彼が、もしどうしようもないくらい自分に依存したら、どうなるのだろうか? このタイミングで、航が満にくっついてきた。 まるでぬいぐるみのように抱きしめられて、満の腹の底が、ムズムズと疼く。 あの日の幼い航の泣き顔を、満は今でもよく覚えている。いつも皆の真ん中で、完璧な笑顔と所作を披露していた彼は全く人間味がなく、まるでそうなるように誂えられたお人形のようだと満は思っていた。だからその姿を見た時、あんな風に感情があるのだと心底驚いた。そして同時に彼に対して芽生えたのは、嗜虐心だった。生まれながらに頂点にいるあの子は、どん底まで追い詰められたらどんな顔をするのだろう。どんな風に泣くんだろう。そう考えただけで満は腹の底が疼いて、その幼い胸が高鳴った。 「参ったな……」 満はそう呟いて航の額にそっとキスを落とす。 あの時の疼きと今のそれが酷似していることを自覚したが、それ以上思考することを放棄して満は瞳を閉じた。 そして腕の中の航の呼吸に耳を傾けながら、ゆっくり意識を手放していく。

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