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特別編 誉くんと中学生櫂くん①

※リハビリでちょっと昔の話を書きました 秋も深まり、学園自慢の銀杏並木が美しく色づいていた。 一方で、誉の気持ちと足取りは、重い。 昨日は教授の手伝いで、貫徹。当然、無給。 航も同じ状況だったが、勤勉な彼はこれから午前の講義に出席するという。 誉にはそこまでのモチベーションはなく、研究室から出てそのまま帰路についた。 そんな疲れ果てた誉が思い浮かべるのは、航の弟、櫂のことだ。 誉は彼との出会いを、運命だと確信している。 彼は間違いなく自分のために天が遣わせた天使だ。絶対自分の物にする。異論は認めない。 しかし、件の事情によるアパートの建て替えが終わり、如月家を出て早一ヶ月。 航からの申し出を受け、うまく家庭教師の座におさまることで櫂との接点を全く失うことは避けられたが、それでも会えるのは毎日から週2回、合計4時間に激減。しかも彼は子ウサギのように警戒心が強く臆病なので、毎回デレてくれるまで1時間かかる。 もっと甘えてほしいし、デロデロに甘やかしたいのに、時間が全然足りない。 「はあ、櫂に会いたい……。癒されたい……」 スマホの待ち受けにしている隠し撮った櫂の写真を見ながら、誉はため息をつく。 次の授業は明日。 あと1日の辛抱だと自分に言い聞かせ、誉はスマホを閉じて顔を上げた。 するとその時、中等部に続く分かれ道の向こうに小さな人影が佇んでいるのが見えた。 少し大きめなブラウンのダッフルコート、そこからすらりと伸びた華奢な足。 その時ザァと向かい吹いた風が、その頭をすっぽりと覆っていたフードがするりと落とした。 瞬間、そのまるで奇跡のように美しい純白の髪が露わになる。 「櫂くん……っ」 考えるよりも先に、誉はその名を呼んでいた。呼び声に反応し、その子は誉の方を向く。 視線が交わると、思わずといった様子で一歩を踏み出した。 けれども、次の一歩が踏み出せずに、俯く。 まるで、躊躇しているようにも見えた。 代わりに、誉は歩を速めた。 こんな偶然があるなんて! やっぱりこの子は自分の運命なのだと誉は確信する。 「っ!」 思い余って流れるように抱きしめると、櫂はビクッと体を、強張らせた。 それでも誉が引かずにいると、おずおずと背に手を回してくる。それが可愛くて、愛しくてたまらなくて、誉は微笑んだ。 そして、その柔らかな髪の甘い匂いをすーっと胸いっぱい吸う。 誉は抱えた疲れとストレスの全てが昇華していくのを感じた。"癒し"とは、まさにこのことだ。 「あ、あの」 あまりにも長い間抱きしめていたからか、困ったように櫂が言った。 「誉せんせ……あの……ここ、うちじゃない、ので……」 「おっと、そうだったね。 櫂くんに会えたのが嬉しくて、つい」 「えっ」 その言葉に、櫂は顔を真っ赤にして俯いた。 誉は櫂のそんな仕草が可愛らしくて、愛しくてたまらない。 そして櫂は誉の胸に控えめに額を押し付けながら恥ずかしそうに続ける。 「……あの、私も、先生にお会いできて嬉しかったです。 ええと、その、ずっと会いたかった……ので」 まさに胸キュンとはこんな時に使う言葉なのだろうと誉は確信した。 というか、胸がキュンを通り越して痛い。 なんなんだ、この最高に愛しい生き物は! 「そうなんだ!ありがとう。 僕も会いたかったから、余計に嬉しいよ」 「誉先生も?」 櫂もまた、誉の言葉が嬉しかったのかパッと華やいだ顔を上げる。が、誉と目が合うとまた恥ずかしくなったのだろう、すぐに俯いてしまった。そんな様子も愛しくて、誉は目を細めながら櫂の頭をよしよしと撫でてやった。 流石に道の真ん中でいつまでも抱き合っているのは目立つので、2人は直ぐ横のベンチに移動する。 「そういえば、登校中だったのかな」 櫂は相変わらず俯きながら、コクンと頷いたが次の言葉はない。 膝の上で組んだ手が、わずかに震えている。 既に時計は十時を回っている。 とりあえず、遅刻は確定である。 櫂は、不登校児だ。 誉が如月邸に世話になっていた頃も、よくエントランスで行き渋りをしていた。 結局彼が学校に出かけていったのを見たのは、滞在していた2ヶ月間の間に、片手で数えられる程度だったように記憶している。 「中等部ってこの先なんだ? 僕、あんまりこっち来たことないんだよね」 「はい、この道を少し行った先です」 わざと違う方向から話を始めると、櫂はすんなりと答えてくれた。 「そっか。 引き止めちゃったけど、時間大丈夫?」 そして次に質問を本筋へと近づける。 すると、誉の思惑通り、櫂はしどろもどろだが話を続けてくれた。 「ええと、もう、どうせ間に合わないので……」 「おや、そうなんだ。急がなくて平気?」 「ダメなんですけど……。 だけど……どうしても、その、ここで足が動かなくなってしまって……。って、そんなの、おかしいですよね。ごめんなさい……、すぐに、行きます」 「別におかしくないんじゃない? 櫂くんは、シンプルに行きたくないだけなんだから」 誉は震えている櫂の手を上から包みながら、敢えてなんてことのないように続ける。 「でも、今日はここまでこれたんだね。 すごいじゃないか、よく頑張ったね」 「……いえ、あの、車に乗せられてきただけなので、その、頑張ってはいないです」 「ううん。行きたくもないのにちゃんと朝、制服を着て、荷物の用意もしたんでしょ。 家からすら出られない日もあるのに、今日はちゃんと車からも降りて、ここまで歩いてきたんでしょ。すごいじゃないか。 君は今日、ものすごく頑張ったんだよ。 お利口さんだったね」 「……けど、まだ学校には行けてませんし……」 「え?学校には、もう来てるじゃない。 そこの門からこっちは学校の敷地内だよ。 君は今、学校にいるんだよ」 「いや、でも」 「でも、じゃないよ。事実はそう。 君は自分で自分を追い詰める癖があるよね」 「でも……」 益々俯いてしまうカイの手を撫でながら、誉は努めて優しく穏やかな声色で話した。 「ところで、僕さあ、夕べ徹夜だったんだよね」 「えっ?あ、た、大変でしたね……」 「そう、すごく頑張っちゃってさ。 本当は朝から講義があったんだけど、どうしても講義室に足が向かなくて。櫂くんと一緒だよ」 櫂の指先がピクリと動いた。 誉はそのまま続ける。 「でさ、もう今日はこれ以上頑張るのやめようと思って。で、家に帰る途中、君とここで偶然会ったってわけ」 「そう、だったんですか……」 「うん。でね、僕、帰ったらちょっと何かお腹に入れて、とりあえず休もうと思ってるんだけど。櫂くんも一緒に来て昼寝……いや、まだ朝寝かなあ。ともかく、ウチでゆっくりして行かない?」 「えっ」 「ね、そうしよう。 もう今日はもう、頑張るのはおしまい」 「あっ、いや、ちょっと待っ……っ」 撫でていた櫂の手をそのまま握り、やや強引に誉は引っ張った。 櫂は目を白黒させながら焦っていたが、そのまま誉は歩き出す。 「先生、待っ」 「僕の家、すぐそこなんだよ」 「いや、そうじゃなくて……」 「あ、お母さんには一応話しといたほうがいいかな。電話するね」 「えっ」 誉はそう言うと、スマホを取り出した。 そして歩きながら電話をかける。 直ぐに話し始めるその様子を、櫂は心配そうに見つめた。そして、校門を出る直前で誉はスマホを下ろして、櫂にニッコリと笑いかける。 「いいってさ。良かったね」 「ほ、ほんとうに?」 「うん、快諾。 そもそも、お母さんはあんまり無理してまで君を学校に行かせたいとは思ってないみたいだけど……。今日は誰にそんなに強く言われたの?」 「……今、お祖父さまがいらっしゃってて……」 「ああ。それで、か。 ちょっといつもに比べて強引だなとは思ったんだよ。 可能なら学校が終わる時間まで預かってほしいって言われたけど、きっとそのせいだね」 「たぶん……」 「お母さんのお墨付きを貰ったんだから、もう大丈夫だよ。安心してサボろ」 「さぼる……?!」 「あ、本音が出ちゃったね」 誉がしまったと舌打ちをして頭をかくと、櫂の表情がようやく和らいだ。 それを見た誉もつられて微笑む。 そして校門を出た所で、櫂が誉の手を握り返してきてくれた。 誉は嬉しく思いながら、その小さな手をもう一度ぎゅっと強く握った。

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