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特別編 誉くんと中学生櫂くん②

自分の足で一般道を歩いたことが殆どない櫂だ。車が横を通る度に肩をビクッと揺らし、誉の腕にしがみついてくる。 同時に、握った小さな手にも力がこもる。 誉はともかくその怯えた顔が可愛くてたまらず、 ……だめだ、ムラムラしてきた と、その性欲にもダイレクトアタックである。 さて、櫂を自宅に連れ込むことにまんまと成功したわけだが、ここからどうしたら良いだろうか。 普通の相手ならば、このまま一線を越えることも容易いが、今回は櫂である。櫂なのである。 万が一ちょっとでも嫌だとか、怖いだとか、そんなことを思われたらここまで丁寧に積み上げた好感度やら信頼度やらが一瞬で崩れてしまうことは明白だ。 それだけは絶対避けなければならない。 やはりここは慎重に、今日は添い寝までで抑えるべきか。 いやしかし、目の前にこんなご馳走が据えてあるのに、我慢出来るのか。 誉がゴクリと生唾を嚥下した所で、また櫂が腕をぎゅっとしてきたので、その方を見ると赤い瞳と目が合った。 すると、櫂は頬を赤く染めながら直ぐに俯いた。それでも誉の腕を離さず、ぎゅうと抱いている。 ……あーもうやだ、信じられないくらい可愛い。 これ、我慢できる気が全然しないな……。 誉は顔こそ優しく微笑みながら、真っ黒な腹の底でため息をつく。 美味しそうな子うさぎを前に、優しいお兄さんを貫き通すのは、至難の業である。 もう少し進むと、誉のアパートが見えてくる。 先日の火災の影響で随所を直したばかりなので、まるで新築のように真新しく見えた。 「こっちだよ」 立ち止まったまま呆けた顔で建物を見上げる櫂の手を引き、誉はまずポストへと向かった。 「これは何ですか」 「ポストだよ。手紙がここに届くんだ」 「これ全部誉先生のポストですか」 「違うよ、僕のはここ。 ここに部屋番号が書いてあるでしょ。 これで他の住人と見分けるんだ」 「他の住人? ここは全部誉先生の家じゃないんですか?」 「あ、君、集合住宅の概念がないんだね……」 誉は苦笑いをしながらポストの中身を取り出して、教えてやる。 「沢山ドアがあるでしょう。 これ、一つ一つが全部違う家の玄関なんだよ。 それぞれ皆、違う人が住んでるんだ」 「ええっ」 櫂はいたく驚きながら、ポストたちを見つめている。 思った通り、とんでもなく世間知らずのようだ。けれど、そこが可愛らしい。とても良い。 「というか、本で読んだことないの?」 「うーん、長屋と似た感じなのでしょうか。 けど……それは昔の話かと思ってました」 「長屋は今も存在するねえ。 それに、こういう集合住宅はむしろ今のほうが多いんじゃないかなあ。 まあいいや、行こうか。うちは二階だよ」 誉の部屋は、二階、階段から一番奥の角部屋だ。ちなみに出火したのは、三階、反対側の角部屋だった。お陰であまり大きな被害が無かったのは、不幸中の幸いだった。 鍵を開けて部屋に入ると、櫂はまずその玄関の狭さに驚いた。 2つも靴を置けば満杯になってしまうそこを抜けると、直ぐ左右に小さなドアが1つずつあった。 誉に右がトイレ、左が洗面所と風呂だと教えられると、更に驚いた。 そこから3歩ほど歩くと小さなキッチンがあり、1人用の冷蔵庫、その上には電子レンジ。 そのまま、左から横置きにしたカラーボックスの本棚、小さなこたつテーブル、シングルベッドだけが置かれた空間が続いていた。 そこは櫂の目にはとても狭く、非常に簡素に映っていた。 一方で、初めての場所なのにとても安心だと思えてしまったのが不思議でならなかった。 「上着預かるよ」 誉にそう言われて、櫂は慌てて上等なダッフルコートを脱ぐ。 櫂の真っ白な身体が最大限映える真っ黒の学ラン姿が、誉は実はとても好きだった。 華奢過ぎて、サイズは合っているのにブカブカに見えてしまうところも、とっても可愛らしい。 「狭くてびっくりしたでしょ」 「ええと……、はい、少しだけ……。 ごめんなさい……」 「あはは、全然いいよ。 実際、僕も狭いと思うし。 逆に僕は君んちが広すぎてビックリしたよ。 おあいこだね」 誉は上着を受け取り、クローゼットに仕舞いながら、入れ替わりで櫂用の座布団を取り出す。 その上に腰を下ろし、櫂は改めて部屋の中をぐるりと見渡した。 その時、ふわりと鼻腔を抜けたいい香り。そしてその瞬間、櫂はやけに安心できた理由を察した。 ここは誉のにおいに溢れている。 「櫂くん、オムレツは食べられる?」 「オムレツ……っ」 それは櫂の数少ない好物の一つだ。 好きですと答えようと振り返ると、誉が腕まくりをして茶色のエプロンをかけていた。 いつもと違うその姿が格好良くて、櫂はドキッとしてしまう。 「チーズとマッシュルームが入ってるの、どうかな??」 「は、はい、食べられます」 「そっか、良かった」 「誉先生が作るんですか?」 「そうだよ」 「作れるんですか?」 「うん、作れるよ」 「すごいです」 「あはは、ありがとう。 じゃぁ、美味しく作るね」 誉はそう笑うと、冷蔵庫から材料を取り出す。 一通りそれを狭いキッチンに置くと、今度は櫂の前に、同じく冷蔵庫から取り出したばかりの鍋を一つ置いた。 次いでスープカップを2つその前に並べて、櫂にお玉を握らせる。 「これはスープだよ。取り分けておいてね」 「えっ」 不安げに見上げる櫂の頭を撫で、誉はキッチンの方へと行ってしまう。 仕方なく櫂は恐る恐る鍋の蓋を開けた。 中には、野菜スープが入っている。 冷たそうながらも、美味しそうだ。 そして櫂はスープの中身をお玉で軽くかき混ぜてみる。苦手な肉類が入っていないのがわかって、ホッと胸をなで下ろした。 直ぐにキッチンからバターの良い香りがしてきた。櫂はその横で何とかスープを取り分け終える。そのタイミングで誉が、 「スープ、電子レンジで温めてくれる。 2つ入れて、3分くらいかな」 「え、ええと……」 櫂はカップを持ったまま硬直した。 まず、電子レンジとは何だ。 そしてそれはどこだ。 「電子レンジはここ、冷蔵庫の上だよ」 すると誉が冷蔵庫を指差しながら、そう助け船を出した。 正直、どれが冷蔵庫かも怪しかったから助かったと櫂は思う。 「届く?気をつけてね」 「はい、大丈夫……です」 「入れたら、蓋を閉めてね。 横に"分"て書いてあるところがあるでしょ。 そこを3回押したらスタートボタンね」 「は、はい」 櫂は言われたとおり、恐る恐るボタンを押す。 すると中が光って、ヴーンと独特の音がし始めた。櫂が不安になって誉を見ると、頷いてくれた。 何となくその流れで、櫂は誉がフライパンを振るう様子を見つめ始める。 いつも食事は出来上がったものが運ばれて来るだけなのでこうやって実際に作っているところを見たのは初めてだ。 卵が焼ける音、甘くて香ばしい香り。 櫂は久しぶりに、お腹が空くという感覚を自覚さた。 そのうち、ピーピーと電子レンジが鳴った。 誉はほぼ同じタイミングでオムレツを仕上げて、テーブルに2つの皿を並べる。 更にミニトマトとレタス、いつの間に用意したのか軽く焼いたロールパンも添えた。 その横に先ほど温めたスープを置けば、美味しそうなオムレツプレートの完成だ。 「食べようか」 「は、はい。いただきます」 「はい、どうぞ召し上がれ。 あ、ケチャップつける?」 「ええと……はい」 「じゃ、こうして……」 「は、ハート!」 「可愛いでしょ」 目の前のオムレツにケチャップで描かれたハートを恥ずかしそうに櫂は見つめる。 こんな事をしてもらったのは初めてなので、どんな顔をしたらいいかわからない。 それから、ホカホカと湯気が立つ食事たち。 櫂が知っているものとはまるで別物のようにいい香りがする。 恐る恐る、箸でオムレツを割るとトロリとチーズが溢れ出た。 そのまま小さな一口を頬張ると、まず熱くてビックリしてしまう。 「大丈夫?」 櫂がオムレツを口に入れた瞬間、ぴくんと体を震わせたので、誉が慌ててお茶を差し出す。 櫂はそれを受け取って飲みながら、コクコクと頷いた。 「熱過ぎたかな?」 「いえ、あの、ちょっとビックリして……。 家の食事は、少し冷めてる事が多いので」 「ああ、確かに。 出来たてホヤホヤというよりは、5分から10分くらい時間たってる感じだよね。 お家広いもんね」 「作ってもらってこんなにすぐのもの食べたのは、初めてかもしれないです」 「そっか〜。あんなに贅沢な食卓なのに、そこはちっとも贅沢じゃないなあ。 ちょっと面白いね」 櫂は頷いて、今度はゆっくりと食べ始める。 如月邸では、彼が2、3口つついて箸を置いてしまうシーンをよく目にしたが、今日は途切れることなく食べている。 その様子に誉は目を細めた。 自分が作ったものを、夢中で食べてくれるその姿は、こんなにも愛おしい。 そして、こうやって自分が与えたものが、きっと明日の櫂の礎になる。 "ーー……あれ" そう考えると、誉はふと自分の胸が強く高鳴るのを感じた。 今はたった一食だから、それは彼を作るほんの一部だけれど。 もし、全食を自分が与えたら? いや、食事だけではなく、彼に必要なもの全てを自分が与えることができたなら? "うわあ、それ。それ、すごくいいなあ……" 自分のことだけが大好きで、自分がいないと生きられない、そんなか弱くも尊い生き物。 そんな風に育て上げた櫂を妄想しただけで、身震いするほどの嬉しさと愛しさが込み上げて止まらない。 「せんせい、誉先生」 「ん、なあに?」 「あと……ずっとこっちを見てる、ので。 その、恥ずかし……」 「一生懸命食べてくれてる櫂くんが可愛くて、ついつい」 「えっ」 「ふふ、オムレツ、沢山食べてくれて嬉しいな」 誉は微笑んでそう言うと、櫂の口端についたケチャップを指先で拭ってやる。 すると櫂はまた、顔を赤らめて俯いてしまった。 すぐ俯いちゃう癖も何とかしてあげないとなあ。可愛い顔が見えなくなってしまう。 それからそんな風に独り言ち、 「沢山食べてお利口さんだね」 と囁くと、大きな手で櫂の頭を優しく撫でてやった。

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